各行へジャンプする ⇒ 「あ行」 「か行」 「さ行」 「た行」 「な行」 「は行」 「ま行」 「ら行」 「わ行」


詩文にある地名など ⇒ 詩文関連地図・人名?


「や行」

このページ内を検索する

※キーワードを入力して、検索ボタンを押して下さい

 もくじ  の吟題をクリックすると、その解説個所が表示されます。

夜雨(良寛)続天230

良寛

【作者】 良寛 江戸後期の禅僧。寶暦八年(1758年)~天保二年(1831年)。漢詩人。歌人。越後国(現・新潟県)出雲崎の人。俗姓は山本。名は栄蔵、後、文孝と改める。号は大愚。諸国を行脚、漂泊し、文化元年、故郷の国上山(くがみやま)の国上寺(こくじょうじ)に近い五合庵に身を落ち着けた。晩年、三島(さんとう)郡島崎に移った。高潔な人格が人々から愛され、子供達も慕ったが、人格の奇特さを表す逸話も伝わっている。ただ、遺されている漢詩は陰々滅々として、類例を見ないほど暗いものである。
【語釈】 栄枯→栄え衰えること。変態→普通と違った様。疎雨→まばらに降る雨。蕭蕭→ものさみしい様。衲衣→僧衣。虚窓→誰も居ないがらんとした部屋。
【通釈】 世の中の栄枯盛衰は、ちょうど雲の姿が刻々と変わるようなものである。私の五十余年の生涯は、一睡のうちに過ぎてしまった。まばらな雨がさびしく降る草庵の夜、私は僧衣に身を包んで静かに誰もいない部屋で瞑想に耽っているのである。
【解説】「半夜」(天199)との姉妹詩とも云える。

芳野懐古 (藤井竹外)天239

【作者】藤井竹外 西暦1807~1866 江戸末期の詩人。高槻藩の名門に生まれ、頼山陽から詩を学び、梁川星巌・広瀬淡窓らと親交を結んだ。七言
     絶句を得意とし「絶句の竹外」ともいわれ、この一絶は特に有名で、人口に膾炙し、如意輪寺の宝物として大切に保管されている。60歳で没。
【語釈】古陵→後醍醐天皇の御陵(塔尾陵)、如意輪寺内にある。松柏→松とかしわ、中国では古来松柏を墓陵・廟所に植える。吼天飈→「天飈」はつ
     むじ風、つむじ風に向かって吼える。山寺→如意輪寺を指す。寂寥→もの寂しく静かなさま。眉雪→眉が雪のように白いこと。南朝→後醍醐天
     皇の吉野遷幸から後亀山天皇の京都遷幸までの57年間の吉野朝。
【通釈】吉(芳)野山の如意輪寺に花見にきたが、御陵の松柏は天空を吹く風に唸りごえを立てている。桜はほとんど落花して人影もなく、ひっそりとして
     もの寂しい限りである。眉毛の白い老僧が、わが姿をみて箒の手を止め、落花が深く散り敷いてところで、南朝の昔を語ってくれたのは、ひとし
     お感慨の深いものがあった
【解説】吉野山を詠んだ歌は数多いが、この詩は河野鉄兜の「芳野」・頼杏坪の「芳野に遊ぶ」または梁川星巌の「芳野懐古」とともに芳野三絶といわ
     れる傑作である

如意輪寺後醍醐天皇の御陵
如意輪寺後醍醐天皇の御陵(塔尾陵)


短歌「よしの山」(八田知紀)続天272

【作者】八田知紀(はった とものり) 寛政11年9月15日、薩摩国(鹿児島市西田)に生れる。父は藩士八田善助。初名、彦太郎。通称、喜左衛門。文政
     8年(1825)、27歳の時、薩摩藩邸蔵役となり上洛。翌年香川景樹を訪問し、32歳となった天保元年(1830)に入門を果たして景樹晩年の弟子とな
     る。木下幸文・熊谷直好亡き後は桂園派を代表する歌人として重んぜられた。維新後、東京に出て宮内省に仕え、明治5年(1872)、歌道御用掛
     に任ぜられるが、翌年9月2日に没した。75歳。東京芝区伊皿子の大円寺に葬られる(のち同寺は東京都杉並区に移転)。明治36年、贈従五
     位。門人に高崎正風・黒田清綱などがいる。家集『しのぶぐさ』四巻は安政2年(1855)の序を持つが、維新後の歌を含み、最終的な成立は明治
     初年頃か。歌論書に「調の直路」「調の説」などがある。

吉野山





【通釈】 芳野山には霞がかかり奥はわからないが、見渡す限り全山さくらが満開である。









夜墨水を下る(服部南郭)天243

【作者】服部南郭 西暦1683~1759 江戸中期の儒者・漢詩人。京都の人。14歳のとき父が没し家は江戸に移った。16歳で歌人として柳沢吉保に仕
     え、以来柳沢家の儒者・荻生徂徠に師事し、徂徠から妙才と称された。34歳で致仕し家塾を開いて子弟に教えた。特に詩文で名高く、人柄は温
     厚磊落、交遊も広く諸候から招かれることが多かった。徂徠門下で経学は太宰春台、詩文は南郭といわれ、和歌・絵画もよくした。77歳で没し
     た。
【語釈】金竜山→浅草待乳山のこと。昔このあたりの海岸で、海から観世音が網にかかり、それを祭ったのが浅草寺で、その山号が金竜山浅草寺であ
     る。江月→江上を照らす月。扁舟→小舟。住→止まる。二州→武蔵(東京)・下総(千葉)の二国。隅田川は昔はこの二国の境。両国橋はこの
     二国にかかる橋。

隅田川
浅草寺

【通釈】隅田川を舟で下って金竜山の辺まで来ると、川の流れに月影が浮かび上がる。
     江水が揺らぐにつれて月が水底から湧き出して、まるで金色の竜が泳いでいるよ
     うである。私の乗った小舟は滑るように、澄み渡った空と水との区別のつかない
     中にいる。両岸を吹き渡る秋風に送られて、武蔵と下総の境を下ってゆく。
【解説】秋夜月明のもと、舟で墨田川を下った折の景を述べたもの。徂徠門下の平野金
     華「早に深川を発す」(「続天の巻」176頁)と高野蘭亭「月夜三叉口に舟を泛ぶ」(「天の巻」74頁)を併せて墨水三絶と云われる。



短歌「やわらかに」(石川啄木)天253

石川啄木

【作者】石川啄木 明治19(1886)~明治45(1912)岩手県日戸村生まれ。渋民村で代用教員生活の後、北海道
     に渡り地方新聞記者となる。作家を目指して東京に出るが、窮乏生活のうちに結核で病死した。盛岡中学
     時代に作歌を始め、明星派の詩人として出発するが、流離と貧困の生活の中から独自な領域を開き、
     生活派短歌の先駆者となる。大逆事件(社会主義者・幸徳秋水らが天皇暗殺計画を企てたとして検挙さ
     れた事件)に関心をかたむけ、社会主義への傾斜を深めた。歌集に「一握の砂」遺歌集「悲しき玩具」が
     ある。
【解説】この歌は「一握の砂」に所収されている。初句(はらかに)・二句(あおめる)の「や」音による頭韻が
     効果的で、穏やかないかにも春らしい景色が提示されている。三句(上の)・四句(辺目に見ゆ)では
     「き」音の頭韻が心地よく響いて、美しい郷里を読者の眼前に出現させている。末尾の「泣けとごとくに」に
     万感の思いが込められ、故郷に向かって思わず頭を垂れたくなるような感動が走る。

北上川啄木記念館
柳あおめる北上川啄木記念館(H19/11 三河岳精会・東北 吟行会



各行へジャンプする ⇒ 「あ行」 「か行」 「さ行」 「た行」 「な行」 「は行」 「ま行」 「ら行」 「わ行」