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【地図】

中国

黄河流域図長江流域図南京(金陵)
黄河流域図長江流域図南京(金陵)
天門山安徽安陸
天門山安徽安陸
蛾眉山黄鶴楼曲阜
蛾眉山・青衣江・三峡黄鶴楼・掦州(広陵)曲阜
敬帝山荊門山・長江酒泉
敬帝山荊門山・長江酒泉
宣州太白山戴天山
宣州太白山戴天山
白帝城・江陵(荊州)夜郎洛陽
白帝城・江陵(荊州)夜郎洛陽
蘭陵巫山廬山
蘭陵巫山廬山
長江三峡
長江三峡
馬鞍山市敦煌郊外図敦煌周辺図
長江三峡
長江三峡図
馬鞍山市敦煌郊外図
敦煌周辺図



日本


【人名】


                              上代歴史年表

上代歴史年表

【万葉集歌】

万葉集関連地図(上記)の歌

歌人歌(巻・歌番)歌意解説
磐之姫皇后(いわのひめのおおきさき)君が行き日 長くなりぬ 山尋ね
迎えか行かむ 待ちにか待たむ(二・85)
旅から長らく戻らぬ夫(仁徳帝)を待ちわびる心の切なさ磐之姫皇后:5世紀頃 河内(大阪府)磐姫は第16代仁徳天皇(5世紀前半)の皇后. 万葉伝承期の伝説的な女性. 愛情豊かな反面、嫉妬深く、紀州へ御綱柏を採りに出かけた留守に天皇が八田皇女を召したことを知り、高津宮には戻らず 山代の筒木郷に閉じこもり、生涯夫君を許さなかったと伝わる
秋の田の 穂の上に霧らむ 朝霞
何処辺の方に わが恋い止まむ(・)
朝霧にも似て容易に消えぬ恋の苦しさ
有馬皇子(ありまのみこ)磐代(いわしろ)の  浜松が枝を  引き結び
真幸(まさく)くあらば  また還り見む (二・141)
松の枝に目印をつけ、もし命があったら帰りがけに見たいものだと歌ったもの。命のあるはずもないことは、皇子自身十分にわかっていたことなのに、何故このような歌を歌ったのか。あるいは息災のマジナイとして、そのような風習があったのでもあろうか有間皇子:7世紀後半:紀伊(和歌山県)明日香に君臨した舒明天皇が崩御、その子 中大兄皇子による策謀が渦を巻き、有間の皇子に悲劇が訪れる.うかつにも蘇我赤兄の策謀にはまった皇子は謀反の罪を問われ、牟婁の湯で静養中の斉明天皇のもとに護送.中大兄皇子の厳しい尋問を受けた後、明日香への帰途藤白の坂で処刑された. 時に皇子19歳
家にあれば 笥に盛る飯を
草枕にしあれば 椎の葉に盛る(二・142)
椎の葉で飯を備えるとを神に詫びている.(椎の葉で食事するやるせない望郷の心を旅先の神に無事を祈る
額田王(ぬかたのおおきみ)熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば
潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(二・8)
斉明天皇の百済救援ための九州出兵に同行したおり、熟田津(愛媛県道後付近の港)での出え陣の勇壮な緊迫感を歌う額田王:7世紀前半:近江(滋賀)額田王は、斉明・天智・天武・持統の4代の天皇に仕えた才色兼備の宮廷歌人. 皇族または釆女(うねめ)であったと思われ、一時、天武天皇の后でとなったとする説もある、程なく天智天皇は病死し、後継争いから壬申の乱が勃発、天智の子大伴皇子自害で近江朝は滅亡、世は天武・持統時代に推移する
あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
野守は見ずや 君が袖振る(一・20)
天智天皇の近江朝全盛期、琵琶湖東岸の蒲生野の宴での戯れの恋歌. 野守の目を気にしながらも揺れる女心を詠う
大泊(伯)皇女(おおくのひめみこ)うつそみの 人なる我や 明日よりは
二上山(ふたかみやま)を 弟世(いろせ)と我が見む(二・165)
大津皇子の妃・山辺皇女が「髪を乱し裸足にて走り寄って殉死した」というこれ程の事実も大泊皇女の歌の前では影が薄くなっています。姉・大泊皇女の万葉集に残る歌の力の偉大さに驚かされます大泊(伯)皇女:7世紀前半:伊勢・大和(三重県・奈良県)天武天皇の子、
十三歳で斎宮(いつきのみや、斎王)として伊勢に赴任した.二十五歳の時天武天皇が崩御. 政権争いで身の危険を感じた弟の大津皇子が 神のご加護を求めて彼女を訪ねた.一夜を語り明かし死を覚悟し夜更け大和に戻って行く弟を見送り、別離の悲しみに立ち尽くす皇女. 成人後最初で最後の再会であった.大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大来皇女の哀傷みて作らす歌二首
わが背子を 大和へやると 小夜(さよ)更けて
暁露に 我が立ち濡れし(二・105)
弟が死ななければならない事を知りながら大和に送りだす姉の哀切な歌が万人の胸を打ってきました。そして弟の亡くなった後で、二上山の頂上に葬られた弟を思い・・・
志貴皇子(しきのみこ)采女の 袖ふきかへす 明日香風
都を遠み いたづらに吹く(一・52)
都が遠のいた今は、むなしく吹くばかり。持統八年(694)十二月の藤原京遷都後の作。采女は諸国から献上され、天皇に近侍した女性。かつて都であった飛鳥の地で、その美しい袖を風が翻した光景を回想し、幻視している志貴皇子:7~8世紀:摂津・大和(大阪府・奈良県)
壬申(じんしん)の乱を平定の天武天皇が夢見た藤原京はその皇后、持統天皇の時代に我が国初の大規模 都城として完成、明日香宮は過去のものに。そのような栄華の移ろいのはかなさを、過去への愛しみを込め詠う。吹田千里丘陵に周遊の折り垂水神社で詠われた万葉集屈指の名歌。志貴皇子は壬申の乱で滅びた天智帝の第7子、天武隆盛の時代に不遇であったことがかえって幸いし名歌を多く残した。ちなみに志貴皇子の第6子白壁皇子は光仁天皇、その第1子は桓武天皇である。
石ばしる 垂水の上の さわらびの
萌え出づる春になりにけるかも(八・1418)
岩にほとばしる滝のほとりの蕨が、芽をふくらませる春となったのだなあ。早蕨は初春でなく仲春になって萌え出るので、春の訪れの喜びでなく、盛りの春になったとの喜びである。
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)東の野に かげろひの立つ 見えて
かへり見すれば 月かたぶきぬ(一・48)
軽皇子の安騎野宿営に同行した時の満月の夜明けの壮大な光景を、軽皇子をかぎろいに、亡父草壁皇子を月に例えた 輪廻転生の歌とも言われる。人麻呂は晩年石見の国司に任ぜられた柿本人麻呂:7~8世紀:石見(島根県)/大和(奈良県)万葉集を代表する歌人である。
生没年や経歴などに不明点が多く謎の多い人物だが残された歌と質に圧倒される。万葉集には長歌19首・短歌75首が掲載されているが いずれも格調高い歌風である。その中でも有名な二首。共に長歌に対する反歌
石見のや 高角山の 木の間より
吾が振る袖を 妹見つらむか(二・131)
石見の国の高角山の木の間から私が振った袖を、妻は見ただろうか
赴任地の江津から大和へ旅立ちの折、残して来た妻(依羅娘子よさみのおとめ)への愛惜の念を詠う
武市黒人(たけちのくろひと)いづくにか 船泊すらむ 安礼の
崎榜ぎ行きし 棚なし小舟(一・58)
持統天皇三河行幸の折、夕暮れの海を行く小舟の行く末を案じた旅愁の歌武市黒人:7~8世紀:尾張・三河(愛知県)
黒人は志貴皇子や柿本人麻呂と同時期、持統、文部朝の宮廷歌人。詩情豊かな抒景歌が多く、山部赤人にも影響を与えたといわれている。
桜田へ  (たづ)鳴き渡る  年魚市潟(あゆちがた)
潮干にけらし 鶴鳴き渡る(三・271)
年魚市潟
       (年魚市潟史跡)
武市黒人歌碑 武市黒人歌碑地図
       (武市黒人歌碑)
年魚市潟は熱田区から緑区の範囲に広がっていた遠浅の海岸線のことを指していたと思われる。しかし、現在、年魚市潟と呼ばれていた範囲は新田開発などによって陸地となっている。この年魚市潟は『万葉集』に「年魚市潟 潮干(しほひ)にけらし 知多の浦に 朝こぐ舟も沖に寄る見ゆ」とあり、その歴史は古い。この「年魚市(あゆち)」は「愛知(あいち)」の語源になったと言われている。また、熱田(あつた)の語源も年魚市潟(あゆちがた)が由来であるとする説もある
山上憶良(やまのうえのおくら)銀も金も 玉も何せむに
勝れる宝 子に及かめやも(五・803)
銀も金も宝石も、どうして優れている宝である子どもに及ぶだろうか、いや及ばない。帰京後に詠んだ有名な子を偲ぶ歌の返歌。山上憶良:7~8世紀筑前・太宰府(福岡県)
憶良の出生については、大和国添上郡山辺郷の出身、百済の帰化人の子という2説があるが いずれにせよ学識と人間愛が豊かな人という. 皇室の教育担当職などを経て晩年筑前の守となり 太宰府に下向. 在中太宰府長官に赴任してきた大伴旅人と、いわゆる筑紫歌壇を形成、憶良の歌の多くが この太宰府時代に詠まれた.
萩の花 をばな葛くず花 なでしこの花
をみなへし また藤袴朝顔の花 (八・1538)
秋の七草
「秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数うれば七種(くさ)の花
大伴旅人(おおとものたびと)我が園に 梅の花散る 久かたの
天より雪の 流れ来るかも(五・822)
散る花を雪に例えた風流の中に無常観が漂う.大伴旅人:7~8世紀 太宰府(福岡県)、鞆の浦(広島県)
六十三歳で大宰帥(だざいのふそち:太宰府長官)に赴任、筑前守であった山上憶良などと所謂筑紫歌壇を形成し多くの名歌を残したが、間もなく同行の妻、郎女(いらつめ)が死去、その悲しみも癒えぬ早春、梅花の宴での歌
鞆之浦(とものうら)の 磯の杜松(むろのき)見むごとに
相見し妹は 忘らえめやも(三・447)
赴任時妻と立寄った折に二人で愛でた「むろ」の木に深い思いを込めて詠う
山部赤人(やまべのあかひと)田子の浦ゆ 打ち出て見れば 真白にぞ
不盡の高嶺に 雪は降りける(三・318)
田子の浦
東国旅行、駿河さった峠からの雄大な富士の姿を感動的に捉えた富士賛歌山部赤人: 7世紀後半 田子の浦(静岡県)/若の浦(和歌山県)
平城京遷都(710)後の万葉第三期の宮廷歌人. 長歌の(柿本)人麻呂に対し 短歌の赤人(ともに「歌聖」)と称される. その不滅の抒景歌二首、富士山周辺の自然が破壊され、若の浦が消滅した今は、赤人の歌の中に往年の美しい景観を偲ぶのみである
若の浦に 潮満ち来れば (かた)()
葦辺をさして(たづ)鳴き渡る(六・919)
若の浦
聖武天皇の紀州行幸に同行した折の歌. 潮が満ち始めた干潟、葦が生い茂る岸辺に渡る鳥の群れの様子を絵画的に描写. 引き潮での類似の情景を詠った武市黒人の歌と対照的である
東歌(あずまうた)多摩川に さらす手作り さらさらに
何そこの児の ここだ(かな)しき(十四・3373)
川でさらす布の手触りにも似て 抱くほどにこの娘が可愛いという気持ちを東国の人たち(東歌):7~8世紀?
関東平野防人(さきもり)の歌や近畿の歌と共に庶民の歌
寝れど飽かぬを 何どか吾がせむ(3404)群生する麻を抱え抜くように強くこの娘を抱きしめてもなおあり余る想いを詠う
上野(かみつけ)の 安蘇(あそ)麻群(あさむら) かき抱き寝れど
飽かぬを何どか 我がせむ(3404)
群生する麻を抱え抜くように強くこの娘を抱きしめてもなおあり余る想いを詠う
大伴家持(おおとものやかもち)春の苑 紅にほふ 桃の花
下照(したで)る道に 出で立つ美人(おとめ)(十九・4139)
愛妻、坂の上の郎女到着の喜びを詠んだ。美しい桃の花の色に映える乙女の艶やかさが絵画的に描写され、しばしば正倉院の鳥毛立女屏風(下図)が引き合いに出される。
鳥毛立女屏風
大伴家持:8世紀越中(富山県)
万葉集の編者である大伴家持は大伴旅人の子。二十七歳で越中の上となり、五年の任期の間に多くの歌を残した。奈良時代の貴族・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。 『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家;であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残す。
画像の説明
うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり
心悲しも 独りし思へば(十九・4292)
晩年の歌、隆盛一途の藤原家に対し衰退気味の大伴一族の寂しさが漂う

【知多の年魚市潟】

知多の年魚市潟(旧陸地)

【参考】⇒ 富部(とべ)神社 白豪寺(びゃくごうじ) 名古屋市南区史跡 (村上社など)


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