【吟河「学習シリーズ」補足】
三河岳精会の広報紙「吟河」では「学習シリーズ」として、岳精流の教本に掲載件数の多い中国、日本各10位までの漢詩人の紹介記事を掲載し始めました。ここにも順次補足記事を紹介いたします。
日 本 の 漢 詩 人(〇内数字はランキング順位) | ||||
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①松口月城 | ②武田静山 | ③頼 山陽 | ④本宮三香 | ⑤良 寛 |
⑥広瀬淡窓 | ⑦菅茶山 | ⑦渡辺岳吟 | ⑨網谷一才(経歴不明) | ⑩西郷南洲 |
⑩菅原道真 | ||||
中 国 の 漢 詩 人(〇内数字はランキング順位) | ||||
①李 白 | ②白 居易 | ③杜 甫 | ④杜牧 | ⑤王 維 |
⑤岑 参 | ⑤王 昌齢 | ⑤王 守仁 | ⑨陸 游 | ⑨高 啓 |
⑩曹 植 |
【参照】⇒古代中国・唐時代
【補足】
松口月城
← 岳精会会詩
吟譜(左)
ご自筆(中央)
武田静山
大正1(1912)年~ 昭和58(1983)年 山形県東村山郡(現・山形県山家本町)に生れる。本名:昌俊。岩手医学専門学校(現・岩手医科大学)卒業後、軍医大尉として北支駐屯軍に勤務、戦後 山形市内に内科「静山堂」を開業し地域医療に尽力され、勲五等瑞宝章を受章、昭和50年頃より本格的な作詩活動を始められた(総数600首以上)。「岳精流吟魂碑除幕式を祝す」(続天34)など多くの作詩を通じ岳精流日本吟院にも貢献され、顧問も務められた。昭和58年(1983)2月15日 70歳で亡くなられた。
漢詩「吉良八景」
三州の絶景吉良の
その他 教本には多数の作品がある ⇒ 詩吟ミニ講座
ご逝去後、長男で外科医の武田昌孝氏が、二世武田静山として「静山詩集」(その二)(その三)を発行された。
← また弟の武田昌憲氏が
昭和54年4月21日に村山市東沢公園内に岳精会第一の吟魂碑を建立された。
歌謡吟詠「奥飛騨慕情」(武田静山) 教本:人の巻35頁
吟詠:有田信風(岳精流) ⇒ http://takaban.seesaa.net/article/407639962.html
【詩文】
風の噂(うわさ)に一人(ひとり)きて
湯(ゆ)の香(か)恋(こい)しい奥飛騨路(おくひだじ)
水(みず)の流(なが)れもそのままに
君(きみ)はいで湯(ゆ)のネオン花
ああ奥飛騨(おくひだ)に 雨が降(ふ)る
噫(ああ)奥飛騨(おくひだ)緑樹(りょくじゅ)の霖(あめ)
清流(せいりゅう)変(かわ)らず君(きみ)を慕(した)いて尋(たず)ぬ
紅燈(こうとう)冷露(れいろ)天(てん)水(みず)の如(ごと)し
風噂(ふうそん)飄零(ひょうれい)客恨(きゃくこん)深(ふか)し
抱(だ)いたのぞみのはかなさを
知(し)るや谷間(たにま)の白百合(しらゆり)よ
泣(な)いて又(また)呼(よ)ぶ雷鳥(らいちょう)の
声(こえ)も悲(かな)しく消(き)えてゆく
ああ奥飛騨(おくひだ)に 雨が降(ふ)る
白百合(しらゆり)は薫(かお)り雷鳥(らいちょう)は呼(よ)ぶ
儚望(ぼうぼう)未練(みれん)切(しき)りに長吁(ちょうく)す
消(き)えては浮(うか)び浮(うか)んでは滅(き)ゆ酒杯(しゅはい)の影(かげ)
噫(ああ)奥飛騨(おくひだ)何(いず)れの日(ひ)か蘇(よみがえ)らん
【語釈】*紅燈・・紅色の燈火。 *冷露・・冷たい露。 *風噂・・聞こえてきた噂。 *飄零・・木の葉がひらひらと落ちるさま。 *客恨・・故郷を離れて旅に出て感じるものさびしさ。 *儚望・・はかない望。 *未練・・思い切ることができないこと。 *酒杯・・さかずき。
頼 山陽
【日本外史】
『日本外史』(にほんがいし)は、江戸時代後期に頼山陽が著した国史の史書、全二十二巻、漢文体で書かれた。文政10年(1827年)に山陽と交流があった元老中首座の松平定信に進呈、2年後に発刊された。
概要:
平安時代末期の源氏・平氏の争いから始まり、北条氏・楠氏・新田氏・足利氏・毛利氏・後北条氏・武田氏・上杉氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏までの諸氏の歴史を、武家の興亡を中心に家系ごとに分割されて(列伝体)書かれている。なお「徳川氏」は、同時代の10代将軍家治の治世まで扱うが、後半部は人事の記述が主となっている。山陽の死後、弟子の岡田鴨里が日本外史補を著作・編集・刊行した。
歴史考証は不正確で議論に偏りがあり、史書というよりは歴史物語である。(後述) だが幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響は甚大であった。また「五書・九議・二十三策」にあたる政治経済論の『新策』は、広島在住時の文化元年(1804年)に完成したが、後これを改稿し『通議』とした。天皇中心の歴史書『日本政記』(全十六巻)は「三紀」に相当し、没後門人の石川和介が、山陽の遺稿を校正して世に出した。伊藤博文、近藤勇の愛読書であったことでも知られる。頼山陽的な歴史観、国家観は幕末から維新、戦前の日本に大きな影響を及ぼした。
構 成
卷 目 | 名 称 | 卷 目 | 名 称 | |
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卷一 | 源氏前記 平氏 | 卷十二 | 足利氏後記 毛利氏 | |
卷二 | 源氏正記 源氏上 | 卷十三 | 德川氏前記 織田氏上 | |
卷三 | 源氏正記 源氏下 | 卷十四 | 德川氏前記 織田氏下 | |
卷四 | 源氏後記 北條氏 | 卷十五 | 德川氏前記 豐臣氏上 | |
卷五 | 新田氏前記 楠氏 | 卷十六 | 德川氏前記 豐臣氏中 | |
卷六 | 新田氏正記 新田氏 | 卷十七 | 德川氏前記 豐臣氏下 | |
卷七 | 足利氏正記 足利氏上 | 卷十八 | 德川氏正記 德川氏一 | |
卷八 | 足利氏正記 足利氏中 | 卷十九 | 德川氏正記 德川氏二 | |
卷九 | 足利氏正記 足利氏下 | 卷二十 | 德川氏正記 德川氏三 | |
卷十 | 足利氏後記 北條氏 | 卷二十一 | 德川氏正記 德川氏四 | |
卷十一 | 足利氏後記 武田氏上杉氏 | 卷二十二 | 德川氏正記 德川氏五 |
評価
武家の時代史であるが、史実に関しては先行諸史料との齟齬が多く、専門の学者達からは刊行当初から散々に批判された。豊後の儒者帆足万里は、「頼とやらの書いた書物は、文体は俗っぽく、且つ和臭だらけで文法的に間違いが多いのは勿論、考証は杜撰で、議論も公平でなく、味噌甕のふたにしか使えない」と、その文体、文法、考証、議論すべてを批判している。もっとも帆足は本場中国の漢文についても、古代のものを重んじ、中世以降のものを軽んじる立場であった。また実際には彼の文章は文法的にミスが多かったわけではなく、根幹ではしっかりとした正則古典中国語の文法を踏まえているが、語法、語彙レベルで日本語の影響が見られることが問題にされた。これは日本外史が日本のことを扱っているため、朝鮮や越南において地元のことを扱った古典中国語文書同様、その地独自の用語や概念はそのまま用いるほかなかったことが理由とされている。また、文体が俗っぽいという批判に対しては、保岡嶺南が「漢字をあまり知らない武人俗吏でも読めて内容をつかめる」と高く称えたように、その平明さを評価する声もある。文体、文法の問題については、西暦1875年に清国で日本外史が出版されたとき、本場の文人達からも「左伝や史記に倣った風格のある優れた文章」であると賞賛されている。
白居易
白居易遺跡(洛陽)
【中国の歴代主要官制一覧】 中国の漢詩(特に作者)に出てくる官職位(周~唐時代)の紹介
【中国の官職】中国歴代王朝における官職名変遷の一覧
唐代の主要官制および白居易の官位
時 代 | 中 | 唐 | 白居易について | |
---|---|---|---|---|
日 本 | 飛鳥 ~ 天皇制 | |||
西 暦 | 618 ~ 907 | |||
官 位 | 役 職 名 ( 職 務 ) | 官位 | 年齢(西暦) | |
宰 相 | 侍中 / 左・右僕射 中書令 | |||
諸 侯 ● 印 は 三 公 | 太師 太傅 太保 | 太師少傅 | 65 (836) | |
(天子の師・職責なし) | ||||
●大尉 ●司徒 ●司空 | 刑部侍郎 | 67 (838) | ||
(審議機関) | ||||
九 寺 ・ 九 卿 | 御史台大夫 | |||
(官吏の風紀監察) | ||||
三 省 | 尚 書 省 | 尚書令(省の長官) 尚書右僕射 尚書左僕射 | 尚書右僕射 | 死没後 |
吏部尚書(官吏人事) 戸部尚書(戸籍.財政) 礼部尚書(典礼.文教) 兵部尚書(武官任免) 刑部尚書(刑罰.司法) 工部尚書(土木.建設) | 刑部尚書 | 71 (842)退任 | ||
(行政を掌る) | ||||
門 下 省 | 侍中(省の長官) 門下侍郎 左散騎常侍 諫議大夫 | |||
(詔勅の審議他) | ||||
中 書 省 | 中書令(省の長官) 中書侍郎 右散騎常侍 中書舎人(翰林学士) | 進士及第→翰林学士 | 29 (800)→35 (806) | |
(詔勅の立案他) | ||||
地 方 官 | 府牧尹 道探訪使(観察使) 都督・都護 節度使(地方の民政) 州刺史 県令 | 中州刺史・蘇州刺史 | 47 (818)・54 (825) |
白居易の生存時代
西暦 | 元号 | 主要事項 | 詩人の動向 |
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712 | 先天 1 | 唐・玄宗皇帝即位(~756) | |
755 | 天宝14 | 安史の乱(安禄山)(~763) | |
759 | 乾元 2 | 王維死す | |
762 | 宝応 1 | 李白死す(62歳) | |
770 | 大暦 5 | 杜甫死す(59歳) | |
772 | 大暦 7 | 白居易生れる | |
779 | 大暦14 | 代宗死去 徳宗即位 宰相:楊炎 | |
785 | 貞元 1 | 白居易 長安に移る(13歳) | |
800 | 貞元16 | 白居易 進士及第 → 秘書郎(29歳) | |
806 | 元和 1 | 白居易 翰林学士となる(35歳) | |
803 | 貞元19 | 杜牧生れる | |
809 | 元和 4 | 白居易「新楽府」つくる | |
815 | 元和10 | 高官の殺傷事件が発生 | 白居易 九江へ左遷(越権行為)(44歳)隠棲の契機 |
818 | 元和13 | 白居易 中州刺史に転ず(47歳) | |
820 | 元和15 | 白居易 長安に戻る 杭州刺史 西湖白堤増築(49歳) | |
825 | 宝暦 1 | 白居易 蘇州刺史となる(54歳) | |
826 | 宝暦 2 | 白居易 病気で官吏を辞し洛陽に帰る(55歳) | |
829 | 太和 3 | 白居易 洛陽に分司する(57歳) | |
836 | 開成 1 | 白居易 閑職・太師少傅(64歳) | |
838 | 開成 3 | 白居易 閑職・刑部侍郎(66歳) | |
840 | 開成 5 | 文帝死去 武宗即位 | |
842 | 会昌 2 | 白居易 退任 香山寺(洛陽・龍門)に住す(71歳) | |
845 | 会昌 5 | 白居易「白氏文集(75巻)」完成(74歳) | |
846 | 会昌 6 | 武宗死去 | 白居易死す(75歳) |
852 | 大中 6 | 杜牧死す(49歳) |
【主な任地】
●太原(山西省太原県):生誕地
●洛陽(河南省洛陽市):唐王朝の首都 退隠居・香山寺(龍門)
●長安(陝西省西安市):唐代の大帝国首都
●杭州(浙江省杭県):杭州刺史 白堤築堤(西湖)
●蘇州(江蘇省蘇州市):蘇州刺史
●九江(江州、江西省九江県):司馬としての左遷地
詩風
白居易は多作な詩人であり、現存する文集は71巻、詩と文の総数は約3800首と唐代の詩人の中で最多を誇り、詩の内容も多彩である。若い頃は「新楽府運動」を展開し、社会や政治の実相を批判する「諷喩詩(風諭詩)」を多作したが、江州司馬左遷後は、諷喩詩はほとんど作られなくなり、日常のささやかな喜びを主題とする「閑適詩」の制作に重点がうつるようになる。このほかに無二の親友とされる元稹や劉禹錫との応酬詩や「長恨歌」「琵琶行」の感傷詩も名高い。
いずれの時期においても平易暢達を重んじる詩風は一貫しており、伝説では詩を作るたび文字の読めない老女に読んで聞かせ、理解できなかったところは平易な表現に改めたとまでいわれる(北宋の釈恵洪『冷斎詩話』などより)。そのようにして作られた彼の詩は、旧来の士大夫階層のみならず、妓女や牧童といった人々にまで愛唱された。
日本への影響
白居易の詩は中国国内のみならず、日本や朝鮮のような周辺諸国の人々にまで愛好され、日本には白居易存命中の承和5年(838年)に当時の大宰少弐であった藤原岳守が唐の商人の荷物から[元白詩集](元稹と白居易の詩集)を見つけてこれを入手して仁明天皇に献上したところ、褒賞として従五位上に叙せられ、同11年(844年)には留学僧恵萼により67巻本の『白氏文集』が伝来している。平安文学に多大な影響を与え、その中でも閑適・感傷の詩が受け入れられた。菅原道真の漢詩が白居易と比較されたことや、紫式部が上東門院彰子に教授した(『紫式部日記』より)という事実のほか、当時の文学作品においても、『枕草子』に『白氏文集』が登場し、『源氏物語』が白居易の「長恨歌」から影響を受けていることなどからも、当時の貴族社会に広く浸透していたことがうかがえる。白居易自身も日本での自作の評判を知っていたという。
禅僧との交流
白居易は仏教徒としても著名であり、晩年は龍門の香山寺に住み、「香山居士」と号した。また、馬祖道一門下の仏光如満や興善惟寛らの禅僧と交流があった。惟寛や、浄衆宗に属する神照の墓碑を書いたのは、白居易である。
『景徳傳燈録』巻10では、白居易を如満の法嗣としている。その他、巻7には惟寛との問答を載せ、巻4では、人口に膾炙している牛頭宗の鳥窠道林(741年 - 824年)との『七仏通誡偈』に関する問答が見られる。但し、道林との有名な問答は、後世に仮託されたものであり、史実としては認められていない
吟詠界では
多作な詩人であり日本への影響も大きいが、吟詠の世界では予想外に詠われることが少ない。
杜 甫
【参照】⇒ 杜甫について 三河岳精会・中国吟行会(第一次)
杜牧
杜牧 揚州の夢 愛妓・
京兆万年の人。字は牧之、号は樊川。杜佑の孫。文宗の大和2年(828)の進士。 美貌の風流才子として知られたが、名門の子弟の通例で遊興を好んでしばしば節度に欠け、そのため淮南節度使牛僧孺の幕僚だった間は将来を嘱望する牛僧孺によって密かに護衛が附されていた。 御史官を歴任して剛直かつ気節の人と評されたが、一族を養う為に転出して刺史を歴任し、上書した辺防策が認められて852年に中書舎人に転じた。“老杜”杜甫の対比で“小杜”とも呼ばれ、当時の技巧・繊麗を尊ぶ詩風に反撥して前期の平明の風を貴び、“情致豪邁”と称されて李商隠と並ぶ晩唐の代表的詩人とされる。
← 杜牧の遊興した地域(
【参照】
杜牧について
杜牧の生涯
【参考】音声による紹介
【注】曲番8 曲番9は他流派の先生の吟詠で、岳精流の吟譜とは異なります。
良寛国上山 (くがみやま) 国上寺 (こくじょうじ) 五合庵 (ごごうあん) 国上山周辺図
首 を回らせば五十有余年人間 の是非は一夢の中
欲無ければ一切足り 求むる有れば万事窮 す
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このページの最終更新日時:2020-04-02 (木) 13:25:34