【三河岳精会・中国吟行会】
上記スライドは自動送り( で手送りも可)です 詳しくは下記をご覧ください
第十一次:平成30(2018)10月 世界遺産 世界二大古都西安・洛陽5日間の旅 New
10月9日(火)から10月13日(土)までの5日間、各地を訪問し詩を吟じてきました。関東方面から13名 中部地区から12名の,詩吟に結ばれた仲間の参加です。天候にも恵まれ、この旅でしか味わえない素敵な旅となりました。
西安の城壁、西の門 | 兵馬俑一号抗遺跡 |
鸛鵲楼 | 函谷関 |
行程約750Km、専用バスで旅する | |
杜甫陵園 | 旅程図 |
Youtubeで楽しむ中国吟行会 !!
第十一回中国吟行会で訪れた各地では合吟を楽しみました。映像を背景にその合吟をYoutube画面でお聞きください。
下表中の文字列をクリックするとYoutube画面に進みます。
廬舎那仏に感動‼
第十一次中国吟行会では河南省洛陽市郊外にある龍門石窟も訪れました。
龍門石窟は中国三大石窟の一つで世界遺産にも登録されています。
深浦会長はここを代表する高さ17メートルの廬舎那仏を拝した感動を漢詩に表されました。
鸛鵲楼での感動を漢詩に‼
深浦会長は第十一回中国吟行会で一番感動したのは鸛鵲楼の最上階楼台で雄大な黄河と夕陽を前に王之渙作の「鸛鵲楼に登る」を吟じたことだそうです。
その感動を漢詩に表現されました。
左写真: 鸛鵲楼台での吟の様子
第十次:平成29(2017)年4月 安徽省・李白・桃花潭・天門山の旅5日間
平成29年4月10日(月)~4月14日(金)の4泊5日で「安徽省・李白・桃花潭・天門山の旅5日間」に行ってきました。
(下の画像をクリックすると拡大画像が見られます。閉じるときは拡大画像右下の「close X」をクリックしてください)
旅程地図 (朱記地が観光した所です) | 李白塑像前で記念写真をパチリ! |
各観光地で多くの漢詩を吟じてきました。観光と合吟の模様をYouTube動画で視聴ください。
下の文字列クリックするとYouTube動画を見ることができます。終了するときはYouTubeサイトを閉じてください。
早に白帝城を発す(李白記念館にて)
烏衣巷(劉禹錫陋室にて)
烏江亭に題す(覇王祠にて)
天門山を望む(天門山にて)
昔遊を念う(水西寺にて)
汪倫に贈る(桃花潭にて)
垓下の歌(垓下遺跡にて)
垓下の歌(虞姫墓にて)
4月12日に訪れた安徽省池州の杏花村古井文化園では、園内を観光している時、思いもよらず野外舞台で「清明」を合吟することが出来、良い思い出になりました。
(下のYouTube動画を視聴ください)
主 な 訪 問 地
下図表は上記「第十次中国吟行会・案内パンフレット」に基き作成 (画像下のコメント(太字)をクリックしてみて下さい⇒拡大・詳細説明)
安徽省周辺図 【参照】詩吟ミニ講座→中国の行政区分 | 最初の宿泊予定地 鉄鋼産業の街とはいえ美しい街並み | 烏江覇王祠 券土重来未だ知る可からず 「烏江亭に題す」 市名由来 戦に負けた項羽が自分の愛馬が無事に川を渡ったことを確認した後に、現在の馬鞍山の地域で捕縛され、殺された。項羽の死を目の当たりにした愛馬は、悲しみ川に飛び込み溺死した。それを見た船乗りが馬の鞍を近くの山に埋葬したことから、この都市の名がついたとされる。 |
上海空港(合流)─(新幹線)→馬鞍山市 中国内での移動はすべて陸路(鉄道・専用バス) | 馬鞍山市街 | 馬鞍山市内観光 |
天門山周辺 当塗県付近図 | 太白楼 李白が酒に酔い水面の月を捉えようとして溺死したとの捉月伝説がある | |
主な観光スポット | 李白記念館 | |
李白の生誕地(?)は不詳で、「李白記念館」「太白楼」は他にもある(四川省油市など) | ||
劉兎錫廟 飛んで尋常百姓の家に入る「烏衣港」 | 望天門山 両天門山 天門山唐詩選画 両岸の青山相対して出ず「天門山を望む」 | 宿泊予定地 |
湖南省張家界にも同名の「天門山」があり、 また別名を「蛾眉山」(四川省と同名)ともいう | ||
踏歌岸閣(左上) 李白舟に乗って将に行かんと欲す 忽ち聞く岸上踏歌の声 桃花潭水深さ千尺 及ばず汪倫が我を送るの情に 「汪倫に贈る」 | 李白詩を題す水西寺「昔遊を念う」 | 孤雲独り去って閑なり「独り敬亭山に坐す」 只敬亭山有るのみ「独り敬亭山に坐す」 |
白髪三千丈「秋浦の歌」 | 牧童遥に指す杏花の村「清明」 ⇒ | 力山を抜き氣世を蓋う「垓下の歌」 ( ⇒ |
清渓河 | 杏花村古井文化園 | |
中国新幹線 ⇓ 上海浦東空港ターミナル | 中国東方航空 お帰りなさい (さようなら) | 訪問地での合吟詩題 -------------------------------------------------- 烏江亭に題す 杜牧(天15) 烏衣巷 劉 禹錫(天14) 天門山を望む 李白(天183) 汪倫に贈る 李白(天24) 昔遊を念う 杜牧(続天165) 独り敬亭山に坐す 李白(続天208) 秋浦の歌 李白(天135) 清明 杜牧(天156) 垓下の歌 項籍(天40) 【参照】⇒詩文の解説 現地で詩心を味わってください! |
中国新幹線で上海へ移動 | 帰 国 |
訪問地の天候・時差
中国は日本より1時間遅い 国内の時差はありません |
合吟詩の作者
【李白】 李 白(り はく、簡体字: 李 白、拼音: Lǐ Bái、701年(長安元年) - 762年10月22日(宝応元年9月30日))は、中国の盛唐の時代の詩人である。字は太白(たいはく)。号は青蓮居士。唐代のみならず中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされる。奔放で変幻自在な詩風から、後世『詩仙』と称される。 出自: 李白の出自および出身地には諸説あり、詳細は不明である。『旧唐書』本伝の記述では山東の出身とするが、清の王琦などをはじめ、通説はこれを誤りとする。李陽冰の「草堂集序」および范伝正の「唐左拾遺翰林学士 李公新墓碑」、さらにこれらを踏まえたとされる北宋の欧陽脩『新唐書』などの記述では、李白は隴西郡成紀県(現在の甘粛省天水市秦安県)の人で、西涼の太祖武昭王・李暠の9世の後裔とする。李白の先祖は、隋末の時代、何らかの事情で西域の東トルキスタンのあたりに追放され、姓を変えてその地で暮らしていたが、中宗の神龍年間、西域から蜀(現四川省)に移住し、李白の誕生とともに李姓に復したという。20世紀になると、陳寅恪らが李白を西域の非漢民族の出身とする新説を出した。日本の研究者でも松浦友久などが、李白の父が「李客」と呼ばれ、正式の漢人名を持ったという形跡がないこと、また後年の李白が科挙を受験しなかったことなどを根拠にこの説を支持している。岡田英弘と宮脇淳子も、「有名な詩人の李白はテュルク系といわれ、杜甫の詩にもアルタイ系の言語的特徴がみられます。と述べている。楊海英も、「そもそも詩仙と呼ばれた李白自身、テュルク人(トルコ系)であった可能性が高い。また詩聖杜甫にも、遊牧民の天幕で酒を飲んで、テュルク風の踊りを楽しむのが大好きだ』という詩があるほどだ。」と述べている。 現在の中国における通説では、李白は西域に移住した漢民族の家に生まれ、幼少の頃、裕福な商人であった父について、西域から蜀の綿州昌隆県青蓮郷(現在の四川省江油市青蓮鎮)に移住したと推測する。いずれにしても、遅くとも5歳の頃には蜀の地に住み着いていたと考えられている。 生涯: 酔った李白は高力士に靴を脱がせて恨みを買ったという。「草堂集序」「新墓碑」『新唐書』などが伝えるところによると、李白の生母は太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ、名前と字はそれにちなんで名付けられたとされる。5歳頃から20年ほどの青少年期、蜀の青蓮郷を中心に活動した。伝記や自身が書いた文章などによると、この間、読書に励むとともに、剣術を好み、任侠の徒と交際したとある。この頃の逸話として、益州長史の蘇頲にその文才を認められたこと、東巖子という隠者と一緒に岷山に隠棲し、蜀の鳥を飼育し共に過ごしながら道士の修行をし、山中の鳥も李白を恐れず手から餌をついばんたこと、峨眉山など蜀の名勝を渡り歩いたことなどが伝わる。725年(開元13年)、25歳の頃、李白は蜀の地を離れ、以後10数年の間、長江中下流域を中心に、洛陽・太原・山東などの中国各地を放浪する。自然詩人孟浩然との交遊はこの時期とされ、名作「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」が作られている。732年、32歳の時、安陸県(湖北省)の名家で、高宗の宰相であった許圉師の孫娘と結婚し、長女李平陽と長男李伯禽という2人の子が生まれている。740年、孔巣父ら5人の道士と徂徠山(現山東省)に集まり、「竹渓六逸」と呼ばれることもあった。また730年あるいは737年の頃に、長安に滞在して仕官を求めたというのが近年の研究から通説となっている。742年(天宝元年)の秋、友人元丹丘の尽力により、玄宗の妹で女道士となった玉真公主(持盈法師)の推薦を得て長安に上京した。玄宗への謁見を待つため紫極宮(老子廟)に滞在していた折り、当時の詩壇の長老である賀知章の来訪を受け、この時彼から名高い「謫仙人」の評価を得ている。このように宮廷で有力な影響力を持つ2人の推薦を得て、同年の冬、李白は宮廷の翰林供奉(天子側近の顧問役)として玄宗に仕えることになる。以後の3年間、李白は朝廷で詩歌を作り、詔勅の起草にもあたった。この時期、楊貴妃の美しさを牡丹の花にたとえた「清平調詞」三首などの作品が作られ、宮廷文人として大いに活躍している。だが、抜群の才能を発揮する一方で、杜甫が「李白一斗 詩百篇、長安市上 酒家に眠る。天子呼び来たれども 船に上らず、自ら称す 臣は是れ 酒中の仙と」(「飲中八仙歌」)と詠うように、礼法を無視した放埒な言動を続けたことから、宮廷人との摩擦を引き起こし。744年、宦官高力士らの讒言を受けて長安を離れることとなった。長安を去った李白は、洛陽もしくは梁・宋(現河南省開封市・商丘市)で杜甫と出会って意気投合し、1年半ほどの間、高適を交えて山東・河南一帯を旅するなど彼らと親しく交遊した。また阿倍仲麻呂とも親交があり、754年には、前年に仲麻呂が日本への帰国途中、遭難して死去したという知らせ(誤報)を聞き、「晁卿衡を哭す」を詠んでその死を悼んでいる。安史の乱勃発後の757年(至徳2)、当時、李白は廬山(江西省)に隠棲していたが、玄宗の第16子、永王李璘の幕僚として招かれた。だが永王は異母兄の粛宗が玄宗に無断で皇帝に即位したのを認めず、粛宗の命令を無視して軍を動かしたことから反乱軍と見なされ、将軍・皇甫侁と高適の追討を受けて斬られた。李白も捕らえられ、尋陽(現江西省九江市)で数ヶ月獄に繋がれた後、夜郎(現貴州省北部)への流罪となった。配流の途上の759年(乾元2年)、白帝城付近で罪を許され、もと来た道を帰還することになる。この時の詩が「早に白帝城を発す」である。赦免後の李白は、長江下流域の宣城(現安徽省宣城市)を拠点に、再び各地を放浪し、762年(宝応元年)の冬、宣州当塗県の県令李陽冰の邸宅で62歳で病死した。『新唐書』などにある有名な伝説では、船に乗っている時、酒に酔って水面に映る月を捉えようとして船から落ち、溺死したと言われる。李白には上記の「捉月伝説」以外にも様々な伝説が伝わり、後世『三言』などの小説において盛んに脚色された | |
【杜牧】 杜 牧(と ぼく、ピン音:Dù Mù、803年(貞元19年) - 853年(大中6年))は、中国、晩唐期の詩人。京兆府(中国語版)万年県(現陝西省西安市)の人。字は牧之。号は樊川。 晩唐の繊細な技巧的風潮を排し、平明で豪放な詩を作った。風流詩と詠史、時事諷詠を得意とし、艶麗と剛健の両面を持つ。七言絶句に優れた作品が多い。杜甫の「老杜」に対し「小杜」と呼ばれ、また同時代の李商隠と共に「晩唐の李杜」とも称される。祖父に中唐の歴史家・杜佑を持ち、詩人の杜荀鶴は庶子と言われる。ほか李白や韓愈、柳宗元からも影響を受けた。長安の名門階級に生まれるが、出生時には既に衰退の途中であった。祖父の杜佑は唐の裁判所の長官で、「通典」と呼ばれる百科事典の編纂に携わる。828年、25歳で進士に及第。官吏となる。文学奨励会で編者の第一人者となる。数ヵ月後、洪州(現・南昌市)(翌年から宣城)の監督長官である沈傳師(中国語版)の側近となった。833年、31歳の時に揚州(現・揚州市)の淮南節度使牛僧孺の幕下に入り、書記を勤めた。このころ詩作を始める。揚州在任の3年間、毎晩妓楼に通い、風流の限りを尽くしたと言われる。835年、検閲官に任命され長安に戻ったが、王朝内部では彼の友人の李訓(英語版)や鄭注らと宦官が派閥闘争に明け暮れていた。自らは洛陽への転任を申し出て認められたため、その年の暮れに起こった甘露の変を回避できたとされる。以後各地で多くの官職を歴任するが、政変のため中央での出世は得られなかった。837年には失明した妹を介護世話するために揚州に戻り、その後兄も連れて宣州に向かった。最高位の左大臣や史書部上官の不正を弾劾する役職に指名され、長安に戻った。840年、配膳局の副長官に、翌年には検閲委員会副長官に任命される。その後黄州[要曖昧さ回避]・池州・睦州[要曖昧さ回避]の刺史を歴任するが、杜牧はこの処遇に不満を持ち、李徳裕を非難した。彼は自分の経歴や処遇への不満を詩に表し始めた 。848年に勲功部の副長官に任命された彼は中央に戻り、史書部上官の時の功績を表彰される。849年には吏部の副長官となった。850年には依願して湖州[要曖昧さ回避]の勅史となるが、門下省、ついで中書省の舎人となる。ところがその年病に倒れ、翌年(太陽太陰暦)に亡くなった。 | |
【劉禹錫】 劉禹錫(りゅう うしゃく、772年 - 842年)は中国の唐代(中唐)期の詩人、政治家。字は夢得(ぼうとく)。自身は中山(河北省定州市)出身と称したが、彭城(江蘇省徐州市)出身とも伝えられる。詩豪と呼ばれた。 略伝: 代々儒学者として名があった家に生まれた。793年(貞元9年)進士に及第した。淮南節度使であった杜佑の配下で書記を務めた。その後、中央政界で同じ年に進士となった柳宗元とともに王叔文の党派に連なり、徳宗末期の貞元年間から順宗期を経て政治改革を推進した(永貞の革新)。なかでも劉禹錫は財政面を担当し、王叔文・王伾・柳宗元らとともに「二王劉柳」と並称されるほど重要な役割を果たした。急激な改革だったため彼らは武元衡のような政敵を多くつくってしまう。宦官の圧力のために在位8ヶ月にして順宗が退位させられ憲宗が即位すると武元衡ら守旧派が力を盛り返し、王叔文は失脚、劉禹錫も連州(広東省連州市)刺史に左遷を命じられ、その途次で朗州(湖南省常徳市)司馬に降格となった。このとき他の主立った同志も同じように各地の司馬に左遷された(八司馬事件)。朗州での約9年間、劉禹錫は文学に没頭するようになり、古来楚であった当地の風俗に取材した詩をつくったり、民衆のために祭祀用の歌詞をつくった。815年(元和10年)、ようやく都長安に召還されたが、玄都観(道教の施設)で詠んだ詩が政府の主流派を揶揄する内容だったためその怒りにふれ、連州刺史に逆戻りとなった。それから数ヶ所の刺史を経たあと、828年(大和2年)に長安に戻り主客郎中を拝命した。そこで劉禹錫はまたも玄都観で、前回の続編となる詩を詠んだ。このときは宰相裴度のおかげでどうにか左遷を免れていたが、その裴度が引退すると洛陽にやられた後、832年(大和6年)蘇州刺史にされた。このように劉禹錫は、狭量な性格ゆえにその地位が安定しなかった。その後も太子賓客となったり刺史となったりを繰り返した。晩年は白居易と親交が深まり、元稹亡き後も詩を唱和し、その神妙さを讃えられた。最終的には検校礼部尚書・太子賓客で生涯を終えた。 詩風: 左遷を経験したことから、楽府体の寓言詩で諷喩色の強い詩を詠んだ。例えば、蚊を小さい存在ながらも夏にはうるさく飛び回っては人を傷つけるさまを中央政界にいる佞臣に喩えた。いずれ冬が来れば蚊が絶えるように佞臣達も時の利を失って凋落するであろうとの意味を込めている。また、各地で歌われていた歌曲に新たな歌辞をつくった。虁州(重慶市奉節県)刺史として赴任中には、この地の歌謡であった竹枝をもとにして「竹枝詞」を多く作ったことは有名である。 | |
【項籍】 項 籍(こう せき、紀元前232年 - 紀元前202年)は、秦末期の楚の武将。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時“西楚の覇王[1]”(在位紀元前206年 - 紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが人心を得ず、次第に劣勢となって敗死した。姓は項、名は籍、字が羽である。一般に知られているのが項羽(こうう)の名。 生涯: (挙兵まで) 項羽は、楚の将軍であった項燕の孫。項氏は代々楚の将軍を務めた家柄であった。項羽は両親を早くに亡くしたため、叔父の項梁に養われていた。『史記』によれば、項羽は文字を習っても覚えられず、剣術を習ってもあまり上達しなかった。項梁はそのことで項羽を怒ったが、項羽は「文字なぞ自分の名前が書ければ十分です。剣術のように一人を相手にするものはつまらない。私は万人を相手にする物がやりたい」と答えたので項梁は喜んで兵法を項羽に教えた。項羽は兵法の概略を理解すると、それ以上は学ぼうとしなかった。成人すると、身長が9尺(約207センチ)の大男となり、怪力を持っており、才気は人を抜きんでていたこともあって、呉中の子弟はすでに項羽には一目置いていた。 反秦軍) 秦末期、陳勝・呉広の乱が起きると、項羽は項梁に従って会稽郡役所に乗り込み、郡守である殷通をだまし討ちした後に襲いかかってきた殷通の部下数十名を一人で皆殺しにし、会稽の役人たちは項羽の強さに平伏、項梁は会稽郡守となって造反軍に参加した。その後、陳勝から独立して留で秦嘉(中国語版)と甯君らによって景駒(楚の旧公族)を擁立されると、項梁は秦嘉に帰順を促したが、秦嘉はこれを拒否した。項梁は項羽と英布に命じて、襄城を攻めて秦嘉を討ち取り、降伏した城兵を生き埋めにして凱旋した。まもなく陳勝が御者の荘賈によって殺害されると、項梁は范増から教えを請い旧王家の末裔を探し出してこれを「楚王」に祭り上げて大いに威勢を奮ったが、秦の章邯の奇襲によって戦死する。このとき、項梁の戦死を恨んだ項羽は、章邯が居城としていたが既に去っていた定陶城の住民を皆殺しにしている。項梁死後の楚軍の指揮について会議が行われたが、結局斉の使者に項梁の戦死を予言した宋義が楚軍を指揮することになった。宋義は趙の張耳、陳余の救援要請を受けて趙へ向かったが、進軍を安陽までで止めてしまい、兵が飢えてしまった。項羽は進軍すべきと宋義に直訴したが「秦が趙との戦いで疲弊したところを打ち破る」と言う宋義に納得できなかった項羽は彼を殺害し、実質的な楚軍の総大将となった。また、斉の宰相に就任しようと楚軍から離れていった宋義の息子の宋襄も追いかけて殺害した。そして、項羽は咸陽へ向けて北進を開始した。途中、鉅鹿を包囲していた秦の名将・章邯が率いる20万を超える大軍と決戦を行った。鉅鹿の落城は時間の問題と見られており、趙軍10万や救援に駆けつけていた各国の軍は全く手を出せず、傍観していた。しかし項羽は、まず秦軍の食料運搬部隊を襲い、糧道を絶って秦の大軍を飢餓に追い込み、士気を低下させた。次いで項羽は、川を渡った後に兵士に三日分の兵糧のみを与え、残りの物資と共に船を沈めた。三日で決着が着かねば全滅あるのみ、と決死の覚悟をさせたのである。そして項羽は王離の軍を包囲し、甬道を絶って章邯との戦いに大勝し、王離を捕え、蘇角を討ち取った。秦の将の渉間は自害した。この戦いで数に劣る楚の兵は皆一人で十人の敵と戦ったという。この功績により各国の軍の指導者たちは項羽に服属し、項羽は上将軍となった。項羽はその後も秦軍を攻、連戦連勝し、総大将の章邯は降伏を申し出て、戦いは終わった。この時、項羽は20万以上の秦兵を捕虜として得たが、暴動の気配が見えたので新安という所でこれを全て坑(穴に埋めて殺すこと)した。項羽は関中に入ろうとしたが、その時すでに、別働隊として咸陽を目指していた劉邦が関中に入っていた。功績を横取りされたと感じた項羽は大いに怒り、劉邦を攻め殺そうとした。劉邦は慌てて項羽の伯父項伯を通じて和睦を請い、項羽と劉邦は酒宴を開いて和睦の話し合いを行い、劉邦は命拾いをした。これが有名な鴻門の会である。 (西楚の覇王) 項羽は劉邦を許した後、劉邦に降伏していた秦の最後の王である子嬰一族を殺し、咸陽を焼き払って財宝を略奪した。その後、ある論客から地の利が便利な咸陽を都とするように進言されたが、故郷に錦を飾るために楚の彭城(現在の徐州)を都と定めた。楚へ帰ると自ら「西楚の覇王」と名乗り、諸侯を対象に大規模な封建を行うが、その基準となったのは功績ではなく、項羽との関係が良好か否かであった。故に、ろくに手柄を立てなかったものが優遇されたり、逆に、咸陽に一番乗りして秦を滅亡させた劉邦が冷遇されて漢中に左遷されるなど、不公平なものとなり、諸侯の多くに大きな不満を抱かせるものとなった。また、楚の懐王を「義帝」と呼んで格上げしたが、傀儡のはずが自立を模索し自分に指示するようになった懐王の処遇に困り、遷都という名目で彭城から追い出し、辺境に追いやりその途中で暗殺した。このことによって倫理的に大逆の汚名を負うことになり、人望を失い劉邦に自分を討つ大義名分を与えてしまった。 (楚漢戦争) 紀元前206年、斉の王族・田栄が項羽に対して挙兵すると、これをきっかけに封建に不満を抱く諸侯が続々と反乱を起こした。義帝の殺害を知った「漢王」劉邦は大義名分を得て蜂起し、諸侯へ項羽への反乱を呼びかける。これ以降の楚と漢の戦争を「楚漢戦争」と呼ぶ。このときの諸侯に向けた檄文は以下のものである。「天下共立義帝,北面事之.今項羽放殺義帝於江南,大逆無道.寡人親為發喪,諸侯皆縞素.悉發關内兵,收三河士,南浮江漢以下,願從諸侯王擊楚之殺義帝者.」項羽は討伐軍を率いて各地を転戦する。項羽は戦闘には圧倒的に強く、項羽が行けばすぐに反乱は収まるものの、間を置かず別の地域で反乱が置き、項羽がその鎮圧に行けばすぐにまた別の地域で反乱が再発するといういたちごっこを繰り返した。また項羽が降伏を許さず、反乱を起こした国の兵士は全員生き埋めにして殺し、住民も情け容赦なく殺す[7]ため、反乱軍は兵民一丸となって必死に抵抗し、戦闘は泥沼化していった。特に斉は70余りの城があり、項羽は長らく手を煩わされることになる。さらに、九江王に封じた英布に幾度も救援要請を行ったが、病と称して拒否されるなど、味方と考えていた者にも裏切られている。項羽は戦術には非常に優れていたが、戦略・政略・人望などに乏しく、直情径行型であったため人の恨みを買いやすかったといわれる。三秦(関中)を平定した劉邦は魏・趙などと連合して50万を超える大軍を率いて楚の彭城を占領するが、これは寄せ集めの集団であり、3万の精兵のみを率いて急行してきた項羽はこの大軍を一蹴し、佐竹靖彦によれば30万近くを殺戮する(彭城の戦い)。劉邦は敗走し、父や妻の呂雉は項羽の捕虜となった。その後、項羽は滎陽(けいよう、河南省滎陽市)一帯に劉邦を追い込んだが(滎陽の戦い)、劉邦旗下の韓信による魏・趙・燕・斉諸国遠征や、項羽に反感を抱く彭越、離反した英布などの、諸侯による後方撹乱行動に悩まされる。このため劉邦をしばしば破り何度も追い詰めながら、最後にはいつも逃げられてしまい、別の反乱の鎮圧に戻らざるを得なくなって追及の手を緩めると、今度は関中の蕭何の補給で盛り返した劉邦が再度項羽と対峙する、という繰り返しとなった。その間隙を狙って行われた陳平による内部分裂工作により、知恵袋であり亜父(父についで尊敬する人)とまで呼んでいた范増や、これまで共に闘ってきた鍾離昧・季布・龍且らの各将軍を疑うようになった。その後、范増は病死し、韓信に攻められていた斉の救援に龍且率いる20万の軍勢を差し向けるものの、これは韓信の水計により壊滅し龍且も戦死し、大打撃を受ける。さらに漢から斉に至る楚包囲網が完成し、ここにきて劉邦・韓信の力が楚を上回るようになっていった。 (四面楚歌) 京劇『覇王別姫』の虞美人紀元前203年、項羽は劉太公を返還することで劉邦といったん和睦し故郷へ帰ろうとしていた。しかしこの時漢軍が和平の約束を破り項羽の後背を襲った。長い戦闘で疲弊の極みにあった楚軍は敗走し、韓信の兵力30万を始めとする諸侯連合軍に項羽軍10万は垓下に追い詰められた(垓下の戦い)。この時に城の四方から項羽の故郷である楚の国の歌が聞こえてきた。これを聞いた項羽は「漢は皆已に楚を得たるか?れ何ぞ楚人の多きや」と嘆いた。ここから四面楚歌の言葉が生まれた。その夜、項羽が愛人虞美人に送った詩が垓下の歌である。力は山を抜き,気は世を蓋う。時、利あらず、騅、逝かず。騅の逝かざるを奈何にす可き。虞や、虞や、若を奈何んせん!」項羽は手勢八百騎を率いて漢軍の包囲網を突破して烏江(うこう、今日の安徽省和県の烏江鎮)という所までやってきた。烏江の亭長に、「江東は小さな所ですが土地は千里あり、万の人が住んでいます、彼の地ではまた王になるには十分でしょう。願わくは大王、早く渡ってください。今は私一人が船を出し、漢の軍は至っても渡ることはできないでしょう」と言われたが、項羽は「天が我を滅ぼすのに何故渡ろうか?私が江東の子弟八千人を率いてここから西へ出発し、今一人として帰る者が居ない。たとえ江東の父兄が哀れんで私を王にしようとも、私に何の面目があろう?たとえ彼らがそれを言わなくとも、どうして私一人が心に恥を感じずにいられようか」と断った。 『史記』項羽本紀によれば、項羽は自分の乗馬である騅を烏江の亭長に譲り渡し、従卒を下馬させ、劉邦軍を迎え撃ち、項羽みずから数百人の敵兵を討ち取ったという。この戦いで十数か所に傷を負った項羽は、追っ手の中に旧知の呂馬童がいるのを見つけると、「漢は私の頭に千金と万の邑を懸けていると聞く、旧知のお前にその恩賞をくれてやろう」と言って、自らの首を刎ねて死んだ。享年31。 (死後) 劉邦は項羽を殺した者に対して領土をかけていたので、項羽が死んだ時、王翳が頭をとり、その他の部分の死体に向かって兵士が群がり、死体を取り合い、殺し合う者が数十人にもなった。故に死体は五つに分かれた。劉邦はその五つの持ち主(楊喜・王翳・呂馬童・呂勝・楊武)に対して一つの領土を分割して渡した。また劉邦は無惨な死体となった項羽を哀れみ、魯公の礼を以て穀城に葬った。 (項一族のその後) なお、項羽の死後、項伯(射陽侯)をはじめとして項一族はいずれも劉邦によって列侯に封じられ、劉姓を賜っている。項伯の子孫が宋の劉裕といわれる(『魏書』島夷劉裕伝)。 評価: 項羽は劉邦と対照的な性格とされ、それを示す逸話として項羽と劉邦がそれぞれ始皇帝の行幸に会った時の発言がよく取り上げられる。項羽は始皇帝の行列を見て「彼奴に取って代わってやるわ!」と言ったが、劉邦は「ああ、大丈夫たる者、ああならなくてはいかんな」と言ったと伝えられる。このように項羽と劉邦は様々な点で対照的な面を見せたが、劉邦が項羽に対して対照的であろうとしたという説もある。項羽は自らも言うように戦場では連戦連勝で文句の付け所が無かったが、戦闘以外の場所では捕虜を虐殺したりするなどの悪行が目立った。有名な新安での秦兵20万の虐殺は項羽にとっては決して特別な行為ではなく、それ以外にも城を落とすたびに住民を殺したことが幾度もあった。項羽に対して秦は激しく抵抗し、その間、秦軍を降伏させて進軍を早めた劉邦が先に咸陽一番乗りを果たしている。また、こうした苛烈さは、秦滅亡後に起きた斉の離反を鎮圧できずに劉邦に東進を許してしまう原因にもなった。 京劇『覇王別姫』 事跡から想像できる項羽の性格は、かなり子供っぽいものと言える。咸陽を落とした後、「関中は山河に四方を囲まれ、土地は肥沃、此処に都を構えて覇を唱えましょう」と進言されたが「せっかく出世したのに故郷へ凱旋しないのは、夜中に刺繍の入った着物を着て道行くのと同じことぞ。誰がそれを知ろうか」と答えたという逸話は、項羽の性格をよく表している。項羽は喜怒哀楽が激しく、部下に対して厚く慈しむ場合もあれば、激しく詰ることも多かった。特に部下と女子との扱いが極端に違っていたこともあり、韓信を雑兵のまま重用しなかったため劉邦のもとへ去られたり、陳平の対応に怒り殺そうとしたため陳平が漢に降ることになったり、揚げ句の果てには亜父と慕っていた范増さえも疑って引退させるなど、その性格から数々の将軍・策士が項羽から離れる結果となった。秦滅亡後の処遇も、論功行賞ではなく項羽と仲が良いかどうかによっており、数々の反乱を生む要因となった。 また、ある時あまり敵兵が抵抗せずに城を落とせた為兵士が弱い(或いは敵兵が強く抵抗したことで自分を主と認めない)と怒って城兵を含む住民を皆殺しにしようとしたが、利発な子供に説得されて住民の皆殺しを取りやめたなどの逸話がある。韓信に評価された「匹夫の勇」(分別なくただ血気にはやる勇気)、「婦人の仁」(思慮の浅い女性の同情心)という項羽の性格は、天下を治めるには不適格だった。そうした自分の欠点に最後まで気づかないまま自ら命を絶った項羽を、司馬遷は史記の中で「自分の覇王の事業を既に成し遂げたと思いこみ、武力で天下を征服・管理しようとしていた。そして、5年間の内戦を経て、ついに国を滅ぼし、自分自身も死んでしまった。それでも、死ぬ前にもまだ悟らず、自分を責めようとしなかった。それは間違っている。『天が私を滅ぼすのだ。戦に負けたわけではない。』と公言した。これはどんなに荒唐無稽なことだろうかと強く批判している。後の後漢時代に、その勢いから項羽に因んで小覇王と呼ばれた孫策は自らを項羽に例えて朝廷に上奉しようとした許貢に激怒して殺害し、のちに許貢の部下に襲撃された傷がもとで死に至っている。しかし、項羽の短くも苛烈な生涯に多くの人々が魅了されてきたのも事実であり、京劇の覇王別姫」は現在も人気の演目となっている。史記の中で、項羽は本紀(第7巻・項羽本紀)を立てられている。なお、この項羽本紀は史記の中でも特に名文の誉れが高く、日本の『平家物語』に於ける木曾義仲の最期を描いた場面は、項羽本紀に於ける項羽の死の描写に影響を受けているといわれている。天下を取ったか否かは意見が分かれているが、現時点では世界史にて西楚は歴代王朝には名を連ねていない。また、佐竹靖彦は著書『項羽』で、項羽の最大の功績を中国西部と東部が融合するスタートラインを作った事にあったとする。また、項羽の集団を「前近代的な愛国心を持った戦士達の集合体」とし、それらが秦を打倒出来たのは項羽の無私の人格所以」、敗れたのは「劉邦陣営と違い合理的な官僚集団が全く育たなかったため」としている。 |
第九次:平成27(2015)年9月 西安、敦煌(玉門関・陽関)を訪ねて
唐の都・長安と涼州の地・敦煌で吟友と詠ず
スライドショー
既に掲載済の第九次中国吟行会について、行程を追って補足説明をしたスライドショー(根本彰一さん撮影写真等により作成)です。
画面中央⊳をクリックで再生開始、再生画面上にマウスポインターを置くと下のバー‖で 一時停止(演奏停止)⊳で再生を継続します。
タスクバー(画面下部)の最右でフルスクリーン(画面拡大)となり、キーボード[ESC]で元に戻ります。
なお行程図画面でのマークは、阿知和泰人さんによるビデオ撮影(既載)現場です。
中国語による漢詩「元二の安西に使するを送る」の朗読 ⇒ 詩吟ミニ講座 (詩文の解説) 「か行」
↓ 吟譜付き詩文(日本語および中国語)の拡大が見られます(スライド再生中でもOK)、拡大画像右下closeXで閉じます。
元二の安西に使するを送る(日本語)
元二の安西に使するを送る(中国語)
ビデオ(敦煌編)
ビデオタイトル欄の文字列をクリックするとyoutubeの動画を見ることができます。||マークをクリックして途中停止、▶印をクリックして再開します。終了時はyoutube画面右上のXをクリックしてください。
力山を抜き氣世を蓋う・・・・渙) | ||
陽関 (合吟有り) | 元二の安西に使するを送る(王維) 涼州詩(王翰) |
ビデオ(西安編)
ビデオタイトル | 合吟の題 | |
興慶宮 (合吟有り) | 晁卿衡を哭す(李白) 短歌「天の原」(阿倍仲麻呂) 望郷の詩(晁衡) | |
青龍寺 (合吟有り) | 後夜仏法僧鳥を聞く(空海) | |
西安西城門 (合吟有り) | 春望(杜甫) 子夜呉歌(李白) | |
楊貴妃の墓 (合吟有り) | 清平調詞(その一)(李白) 清平調詞(その三)(李白) | |
華清池 (合吟有り) | 清平調詞(その二)(李白) |
記念集合写真
(画像をクリックすると拡大、拡大画像右下closeXで閉じます)
興慶宮公園、安部仲麻呂碑前 | 大雁塔前 | 青龍寺、空海記念碑前 |
西安西城門 | 乾陵 | 陽関 |
参加者名簿 このページの閲覧にはパスワードの入力が必要です
第八次:平成25(2013)年11月 三峡下り・黄鶴楼・慮山
第七次:平成24(2012)年3月 峨眉山・楽山・大足
第六次:平成23(20111)年7月 モンゴル大草原
第五次:平成22(2010)年11月 杭州・蘇州・上海
第四次:平成21(2009)年6月 北京・洛陽・西安
第三次:平成18(2006)年6月 桂林・昆明
第二次:平成17(2005)年10月 敦煌・西安
第一次:平成13(2001)年10月 三峡下り・岳陽・武漢・成都
【シンガポール吟行会】 平成12(2000)年3月 シンガポールでの一吟会
中国吟行会ではありませんが、山本ご夫妻(現・知立昭和教場)の赴任先を訪れました。