日本の伝統New
工事中
(いにしえ)の人々と同じ感動を、いま味わってみましょう

このページは図書「日本の伝統&絶景100」(朝日新聞出版)を参照させていただきました。

芸事

【神楽】(かぐら)

神社の祭礼などで見受けられ、まれに寺院でも行われる。平安中期に様式が完成したとされ、約90首の神楽歌が存在する。神楽は、神社に「神楽殿」がある場合、そこで行われる事が多い。一般に、「かぐら」の語源は「神座」(かむくら・かみくら)が転じたとされる。神座は「神の宿るところ」「招魂・鎮魂を行う場所」を意味し、神座に神々を降ろし、巫・巫女が人々の穢れを祓ったり、神懸かりして人々と交流するなど神人一体の宴の場であり、そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになったとされる。古事記・日本書紀の岩戸隠れの段でアメノウズメが神懸りして舞った舞いが神楽の起源とされる。アメノウズメの子孫とされる猿女君が宮中で鎮魂の儀に関わるため、本来神楽は招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊びだったとも考えられる。
神楽は、宮中の御神楽(みかぐら)と、民間の里神楽(さとかぐら)に分けられる。また幾つかの神社では、近代に作られた神楽も行われている。

神事と歌舞が融合した 郷土色豊かな民俗芸能
高千穂夜神楽  花祭早池峰神楽
高千穂夜神楽(宮崎県)花祭(愛知県)早池峰(はやちね)神楽(岩手県)
  雄勝法印神楽佐陀神能伊勢太神楽
雄勝法印(おかつほういん)神楽(宮城県)佐陀神能(さだしんのう)(島根県)伊勢太神楽(いせだいかぐら)(三重県)

【雅楽】

雅楽(ががく)は、中国、朝鮮半島を経て、日本で花開いた伝統的な音楽の一つ(ベトナムについてはベトナムの雅楽を参照)。世界最古のオーケストラと言われる。以下、宮内庁式部職楽部に伝わる日本の雅楽(重要無形文化財、ユネスコの無形文化遺産→2007年)を中心に述べる。
           雅楽「越天楽(えてんらく)                         雅楽楽器

80%越天楽

雅楽楽器
アジア大陸の諸国からもたらされた音楽や舞に、上代以前から伝わる音楽や舞が融合し日本化した芸術で、10世紀頃に大まかな形態が成立し、今日まで伝承されている。元は、奈良時代にまでさかのぼる。
現在においては、以下の三つに大別される。
国風歌舞(くにぶりのうたまい) — 日本古来の歌謡をもとに平安期に完成された、神道や皇室に深い関わりをもつ歌舞。神楽・東遊・倭歌・大歌・久米歌・謙歌などで、主に宮廷の行事や儀式で演奏される。
大陸系の楽舞 — 5世紀頃から9世紀頃までの間に大陸から伝わった楽舞をもとに日本で作られた、中国、天竺、林邑系の唐楽(とうがく)と、朝鮮半島、渤海系の高麗楽(こまがく)。インド ・ベトナム地域やシルクロードを西にたどった地域から伝来した音楽や舞も含まれる。
謡物(うたいもの) — 日本古来の民詩や漢詩に節づけをした声楽で、大陸からの渡来楽器による伴奏をともなう平安期に新しく作られた歌曲。催馬楽や朗詠など。

【能】

能 能舞台
能(のう)は、日本の伝統芸能である能楽の一分野。江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治維新後のことである。
能という語は、元々特定の芸能をさすものではなく、物真似や滑稽芸でない芸能でストーリーのあるもののことを全般に指す語であり、猿楽以外にもこれが用いられていたが、猿楽が盛んになるとともにほとんど猿楽の能の略称となった。そして1881年(明治14年)能楽社の設立を機に猿楽を能楽と改称したため能楽の能を指す語となったものであり、能楽のうち超自然的なものを題材とした歌舞劇のことで比較的高尚なものである。往々にして「能楽」と「能」を同義に用いたりする向きもあるが、誤りである。
中世に成立した古典の曲目のうち、現在でも頻繁に上演されているものを紹介する。これらは現行曲と呼ばれ、流派によって異なるが、おおむね二百数十番が現行曲とされている。しかし歴史的にはこれらの他にも2000番から3000番程度の曲が作成されている。
脇能物(初番目物) 男神物(高砂、養老など)女神物(西王母、右近など)老神物(放生川(ほうじょうがわ)、老松、白楽天)異神物(東方朔、源太夫、難波、道明寺など)荒神物(江島、和布刈(めかり)、賀茂など)
二番目物 勇士物(八島 (能)、箙、兼平など)公達物(経正、知章、敦盛、生田敦盛など)老武者物(実盛、頼政)女武者物(巴)
三番目物 (西行桜、遊行桜、花軍)現在鬘物(祇王、籠祇王、 熊野[6]、大原御幸(おはらごこう)など)現在老女物(関寺小町、鸚鵡小町、卒塔婆小町)
四番目物 巫女・女神物(巻絹、 鱗形、室君、現在七面など)執心女物(梅枝、 砧、水無瀬など)執心男物(恋松原、恋重荷、 阿漕、善知鳥、藤戸など)狂女物(三井寺、 隅田川など)男物狂物(高野物狂、芦刈、弱法師など)
芸尽物(花月、 自然居士など)唐物(鶴亀、邯鄲(かんたん)、一角仙人、天鼓など)人情物(鉢木(はちのき)、俊寛(しゅんかん)、景清など)侍物(木曽、桜井、桜井駅、 小督、安宅など)斬合物(夜討曽我、大仏供養、忠信など)尉物(蟻通、雨月、木賊、豊干、輪蔵)
四・五番目物 霊験物(谷行、松山鏡、 藍染川、鷺など)鬼女物(葵上、道成寺、黒塚など)
五番目物 女菩薩物(当麻、海人など)貴人物(絃上、 来殿、松山天狗など)猛将物(草薙、碇潜、項羽、 船弁慶など)天狗物(善界、車僧 、大会、 第六天、葛城天狗など)鬼物(昭君、鍾馗、 野守、雷電など)竜神物(愛宕空也、春日竜神)畜類物(殺生石、鵺)打合物(龍虎、舎利、飛雲)鬼退治物(紅葉狩、羅生門、大江山、土蜘蛛など)本祝言物(石橋、猩猩、大瓶猩猩)

【狂言】

狂言(きょうげん)は、能と同様に猿楽から発展した伝統芸能で、猿楽の滑稽味を洗練させた笑劇。明治時代以降は、能・式三番と併せて能楽と呼ぶことがある。
狂言は、道理に合わない物言いや飾り立てた言葉を意味する仏教用語の「狂言綺語」(きょうげんきご)に由来する。この語は主に小説や詩などを批評する際に用いられた(例;願以今生世俗文字業狂言綺語之誤 翻為当来世々讃仏乗之因転法輪之縁 白楽天)。この語が猿楽の滑稽な物まね芸を指す言葉として転用され、やがて上述の諸芸能の名称として定着した。一般名詞としても、滑稽な振る舞いや、冗談や嘘、人をだます意図を持って仕組まれた行いなどを指して狂言と言うようになった。
能は面(仮面。おもてと読む)を使用する音楽劇で、舞踊的要素が強く抽象的・象徴的表現が目立つ。またその内容は悲劇的なものが多い。これに対し狂言は、一部の例外的役柄を除いて面を使用せず、猿楽の持っていた物まね・道化的な要素を発展させたものであり、せりふも含め写実的表現が目立つ。内容は風刺や失敗談など滑稽さのあるものを主に扱う。

狂言

狂言は大きく以下の3種類に分類される。
別狂言 能「翁」の一部をなす三番叟(さんばそう。大蔵流では「三番三」と書く)と、その特別演出である風流(ふりゅう)をいう。
本狂言 一曲として独立して演じられるもの。通常、狂言という場合はこれをさす。
間狂言(あいきょうげん) 単に間(あい)とも。能の一部として演じられるものをいう。





【歌舞伎】

歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。
                          名演目「勧進帳
歌舞伎

                         化粧法(隈取)
隈取

                             見得(みえ)のきり方

元禄見得制札見得横見得
「勧進帳」弁慶「熊谷陣屋」熊谷直実「草摺引」五郎

【文楽】

文楽(ぶんらく)は、本来操り人形浄瑠璃専門の劇場の名である。しかし、現在、文楽といえば一般に日本の伝統芸能である人形劇の人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)を指す代名詞である。文楽座の始まりは、淡路仮屋の初世植村文楽軒が「西の浜の高津新地の席」という演芸小屋を大坂高津橋南詰(大阪府大阪市中央区)に建てて、興行したのが始まりとされる。文楽成立以前の人形浄瑠璃については、浄瑠璃も参照のこと。
1955年に(人形浄瑠璃文楽座の座員により演ぜられる)文楽が文化財保護法に基づく重要無形文化財に指定された。また、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前の2003年に「傑作の宣言」がなされ「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年9月の第1回登録で正式に登録された。
      人形浄瑠璃文楽                人形遣い                   浄瑠璃語り・三味線
人形浄瑠璃文楽 人形使い 浄瑠璃 

【茶道】

茶道(さどう、ちゃどう)は、日本伝統の湯を沸かし、茶を点(た)て、茶を振る舞う行為(茶の儀式)。また、それを基本とした様式と芸道。
元来「茶湯」(ちゃとう)、「茶の湯」といった。千利休は「数寄道」、小堀政一(遠州)は「茶の道」という語も使っていたが、江戸時代初期には茶道と呼ばれた(『茶話指月集』『南方録』など)。「茶道」の英語訳としては tea ceremony のほか、茶道の裏千家と表千家ではそれぞれ the way of tea、chanoyu を用いている。岡倉覚三(天心)は英文の著書 The Book of Tea(『茶の本』)において、Teaism と tea ceremony という用語を使い分けている。
主客の一体感を旨とし、茶碗に始まる茶道具や茶室の床の間にかける禅語などの掛け物は個々の美術品である以上に全体を構成する要素として一体となり、茶事として進行するその時間自体が総合芸術とされる。
現在一般に、茶道といえば抹茶を用いる茶道のことだが、江戸期に成立した煎茶を用いる煎茶道も含む。
       茶を点てる                茶室内                  草庵茶室
茶道 茶室 茶室庵

茶道の流派「三千家」:表千家  裏千家  武者小路千家

【華道】

生け花の源流は神仏への供花(くげ)である。「立花(りっか)」は供花が様式化されたもので、室町時代の池坊専応(いけのぼうせんおう)により考案された。中心に「(しん)」を高く立て、「(そえ)」などの「役枝(やくえだ)」を配している。
華道(かどう)は、植物のみや、植物を主にその他様々な材料を組み合わせて構成し、鑑賞する芸術である。「花道」とも表記し、またいけばな(生け花、活花、挿花)とも呼ばれる。 ただし華道という呼称は「いけばな」よりも求道的意味合いが強調されている。華道にはさまざまな流派があり、様式・技法は各流派によって異なる。
華道は日本発祥の芸術ではあるが、現代では国際的に拡がってきている。欧米のフラワーデザインは、3次元のどこから見ても統一したフォルムが感じられるように生けるとされる。華道の場合、鑑賞する見る方向を正面と定めている流派も多くあるが、3次元の空間を2次元で最大限に表す流派もある。また華道は色鮮やかな花だけでなく、枝ぶりや木の幹の形状、葉や苔となどすべてを花材とし鑑賞する点でも、海外のアレンジの概念とは一線を画している。

池坊「生花」小原流「盛花」草月流「自由花」
池坊(いけのぼう)生花(しょうか)小原流(おはらりゅう)盛花(もりばな)草月流(そうげつりゅう)自由花(じゆうばな)
植物の出生に着目した様式で生命力をみずみずしく表現線的構成に面的な要素を加え自然の情景を再現伝統に捉われない多彩で自由な造形


【書道】

書道(しょどう)または書(しょ)とは、書くことで文字の美を表そうとする東洋の造形芸術である。カリグラフィーの一種。中国が起源であるが、日本においては漢字から派生した仮名、ベトナムでは同じく漢字から派生したチュノムやローマンアルファベットを使用するクォック・グーなどでも創作活動が行われている。 2009年に中国の書道が、ユネスコの無形文化遺産に登録された。
                         漢  字  五  書  体

篆書隷書草書行書楷書
篆 書(てん しょ)隷 書(れい しょ)草 書(そう しょ)行 書(ぎょう しょ)楷 書(かい しょ)
中国での最古の書体
秦始皇帝の小篆(しょうてん)など
小篆を省略して装飾的に
漢隷が知られている
柔らかい曲線が特徴
点画を省略し崩している
楷書と草書の中間
隷書の早書きから誕生
点・画を崩さない基本書体、草書や行書より後

三   筆
三筆(さんぴつ)とは、日本の書道史上の能書のうちで最も優れた3人の並称であり、平安時代初期の空海・嵯峨天皇・橘逸勢の3人を嚆矢とする[2]。その他、三筆と尊称される能書は以下のとおりであるが、単に三筆では前述の3人を指す。
世尊寺流の三筆(藤原行成・世尊寺行能・世尊寺行尹) 寛永の三筆(本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗) 黄檗の三筆(隠元隆琦・木庵性瑫・即非如一) 幕末の三筆(市河米庵・貫名菘翁・巻菱湖) 明治の三筆(日下部鳴鶴・中林梧竹・巌谷一六)
この中で最も有名なのは、平安時代初期の三筆と寛永の三筆である。なお、三筆ではないが、平安時代中期の三跡もこれに比肩する。

空海橘逸勢嵯峨天皇
空海書橘逸勢書嵯峨天皇書
空海(くうかい)橘逸勢(たちばなのはやなり)嵯峨天皇(さがのてんのう)



三   蹟
三跡(さんせき)とは、書道の大御所三人のこと。三筆は各時代にいるが、この三跡ほどの影響を後世まで与えた人物はいない。字は三蹟とも表記する。また、入木道の三蹟(じゅぼくどうのさんせき)とも言う。

小野道風藤原佐理藤原行成
小野道風書藤原佐理書藤原行成書
小野道風(おののみちかぜ)藤原佐理(ふじわらのすけまさ)藤原行成(ふじわらのゆきなり)




国技

【柔道】

柔道

柔道(じゅうどう)とは、「柔」(やわら)の術を用いての徳義涵養を目的とした芸道、武道のことである。現代では、その修養に用いられる嘉納治五郎流・講道館流の柔術技法を元にした理念を指して「柔道」と呼ぶことが一般化している。柔道は、投げ技、固め技、当身技を主体とする武術・武道、そしてそれを元にした社会教育的な大系となっている。
柔道(じゅうどう)、日本伝講道館柔道(にほんでんこうどうかんじゅうどう)は、幼少時代から柔術修行に打ち込んだ嘉納治五郎が様々な流派を研究してそれぞれの良い部分を取り入れ、さらに自らの創意と工夫を加えた技術体系の「柔よく剛を制す」という心身の力をもっとも有効に活用した原理を完成させ、1882年(明治15年)にその考察から創始した武道である。



【剣道】

剣道

古武道の剣術のうち江戸時代後期に発達した防具着用の竹刀稽古(撃剣)を直接の起源とする。江戸時代末期(幕末)には流派を超えて広く試合が行われるようになった。明治時代以降、大日本武徳会が試合規則を定め競技として成立した。複数の流派が集まって成立したため、柔道の嘉納治五郎のような特定の創始者は存在しない。太平洋戦争後に大日本武徳会は解散し、その後発足した全日本剣道連盟が事業を継承している。
現代の剣道は事実上スポーツにも分類されるが、全日本剣道連盟は「剣道は剣道具を着用し竹刀を用いて一対一で打突しあう運動競技種目とみられますが、稽古を続けることによって心身を鍛錬し人間形成を目指す「武道」です。」としている。

【相撲】

相撲

相撲(すもう)は、土俵の上で力士が組合って戦う形を取る日本古来の神事や祭りであり、同時に武芸でもあり武道でもある(「弓取り式」の本来の意味から)。古くから祝儀(懸賞金という表現)を得るための興行として、大相撲が行われている。近年では、日本由来の武道・格闘技・スポーツとして国際的にも行われている。



美術

【浮世絵】

江戸時代に生まれた絵画で、「浮世」すなわち「当世」の流行や風俗を描いたものである。当初は肉筆画だったが木版画による量産で大流行した。テーマも多岐にわたり江戸庶民生活模様から全国各地の風景、幕末から明治の文明開化まで描かれた。

役者絵見返り美人図富嶽三十六景新橋駅
役者絵(鳥居清信)見返り美人図(菱川師宣)富嶽三十六景(葛飾北斎)新橋駅(歌川広重)

ベストセラー絵師と代表作品

葛飾北斎東洲斎写楽歌川国芳喜多川歌麿歌川広重
葛飾北斎(かつしかほくさい)東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)歌川国芳(うたがわくによし)喜多川歌麿(きたがわうたまろ)歌川広重(うたがわひろしげ)
画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明
富嶽三十六景
(神奈川沖浪裏)
役者絵
(三代目大谷鬼次)
錦絵
(忠臣蔵夜討之図)
美人絵
(寛政三美人)
東海道五十三次
(江戸日本橋)

【日本絵画】

日本独自の表現法として平安時代に起った「やまと絵」技法で、心にとまる花鳥風月が襖絵(ふすまえ)屏風絵(びょうぶえ)絵巻物(えまきもの)障壁画(しょうへきが)に描かれている。
主な作者と代表作品


【仏像】

【庭園】

世界の庭園は大きく二つに分類される。
整形式庭園:館を中心に左右対称で幾何学的な造形⇒フランス式庭園
自然風景式庭園:池を中心に配置し土地の起伏・築山・自然石・草木・山野の光景をありのまま再現⇒浄土庭園・寝殿造庭園・枯山水式庭園・露地
                          代表的な日本庭園

東福寺方丈西庭兼六園浄瑠璃寺
東福寺(とうふくじ)方丈西庭(京都市)兼六園(けんろくえん)唐崎松の雪吊り(金沢市)浄瑠璃寺(じょうるりじ)三重塔(国宝)と庭園(木津川市)
西芳寺龍安寺平等院
西芳寺(さいほうじ)苔寺(こけでら)苔庭(京都市)龍安寺(りょうあんじ) 方丈庭園(京都市)平等院(びょうどういん)鳳凰堂(国宝)(宇治市)

                               有名な作庭家

夢窓疎石小堀遠州重森三玲(肖像なし)
夢窓疎石(むそうそせき) (1275~1351年)
臨済宗の僧、庭を通じて禅の本質を伝えた。
国師号を贈られた後醍醐天皇の冥福を祈り
天龍寺を開き作庭。
他に西芳寺・瑞泉寺・惠林寺の庭も手がけた。
小堀遠州(こぼりえんしゅう) (1579~1647年)
建築家でもあり、二洞御所の建築・作庭
二条城二之丸庭園の改修、金地院・孤篷庵庭園
その美しさは「きれいさび」と称された

重森三玲(しげもりみれい) (1896~1075年)
昭和期の作庭家
全国約400の庭園を実測調査し
『日本庭園史図鑑』26巻を刊行
力強い石組とモダンな苔の地割りが特徴
枯山水庭園構造

【例】 枯山水庭園(かれさんすいていえん)
銀閣寺
    銀閣寺
大徳寺
    大徳寺
妙満寺
    妙満寺
曼殊院
    曼殊院
Column【忍者】

忍者屋敷

忍者屋敷
諜報技術により情報収集・破壊活動・暗殺などを行う個人または集団で領主や大名に仕えた。「伊賀」「甲賀」「雑賀(さいが)」が有名である。
女性忍者は「くノ一(くのいち)」(『女』の分解読み)と呼ばれた。

工芸

【漆芸】(しつげい)

漆採取

(うるし):木の幹から採取した樹液で、採取したままの樹液は「荒味漆」、ゴミなどを濾した「生漆」、さらに上質なものを「生正味漆」、さらに精製したものが「透漆」と呼ぶ。「色漆」は透漆に顔料を加えてつくる。
樹高3 - 10m以上になり、雌雄異株。樹皮は灰白色。葉は3 - 9対で、卵形か楕円形の小葉をもつ奇数羽状複葉で、紅葉する。花は6月ごろ、葉腋に黄緑色の小花を多数総状につける。果実はゆがんだ扁平の核果で、10月ごろ成熟して黄褐色となる。アレルギー性接触性皮膚炎(いわゆる「ウルシかぶれ」)を起こしやすいことで有名である。

樹幹に切り込みを入れ、にじみ出した樹液を採取する。

蒔絵堆錦彫漆蒟醤
蒔絵(まきえ)
漆器の代表的な加飾技法。漆で描いた絵や文様が乾かないうちに、器の表面に金・銀粉を蒔きつけて定着させる。
堆錦(ついきん)
琉球漆器の技法。漆と顔料を混ぜ金槌で叩いてできた各色の堆錦餅を薄くのばし、切り取った文様を器面に貼りつける。
彫漆(ちょうしつ)
幾種類かの色漆を幾重にも塗り重ねて層を作った後、文様を彫刻する技法。堆朱(朱漆のみ)・堆黒(黒漆のみ)がある。
'蒟醤(きんま)
漆を薄く何回も塗り重ねた器面に文様を線彫りし色漆を充填。その後に余分な漆を取り研ぎ出して仕上げる。
螺鈿沈金箔絵
螺鈿(らでん)
夜光貝・蝶貝・アワビなどの貝殻の内側部分(虹色光沢をもつ真珠層)を板状に切り、漆地に埋め込み貼り付ける。
沈金(ちんきん)
漆面に凹状に彫ったところに漆液を入れ、さらに金箔や金粉を押し込んだ後、はみ出た部分を拭い線や点模様を表現する。
箔絵(はくえ)
石黄などを混ぜた専用漆で文様を描いた上に金・銀箔を貼り、乾燥後に拭って文様部分だけに箔を残す技法。

                            主な色漆

黒朱洗朱うるみ
洗朱(せんしゅ)うるみ
鉄粉を混入することによって黒色化。古くは掃炭と透漆との混合によりつくられた。本朱(本朱・赤口・黄口),あるいは弁柄と透漆との混合によるもの。本朱又は弁柄と透漆を混合した色漆に黒漆を加えたもの。
紅溜青漆浅黄黄
紅溜(べにだめ)青漆(せいしつ)浅黄
本朱(本朱・赤口・黄口),あるいは弁柄と透漆との混合によるもの。石黄とベレンスと透漆を混合するか,黄漆と黒漆を混合する。石黄と透漆の混合によるもの。石黄と透漆の混合によるもの。


【染織】

色彩
伝統色
参考:カラーコード表(16進数)
四季の配色
四季の配色
エレガント配色
色のイメージ
色のイメージ
【木竹工】
【陶芸】
【刀剣】
【人形】
【金工】
【千代紙・和紙】
【落語】

食と風俗

【正月】
【おせち】

【和服】

家紋
文様
伝統文様
家紋
武将の家紋
武将の家紋
一般家紋
家紋家紋
家紋一覧1番から20番(拡大)   家紋一覧21番から40番(拡大)

【郷土玩具】

【和食】

有名な日本料理

江戸前ずしA

江戸前ずしB
江戸前ずし
江戸前ずし(えどまえずし)・江戸前鮨・江戸前鮓・江戸前寿司は握り寿司を中心とした、江戸の郷土料理である。世界共通語となった「sushi」は主にこの「江戸前ずし」を指す。古くは「江戸ずし」「東京ずし」ともいった。江戸前の豊富で新鮮な魚介類を材料とした、寿司屋の寿司職人が作る寿司である。江戸前握りずしの具材を「タネ」といい、逆さにした符丁で「ネタ」とも呼ばれる。その主なものに次のようなものがある。
【春】 キス、シラウオ、サヨリ、カスゴ、ヒラマサ、トリガイ、アオヤギ、アサリ、ハマグリ、ホタルイカ、シャコ
【夏】 アジ、シマアジ、シンコ、スズキ、カツオ、ツブガイ、イサキ、タチウオ、エボダイ、アナゴ
【秋】 サバ、コハダ、イワシ、戻り鰹、カンパチ、ミルガイ、イクラ
【冬】 カジキ、ブリ、ハマチ、サワラ、ヒラメ、タイ、コウイカ、赤貝、ハマグリ、タイラギ、ホタテガイ、カニ、アマエビ
以下の種は種類や産地を問わなければ、比較的年中安定して供給される。
マグロ、カレイ、アワビ、エビ、タコ、イカ、ウニ、卵焼き
信州そば

画像の説明
信州そば
一般的には長野県で作られるそばの総称である。と考えられている。中でも、長野県信州そば協同組合(長野県内業者21社で構成)において、組合に申請のある製品に対し、そば粉を40%以上配合した良質の干しそばを商標登録した信州そばとして認定してロゴマーク使用の許可をする。 特に松本市内の蕎麦処は有名店が集中しており、天ぷらや馬刺しなどを一緒に食す場合が多い。蕎麦焼酎の蕎麦茶割などは、通好みの酒の飲み方として今も愛されている。在食べられている麺線状のそば(そば切り)は信州から始まったといわれ、それ以前は団子状の「そばがき」や「すいとん」、薄く焼いた「お焼き」、「煎餅」などとして食べられていた。そば切りの最古の記録は天正2年(1574年)、信州木曽にある定勝寺の記録にみられ(落成祝いにそば切りを振る舞ったというもの)、その発祥は戦国時代以前にさかのぼると思われる。伝統的には山間の救荒食であった蕎麦だが、そば切りに関してはもともとハレの日のごちそうという性格が強く、江戸時代中期以降、江戸の庶民文化の中で嗜好品として花開いた。また、出石そば、出雲そば、越前そばや、京都のにしんそばなど各地のご当地そばのルーツも元をたどれば信州にあるといわれている。そばは高冷地の土地を好むことから、信州の風土が合致し比較的多く栽培され、各地域で自家製料理として多様なそばうちが存在している。しかしながら、農業先進県で耕地面積の多い長野県だが、先進ゆえ他の優良作物の栽培が多く、そばの製造量をまかなえるだけの作付けがなく、輸入も含めた県外産のソバを使用しているのが実情である。
うどん

讃岐うどん
     讃岐うどん
うどん
小麦粉を練って長く切った、ある程度の幅と太さを持つ麺。またその料理。饂飩も書く。細い物などは「冷麦」「素麺」と分けて称することが一般的ではあるが、乾麺に関して太さによる規定がある以外は厳密な規定はなく「稲庭うどん」のように細い麺であってもうどんと呼ぶもの存在する。薄い物については、乾麺については基準を満たせば「きしめん、ひもかわ」と称してよいと規定がありうどんの種類の一つである。
手軽な庶民食、米食の代用食として、また、祝い事に際して振る舞われる「ハレ」の食物として、古くから日本全国で食べられてきた。地域によって、調理法や具材が違っている。麺を大きな鍋で茹で上げる場合には、鍋の周囲に引っ掛けた状態で茹でることができるよう、金属製あるいは竹製で深いザル状になっている「鉄砲ざる」(略してテボ、てぼざるとも言われる)が用いられることも多い。うどんを供する場合には丼(かけうどん)、皿(うどん鉢など)やざる(ざるうどん等)、鍋(すき鍋等)のほか、桶(うどん桶)も用いられる。うどん専門店や蕎麦も提供する麺類の専門店のほか、外食チェーン店などのメニューともなっている。また、麺はスーパーマーケットなどで乾麺または茹で麺や生麺の状態で販売される。また、カップ麺としても販売されている。日本におけるうどんの文化として、歴史的には蕎麦(蕎麦切り)よりうどんの方が古い。また、小麦の原産地は中央アジアから西アジアとされており、米作に向かない地域で耕作され発展している。「門前蕎麦」と同じく、参拝者などに対する「門前饂飩」として古い歴史を持った社寺にまつわる文化的なうどんが各地に存在している(讃岐うどん・加須うどん・吉田のうどん・伊勢うどんなど。関東では蕎麦が好まれ、関西ではうどんが好まれるとされているが、蕎麦=東日本、うどん=西日本とするのは正しくない。
蒲焼き蒲焼き(かばやき)
身の長い魚を開いて中骨を取り除き、串を打った上で、素焼きしてから濃口醤油、みりん、砂糖、酒などを混ぜ合わせた濃厚なたれをつけて焼く魚料理。照り焼きの1種である。江戸料理の1つであり、江戸の伝統的な郷土料理でもある。た、同様の工程を取らずに同様の風味や外見がある蒲焼風の物をも称す(鶏肉をローストした鶏蒲焼など)。一般に「蒲焼」といえば「ウナギの蒲焼」を指すことが多く。サンマやイワシの蒲焼きの缶詰も普及している。一方、高度成長期以前はナマズの蒲焼も多く食されたとされる。他の食材としては、ハモ、ドジョウ、ムツゴロウ、カワヤツメなどが使われる。変わり種としては、ナスやゆばなどがある。
蒲焼の作り方は大きく分けると2種類ある。いわゆる「関東風」は背開きにしてまず白焼きにし、蒸してからタレを付けて本焼きするものに対して、「関西風」は腹開きでそのままタレを付けて焼く。浜松や諏訪湖周辺では、背開きで蒸さない蒲焼が存在する。また、福岡では、焼いてから蒸す事によって柔らかくする「せいろ蒸し」も行われている。
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天ぷら
魚介類や野菜等の食材を、鶏卵と溶き汁を小麦粉にあわせたものを衣とし、油で揚げて調理する代表的な日本料理である。「江戸の三味」の一つであり、江戸料理、江戸(東京)の郷土料理となっている。種(タネ)(または職人が使用する符丁としてのネタ)と呼ばれる食材を、小麦粉と卵で作った衣をつけてから、天ぷら鍋などを使用し食用油で揚げる料理である。日本人にとっては馴染み深い料理であり、元々は屋台で食べられた江戸庶民の大衆的な食べ物であった。現在でもスーパーマーケットなど小売店の惣菜や立ち食いそば店の定番種物として親しまれている庶民的な料理である一方、天ぷら専門店においては材料と調理に手間暇をかけた天ぷらを作る。天ぷら専門店や和食店などによる外食も盛んだが、家庭でも天ぷらが作られる事も多く一般的な家庭料理ともなっている。日本の代表的な料理に挙げられる事も多く、日本国外人の評判も高い。当初の種としては、野菜・薩摩芋・レンコン、次いで江戸前の芝エビや魚が使用された。江戸前の魚介類は多く使用され野菜を天ぷら種とした物もどちらも「天ぷら」と呼ぶ事が一般的となっている。一方、野菜の天ぷらは単に揚げ物とも呼んだり、 精進料理を元とする野菜の天ぷらは精進揚げ(しょうじんあげ、しょうじあげ)とも呼ぶ。
江戸時代においては、串に刺したものを「つゆ」・「大根おろし」をつけて食べていた。単品として食べる場合は天つゆと共に食するのが一般的とされる。そのため天ぷらの専門店などでは揚がった天ぷらは天皿、天つゆは呑水(とんすい)に入れて供される。天つゆは出汁と味醂と醤油と砂糖が基本となるつけ汁で、大根おろし、紅葉おろし、おろし生姜、柚子、山椒等が薬味として用いられる。これは近代に入ってからの食べ方であり、天ぷらが発明された江戸時代には醤油をかけて食べていて、現在でも家庭料理としては醤油をつけて食べる場合もある。また、「ぬれ天ぷら」と称して客に出される以前から甘辛いたれを含ませ、その味で食べさせる例もある。食材によっては柑橘類の絞り汁だけをかけて食べることもある。塩で味付けして食べることも多い。塩は粗塩などの他、抹茶(抹茶塩)、カレー粉(カレー塩)、柚子皮(柚子塩)、山椒を混ぜた物も使用される。
精進料理

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精進(しょうじん)料理
仏教の戒律に基づき殺生や煩悩への刺激を避けることを主眼として調理された料理。精進料理では避けるべきと考えられている食材が大きく分けて2つあり、1つは動物性の食材、もう1つは五葷(ごくん)と呼ばれるネギ属などに分類される野菜である。ただし、五葷(ごぐん)の扱いは時代や地域によって異なる。まず、第一に動物性の食材は禁忌とされている。第二に五葷(ネギ科ネギ属などに属するにんにく、ねぎ、にら、たまねぎ、らっきょう)は禁忌とされることがある煩悩を刺激し食材のにおいも強いことから避けられる。ただし、山椒、生姜、パクチーを含むこともあるなど、時代や地域によって精進料理で禁忌とされる野菜類の範囲は異なっている。精進料理の特徴は、野菜・豆類など、植物性の食材を調理して食べることにある。サラダのように一品の料理として野菜を生のまま食べるという概念が中国や日本の食文化に定着するまでは、野菜・豆類は基本的に加熱調理する必要があった。これらを使う精進料理は、あく抜きや水煮といった時間と手間のかかる下処理を必要とすることが多いのが、特徴のひとつである。これらの複雑な調理技術や使用する食材に対する概念は、多くの料理人や料理研究家に影響を与え、料理分野全体の水準向上に貢献してきた。また、精進料理は極めて単純な食材を、多くの制約がある中で調理するため、さまざまな一次・二次加工が施されてきたことも特徴のひとつである。例として、大豆は栄養価が高く、菜食で不足しがちなタンパク質を豊富に持つこともあり、精進料理に積極的に取り入れられたが、生食は困難である。このため、風味を向上させ、長期保存し、食べる者を飽きさせないといった目的も含め、豆豉、味噌、醤油、豆乳、湯葉、豆腐、油揚げ、納豆などが生み出された、こうした技術は、精進料理を必要とする寺院と宮廷を含むその周辺の人々によって、研究・開発され、蓄積されてきた。

代表的な「だし」の食材

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鰹節(かつおぶし)
昆カツオの肉を加熱してから乾燥させた日本の保存食品。鰹節や#その他の節を削ったものを削り節と呼ぶ。おかかは、鰹節、または削り節のことを指す。日本では、701年には大宝律令・賦役令により、堅魚に分類される干しカツオなどが献納品として指定される。現在の鰹節に近いものでは、室町時代の1489年のものとされる『四条流包丁書』に「花鰹」とあり、干物ではないかなりの硬さのカツオが想像される。江戸時代には、甚太郎という人物が現在の荒節に近いものを製造する方法方を考案し、土佐藩(現・高知)では藩を挙げてこの熊野節の製法を導入した。江戸時代には鰹節の番付、明治時代には品評会などが開催された。伝統的な枯節は、土佐、薩摩、阿波、紀伊、伊豆など太平洋沿岸のカツオ主産地で多く生産されてきた。食用として利用する際には、かんなに似た刃を持つ削り器で削り削り節とするのが伝統的な方法である。この削り節は、調味料として和食では重宝される。鰹節からのイノシン酸の抽出には水に含まれるミネラルが悪影響を及ぼすので軟水の使用が望ましい
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昆布(こんぶ)
不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科 Laminariaceae に属する数種の海藻の(一般的)名称である。生物学が生まれる以前からの名称であるため、厳密な定義はできないが、葉の長細い食用のものがコンブと呼ばれる傾向がある。コンブ科に属する海藻でも、アラメ、クロメ、カジメ、オオウキモなどは、通常コンブとは呼ばれない。生物学ではカタカナ書きの「コンブ」が使われるが、和名として単なる「コンブ」という種は存在せず、マコンブやリシリコンブ、ミツイシコンブなどのように、コンブ科植物の種の標準和名に用いる。他方、食品など日常的には昆布やこんぶ(こぶ)の表記も使われる。ウェブスター辞典などにもそのままkombuとして記載されているコンブ科の海藻は、日本では北海道沿岸を中心に三陸海岸などにも分布し、寒流の親潮海域を代表する海藻であり、また重要な食用海藻であるだけでなく、大きな藻場を形成し多様な生態系を保つ働きもある。コンブは胞子によって増殖する。コンブの胞子(大きさは5µm程度)は2本の鞭毛を持ち、海中を泳ぐことができるので特に「遊走子(ゆうそうし)」と呼ばれる。遊走子はコンブの表面から放出され、海中の岩などに着生する。着生した遊走子は発芽して「配偶体」という微小な植物体になる。1個の遊走子から1個体の配偶体ができ、雄と雌の配偶体がある。雌雄の配偶体それぞれに卵と精子が作られる。この卵と精子が受精し、受精卵が生長すると巨視的な「胞子体」、つまりコンブとなる。日本のコンブ生産量は約12万トン(2005年度 生重量)。生産量全体に占める養殖物の割合は約35パーセント(2005年度)。天然物の生産量の95パーセント以上を北海道が占める。また、中国でも80万トン前後が養殖されている。北海道の函館市沿岸ではマコンブの養殖が盛んに行われている。マコンブは2年生のため、その養殖には2年の時間と手間が必要であり、2年栽培のものに近い質を目指した1年の促成栽培もある。また、産業上重要種であるミツイシコンブ、リシリコンブ、オニコンブに関しても、その養殖法は確立されている。その他の種に関しては天然の現存量が多い、もしくは前述の種より利用価値が低いことから、養殖法が確立されていない。コンブの収穫は、小舟から箱メガネなどで海中を見ながら昆布の根元に竿を差し入れ巻き付けてねじり取る[18]。コンブ漁に用いられる先が二股になった棒は「マッカ」などと呼ばれる。海岸で押し寄せてきたコンブを拾ったり、鈎でたぐり寄せる方法もある。次に、小石を敷き詰めた干場に運び並べて干す。1〜2回裏返しにし、まんべんなく乾燥させる。乾燥しすぎると折れやすくなるため加減が必要である。乾燥時間は半日程度だが、この間に雨に当たると商品価値はなくなるので、天気予報で雨が確実な日は出漁を見合わせることもある。天日ではなく乾燥機で干す方法もあり、品質は落ちるが、濃霧や日照不足などの理由で乾燥機の使用頻度が多い地域もある。コンブ干しは短期決戦のため、干し方専門のアルバイトが募集されるほか、コンブ漁場の近くに番屋を張り寝泊まりする地域もある
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干し椎茸(しいたけ)
シイタケは日本、中国、韓国などで食用に栽培されるほか、東南アジアの高山帯や、ニュージーランドにも分布する。日本においては従来から精進料理に欠かせないものであり、食卓に上る機会も多く、また旨み成分がダシともなるため、数あるキノコの中でも知名度、人気ともに高いもののひとつである。英語でもそのままshiitakeで、フランス語ではle shiitake(男性名詞)で受け入れられている。日本を代表する食用キノコとして親しまれている。我が国では「しいたけ品質表示基準」によって、食品としての「しいたけ」を「しいたけ菌の子実体であって全形のもの、柄を除去したもの又は柄を除去し、若しくは除去しないでかさを薄切りにしたもの」と定義している。旨み成分として、5'-グアニル酸やグルタミン酸を豊富に含むので、食材としてだけでなく、出汁をとるのにも使われる。グアニル酸は生のシイタケでは総重量に占める割合が少ないが、乾燥して温度が上昇する過程で、リボヌクレアーゼやホスホモノエステラーゼなどの酵素の働きにより増加する。また乾燥することで細胞が破壊され、旨味成分の抽出効率が上昇する。風味・食感に癖があり、ピーマンやニンジン、グリーンピースと並び好みの別れる食物の一つでもある。また栄養価としては炭水化物、食物繊維、ミネラルが主で、低カロリー食品である。しかし、含有されるミネラル分やビタミン類の量は生育環境(栽培条件)により大きく異なり栄養価として公表されている数値は目安に過ぎない。そのため収穫後の子実体への効果を期待し様々な成分の添加が研究されている。
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煮干(にぼし)
煮干し(にぼし)は小魚を煮て干したもので、主に出汁をとる材料として使われるほか、そのまま、あるいは乾煎りにするなどで食べられている。カタクチイワシで作ったものが最も一般的だが、マイワシ、ウルメイワシ、キビナゴ、アジ、サバ、トビウオ(あご)などを原料としたものもある。イリコ(炒り子)、じゃこ(雑魚)、だしじゃこ(出汁雑魚)など多くの別名がある。沿岸地域各地で産し、長崎県が日本最大の生産地である。香川県伊吹島産など瀬戸内海で漁獲したカタクチイワシを加工したものが有名。購入時の目安として、背側が盛り上がりくの字に曲がっているものが鮮度のよい魚を加工したものである。逆に腹側が盛り上がるようなくの字になって腹が割れているものは、加工時の鮮度が悪かったもので、出汁をとる際に生臭味が強くでる。色合いは青みがかった銀白色が脂肪の酸化されていない上質なもので、赤茶色になっているのは脂肪が酸化された粗悪な製品である。ただし、よほど酸化が進まないかぎり変色しないので、色で酸化の度合いを見極める事は専門家でも困難といわれている。水出し法と煮出し法があり、水出しの方が雑味の少ない良質の出汁が取れる。頭と腹わたからは苦味や雑味が出るので下拵えとして取り除くと良いとされるが、水出しの場合は頭と腹わたから灰汁が出にくいため、それらから出る旨みを利用するために取り除かない方法もある。出汁が出やすいように、中骨に沿って2枚下ろしのように指で二つに割る。ただし一般家庭で味噌汁等に使う場合には、特別な下拵えをせずにそのまま使う場合も多い。なお出汁を抽出した後に焼け火箸を入れると生臭みの元になっている成分が揮発し上品な出汁になるといわれている。出汁をとった後の煮干は出し殻として取り出すが、家庭料理ではそのまま汁の実として食べる場合もある。

主な調味料

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     色の違うみそ汁
味噌
大豆や米、麦等の穀物に、塩と麹を加えて発酵させて作る、日本の発酵食品である。日本の伝統的な食品の一つである。miso として日本国外にも知られている。食品学、人類学的には、日本の味噌は醤油と同じく、醤(ひしお/ジャン)のうち穀醤(こくしょう)に分類される。一般的に販売される味噌は日本独自のものである。しかし大豆や、その他の穀物や豆を原料としたペースト状の発酵調味料である穀醤は、東アジア、東南アジアの各地に存在し、類似性からそれを含める場合もある。例えば中国の豆板醤、韓国のコチュジャンは、日本ではしばしば唐辛子味噌などと呼ぶ。穀物の違いや麹の違いで種類が豊富である。主な原料は大豆である。穀物に黄麹菌などの麹菌を繁殖させた麹や塩を混ぜ合わせ、発酵させることによって大豆のタンパク質を消化しやすく分解し、旨みの元であるアミノ酸を多量に遊離する。穀物由来の麹が増えるとデンプンが糖に変わって甘味が増し、大豆が増えるとアミノ酸による旨味が増す。温暖多湿という日本の国土条件の中、職人技により製造する。現代的な食品の衛生基準との間で伝統を守りづらくなっている[要出典]​。原料により豆味噌、米味噌、麦味噌など、地域、種類により赤味噌、白味噌、合わせ味噌(調合味噌)などと区別する。古くから日本の食生活における主な蛋白源である。また副食の素材が豊富になった今日では調味料とみなす事がある。江戸時代中盤以前は「おかず」的な扱いをしていた。現在でも「おかずみそ」・「ねぎみそ」・「ピーナッツみそ(みそピー)」・金山寺味噌・豚味噌(アンダンスー)・魚味噌・朴葉味噌など、多数のおかずとして食用にする味噌加工品が存在している。日本料理に欠かせないものの一つとなっている。海外旅行中に、味噌汁を飲みたくなる人がいるなど、日本人の味として親しまれている。スローフードや日本食ブームにより、味噌の良さが改めて見直されている。長年の経験では、味噌は食品として万能であることが江戸時代の本朝食鑑に記載されており、その健康増進効果から味噌汁は「医者殺し」と当時から言われていた。20世紀後半からは、健康効果の研究がおこなわれている。
味噌を主とする食材・料理
 ●食材
  朴葉味噌 - 岐阜県・長野県 南蛮味噌(神楽南蛮味噌・かんずり) - 新潟県
 ●主菜・主食
  味噌おでん - 愛知県 味噌煮込みうどん - 生麺を八丁味噌仕立てのだしでそのまま煮込んだ愛知県(名古屋地域)のうどん 味噌ラーメン - 札幌ラーメン、信州ラーメンなど味噌を主体にしたご当地ラーメンが全国各地にある 芋がら縄 - 戦国時代の保存食 なめろう - 生の魚の身と味噌を混ぜたペースト状の料理 味噌カツ - 豚カツのソースとして赤味噌仕立てのたれをかけた料理
 ●副菜
  味噌汁 - 豚汁、冷汁 味噌田楽 - 豆腐の切身等を竹串に刺し赤味噌等を付けて炭焼きにしたもの 風呂吹き - 大根等を煮て、練り味噌をかけて食べる料理 濃漿 - 味噌味で濃く仕立てた汁物。鯉こくなど
 ●おやつ・菓子
  五平餅 - 潰したご飯に味噌をぬって串焼きにしたもの 味噌松風 - 味噌仕立ての焼き菓子 味噌饅頭 - 味噌生地のまんじゅう 味噌せんべい - 八丁味噌せんべい (愛知県岡崎市備前屋) 味噌煎餅(岐阜県飛騨市) 味噌かりんとう - 八丁味噌を使ったかりんとう かりんとうの色がちょうど八丁味噌と同じ種類のものが従来よりあったため、八丁味噌を使うことを考案した可能性がある (愛知県岡崎市備前屋) 味噌パン - 味噌を使った菓子パン、または惣菜パンの一種
醬油(しょうゆ)画像の説明
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醬油
主に穀物を原料とし、醸造技術により発酵させて製造する液体調味料であり、日本料理における基本的な調味料の一つとなっている。醤油は現代の日本における呼び名であるが、同等の調味料は別の呼び名で東アジアの民族料理にも広く使用されている。例えば現代の中国では同じく醤油と書く。中国の一部の地方においては「生抽」と表記することもある。東南アジアでは大豆を原料としない魚醤が頻繁に用いられる地域もあるが、同地域でもマイナーながら大豆を用いた発酵調味料も見られる。日本の醤油は100か国以上に輸出されている日本の味として知られている。日本の醤油は独自の発展を経て明治時代の中期に完成を見た。日本の醤油は大豆、小麦、塩を原料とし、麹菌、乳酸菌、酵母による複雑な発酵過程を経て生成され、その過程でアルコールやバニリン等の香気成分による香り、大豆由来のアミノ酸によるうまみ、同じく大豆由来のメチオノールによる消臭作用と、小麦由来の糖による甘みを持つ。なお、醤油の赤褐色の色調は、主にメイラード反応によるものである。鉄分はコウジカビの生育に悪影響を与えるので鉄分の少ない水を使用する。鉄分が少ない方が色が薄く仕上がり、酒造に適さない軟水の方が醤油の醸造には適する。醤油は、日本料理の調理で煮物の味付けや汁やタレのベースにするなど、広く利用されている。また醤油差しに入れられて食卓に供され、料理にかけたり少量を浸す「つけ・かけ」用途にも使われる。天ぷら、江戸前寿司、蕎麦など、日本の食文化の基本となっている調味料である。千葉県・兵庫県が主要な産地となっており、ほとんどの場合は濃口醤油が使用されそれが醤油の代表となっている
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        ごまの実
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        ごま畑
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      ごまおにぎり
胡麻(ごま)
ゴマ科ゴマ属の一年草。アフリカ大陸に野生種のゴマ科植物が多く自生しているが、考古学の発掘調査から、紀元前3500年頃のインドが栽培ゴマの発祥地である。主に種子が食材、食用油など油製品の材料とされ、古代から今日まで世界中で利用する植物である。日本で使用されるゴマは、その99.9%を輸入に頼っている。財務省貿易統計によると、2006年のゴマの輸入量は約16万トン。国内では鹿児島県、茨城県、沖縄県などで生産されているが、総生産量は100トンにも満たない。国内有数の産地である鹿児島県喜界島では、8-9月頃の収穫時期には、集落内、周辺にゴマの天日干しの「セサミストリート」(ゴマ道路)が出現する。西日本の暖地の場合、5月から6月頃、畦に二条まきする。発芽適温は20度から30度で、適当な水分と温度とがあれば容易に発芽する。本葉が二枚になり草丈が成長してきたら、2回程度間引きを行い、株間を開ける。収穫は9月頃。白ゴマ、黒ゴマ、黄ゴマ(又は金ゴマ、茶ゴマ)など、種子の外皮の色によって分類される[5]。欧米では白ゴマしか流通しておらず、アジアは半々。金ゴマは主にトルコでの栽培。日本の品種・農研機構作物研究所において育成された「ごまぞう」(種苗登録2006年)は、ゴマでは初めての登録品種であり、種子中のリグナンであるセサミン、セサモリン含有量が既存在来種と比較して高いことが特徴である。2009年には同じくリグナン含有量が高い黒ゴマ新品種「ごまえもん」と白ゴマ新品種「ごまひめ」が育成され、品種登録出願された。その後両品種はそれぞれ「まるえもん」と「まるひめ」に名称変更されている。2010年のゴマの世界の総生産量は384万トンであった。2010年の最大の生産国はミャンマーである。上位3カ国はミャンマー、インド、中国で、世界総生産量の約50パーセントを占める。ゴマは2010年には世界の農場で780万ヘクタールを超える面積で栽培されるまでになった。
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   色々な胡椒
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   胡椒植物
胡椒(こしょう)
コショウ(胡椒、学名:Piper nigrum)は、コショウ科コショウ属のつる性植物、または、その果実を原料とする香辛料のこと。インド原産。味は辛い 。収穫のタイミングや製法の違いにより以下の4種類が存在する。 ピペリン (piperine) という化学物質が胡椒に独特の風味を与える。
黒胡椒
別名『ブラックペッパー』とも呼ばれ、胡椒の木から取れた完全に熟す前の実を長時間かけて乾燥させたものである。世界中のどんな地域を旅しても、塩の隣にブラックペッパーの小瓶が並んでいると言われている。強い独特の風味があり、特に牛肉との相性が良い。
白胡椒
別名『ホワイトペッパー』とも呼ばれ赤色に完熟してから収穫した後、乾燥させた後に水に漬けて外皮を柔らかくして剥いたものである。ブラックペッパーより風味が弱く魚料理と相性が良い。薬用には一般的にこれが使われる。
青胡椒
完全に熟す前の実で収穫するが、ブラックペッパーと異なり塩漬けまたは短期間で乾燥したもの。「爽やかな特徴のある辛み」があり、肉料理や魚料理との相性が良いとされる[3]。タイ料理やカンボジア料理では、香辛料としてではなく、実を炒め物の「食材」として利用する。なお、別名として『グリーンペッパー』とも呼ばれるが、これはピーマンを指す場合もあるので注意が必要である。
赤胡椒
赤色に完熟してから収穫するが、ホワイトペッパーと異なり外皮をはがさずにそのまま使用する。ペルーなど南アメリカの料理で使用されることが多く、マイルドな風味であり、また色合いもよい。別名は『ピンクペッパー』と呼ばれる。なお、代用品として南アメリカ原産のウルシ科の植物「コショウボク」の実が『ピンクペッパー』の名前でインドやカンボジアなどで使用されることがあるが、別名「ポブレ・ロゼ」とよばれるこの実は正確にはコショウではない。また、セイヨウナナカマドやサンショウモドキの実とも酷似している。赤胡椒を直訳すると『レッドペッパー』であるが、これは唐辛子のことをさす。
胡椒は、粉に挽いたものや、さらに塩と混ぜた「塩コショウ」として売られているものが多いが、本来の風味を愉しむなら、ペパー・ミルで、使うたびに挽くのが理想的である。ペパー・ミルは、使い捨ての「ミル付きコショウ」から、円筒形のボディに擬宝珠のようなハンドルの付いた、木製のデザインに優れた芸術品まで、いろいろな種類がある。
コショウの消費期限は製造方法や保管状況にもよるがおおよそ2〜3年である。挽いた後のものは挽く前より香味が飛びやすくなるので短くなる。また「白胡椒」「黒胡椒」の乾燥させたものは「青胡椒」「赤胡椒」といった乾燥させる前のものより長持ちしやすくなる。大航海時代など物流が発達する前は「青胡椒」「赤胡椒」は原産地での香辛料や食材として使用されていたのに対し、原産地から離れていたヨーロッパでは「白胡椒」「黒胡椒」を使用した料理が多かった。現在は物流が発達したことや世界各地で胡椒の生産が行なえるようになったこと、さらに各国の料理が世界中に広まっていることからこの区別はなくなっている。
成分としてアルカロイドに分類されるピペリンが含まれており、薬効を期待した薬膳料理に使用される。効能としては消化不良、嘔吐、下痢、腹痛などの症状に対して、また、抗がん作用、抗酸化作用もあるとされる。ダイエット用などのサプリメント、他の成分の吸収率を高めるなどの効果があるとして健康食品にも使用され 、一緒に摂取した医薬品の作用を増強することも報告されているが、多量に摂取した場合に他の医薬品と相互作用を示すことから、健康被害が発生する可能性を否定できず注意が必要ともされる。
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山葵(わさび)
アブラナ科ワサビ属の植物。日本原産。食用。強い刺激性のある独特の香味を持ち、日本原産の香辛料として、以前から欧米や東南アジアで認知度の高まりを見せているが、東欧では自産のセイヨウワサビが伝統的に出回っている。 また日本においても、家庭用練りワサビにはセイヨウワサビを本種と混ぜ合わせたものが多い。
日本の主要な産地は静岡県、長野県、東京都(奥多摩)、島根県、山梨県、岩手県、奈良県等である。なかでも、匹見ワサビ(島根県益田市)、安曇野ワサビ(長野県安曇野市)、有東木ワサビ(静岡市)は日本三大ワサビと呼ばれる。ほか、台湾南部、ニュージーランド、中国雲南省などでも栽培されている。また、ワサビの産地である伊豆市や安曇野市では市の花に指定されている。
水ワサビ
水ワサビはワサビ田で栽培し、その根茎(根と茎の間の芋の部分)は生食用として利用される。このワサビ田は溪流式、地沢式、平地式、畳石式の4つの様式に分かれる。畑ワサビは直接水を利用しないで、s成育から収穫までを畑で行うもので、水ワサビに比べ品質は落ちるが温度と湿度管理が整えばどこでも栽培することが可能である。しかし、株分けによる栽培を続けると数年で「退化現象」と呼ばれるウイルス感染に伴う成長障害や不稔、病気が生じ衰退する。この退化現象を回避するため茎頂培養(成長点培養)によるウイルスフリー苗(メリクロン苗)が生産技術が1990年代には確立され栽培農家に供給されている。水ワサビの根茎は大きいが、畑ワサビや自生種のワサビのそれは極端に小さい。これはワサビが根から放出するアリルイソチオシアネートの影響による。この物質は周辺の土壌を殺菌し、根に菌を住まわせる必要がある一般的な植物が生えないようにしているが、ワサビ自身もこの物質によって大きくなれない(自家中毒)。対して水ワサビは、流水と透水性の良い土壌によってアリルイソチオシアネートが洗い流されるので、大きくなることが出来る。一般にワサビといえば、水の中で栽培される水ワサビを連想されることが多い。また、水ワサビの方が根茎が大きくなることから、水生植物と思われがちであるが、本来は畑(土)で育つものであり、「水生でも育つ」というのが正しい理解である。事実、静岡や島根県の農家は、苗をわさび田に定植する際に水没による成長阻害を避けるため、新芽が水没しない様な管理をする。水ワサビの生育には、豊富で綺麗な水温9 - 16℃ の水と、砂地などの透水性が良い土壌が必要で、強い日光を嫌う。粘土質土壌や腐葉土質を嫌うため肥料等は必要なく育成の手間も殆ど要らないが、大量のきれいな水のある場所に生育が限定されるため、栽培の難しい農作物としても知られる。なお、経験的に、20℃ 3時間以上で根の腐敗が始まるとされる。一方、山間の沢や水路を利用して小規模に栽培されることもある。種類は赤茎種と緑茎種の2種類がある。静岡県で盛んに栽培される真妻種、島根県の在来種は赤茎系とされる。キャベツと同じアブラナ科の植物であるため、時としてスジグロチョウやモンシロチョウの幼虫(青虫)に葉を食害される。また、根茎部分はヨコエビによる食害が報告されている。この食害は、表面を黒く変色させ、商品価値を大きく損ねるため、かつては農薬を使用して対策をしてきた。しかしワサビ田下流域の汚染を引き起こし、生物の多様性を損ねることから、現在は使用を規制されている。
畑ワサビ
林間栽培では、日射を避けるため日よけを施した広葉樹林や針葉樹林の湿り気の多い場所が多く利用される。ハウス栽培も行われる。2000年代になり人工光源を使用した栽培実験も行われている。
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       キムチ
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      七味唐辛子
唐辛子(とうがらし)
中南米を原産とする、ナス科トウガラシ属 (Capsicum) の果実あるいは、それから作られる辛味のある香辛料である。栽培種だけでなく、野生種が香辛料として利用されることもある。トウガラシ属の代表的な種であるトウガラシにはさまざまな品種があり、ピーマン、シシトウガラシ(シシトウ)、パプリカなど辛味がないかほとんどない甘味種(甘唐辛子・あまとうがらし)も含まれる。
胡椒などの他の香辛料と同様、料理に辛みをつけるために使われる。また、健胃薬、凍瘡・凍傷の治療、育毛など薬としても利用される。果実は緑のままでも食べることが出来る。一般に、緑色のものは青唐辛子、熟した赤いものは赤唐辛子と呼ばれる。果実を鑑賞するためのトウガラシの品種もある。
ビタミンAとビタミンCが豊富なことから、夏バテの防止に効果が高く、特に暑い地域で多く使われている。除虫の効果もあり、園芸では他の作物と共に植えて虫害を減らす目的で栽培されたり、食物の保存に利用される事もあるが、サルモネラ菌や大腸菌などの食中毒の原因菌を殺菌する作用は無く、食中毒を防ぐことは出来ない。生のまま食べる場合と、乾燥した後に使う場合とがある。チポトレのように燻煙してから使う場合もある。一般的に日本国内で入手できる青唐辛子は生のものを加熱することで辛味が甘味に変化し、乾燥した唐辛子では加熱すると辛味が増す傾向にある。生の緑色の唐辛子は、辛味が比較的少ない。醤油や酢、泡盛などに漬け込むと、それらに辛味を与えるので通常とは違った風味の調味料とすることができる。漬かった状態の唐辛子は、取り出して刻みサラダなどに利用することもできる。唐辛子の辛味成分はカプサイシン類である。この辛さは刺激が強く人により好みがある。粘膜を傷つける考えられる。野生のほ乳類等は一般的にカプサイシンの辛みを好まないが、マウスに少量ずつカプサイシン入りの餌与えると逆にカプサイシンの入った餌を好むと言った実験結果も存在する。日本で料理に唐辛子が多く使われるようになったのは比較的最近のことである。1980年代以降、エスニック料理が浸透し、「激辛ブーム」などが起こる以前は、薬味や香り付けに一味唐辛子や日本特有の七味唐辛子が少量使われる程度であったし、市販のカレーも辛口の商品は多くなかった。今も年配の層には唐辛子の辛味を苦手とする人は多い。インドやタイ、韓国などの唐辛子が日常的に使われる国・地方では、小さい子供の頃から徐々に辛い味に慣らしていき、舌や胃腸を刺激に対して強くしている。一方で日常的に使う習慣のない場合は、味覚としての辛味というよりも「痛み」として認識され、敬遠される。実際、カプサイシン受容体TRPV1は痛み関連受容体に分類されており、唐辛子の辛味は口内の「痛覚」である。このことからも、痛みを味覚として好むということ自体、多分に社会文化的条件付けによるものと言える。これらの国が唐辛子を積極的に摂取するのは、メキシコや西アフリカ、中国の四川省・湖南省など夏に暑い地域が多く、食欲を増進し発汗を促し暑さ負けを防ぐためであると言われる。ただし、台湾、沖縄など暑い季節が長いにもかかわらずさほど唐辛子を好まない地域がある一方、韓国、ブータンなどそれほど暑くない地域(韓国も大陸性の気候の影響が強く夏は暑くなるが、高温になる季節は長くはない)で唐辛子を特に好む食文化もあり、唐辛子の嗜好は単なる気候的要因ではなく文化的要因によるものが強いことがうかがえる。フィリピン・中国などアジア圏では葉(葉唐辛子)を青菜と同様に炒めて食べたり、汁物の実とすることもある。日本でも葉唐辛子を炒めて食べたり、佃煮にすることもある。
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大根おろし
和食の付け合せや薬味として使われることが多い。大根おろしをパック詰めした商品(冷凍)もある。独特の辛みが魚料理等の臭みを中和する効果がある。また大根おろしは消化を助けるはたらきをすることもあり、天ぷらをはじめ油物や肉料理等、一般的に胃に負担のかかるとされる料理との相性もよい。大根にはアミラーゼ、プロテアーゼ、リパーゼなどの消化酵素が豊富に含まれているが、これら酵素は熱に弱いため、加熱をともなう調理法では有効に利用できない。大根おろしとして生のまますりおろすことで消化を助ける効果をはじめて得ることができる。
上述のように大根おろしの辛みを得るためには、細胞を効率良く壊すことが必要である。そのためには大根の切断面を繊維を断ち切るようにおろすとよい。おろし金に対して直線に力をこめて一気にすりおろすとより辛味が増す。具体的には長手方向に対して直角に円を描くように回しながらおろすと良い。『怒りながら大根をおろすと辛くなる』という昔ながらの伝承は、道理にかなっているといえる。さらに、おろしてから5分程度経過したら、辛みがピークに達しその後減少する。また、皮付きでおろすと更に辛みが増す。逆に辛味を減らしたい場合は、くびの方を使い、輪切りにした側面からゆっくりと円を書くようにすりおろす。繊維に沿っておろすことになり細胞が壊れにくいためである。前述の皮の方に辛みがあるのでさらに芯の部分を使用すると辛みは減少する。さらに甘みを生かす為にはおろしたあと即加熱することで10分程度で加熱前より2倍程甘みが増す。イソチオシアネートは揮発性のため、おろしてからしばらくおいておくと辛みが減少する。また、ビタミンCなども時間とともに同様に減少する。それをさけるためには、食べる直前におろす。
昔から「大根おろしに医者いらず」との格言があるように、大根おろしは様々な面から体に良い食品とされている。まず第一に、上記のように消化を助ける働きがある。加えて、ビタミンCを始めとする各種栄養素が豊富に含まれている。さらに大根おろし汁でうがいをすると口内炎や虫歯、歯肉炎など口の中の炎症に効くとも言われている。イソチオシアネートの持つ殺菌作用によるものとされる。この殺菌作用は生ガキを洗浄する際にも利用される場合がある。蜂蜜を加えて飲むと咳や喉の痛み、声枯れ、二日酔いによいとする民間療法も知られている。また古くは魚の毒を消すものとして重宝された。焼き魚に添えられることが多いのはこのためである。
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砂糖の用途(拡大)
砂糖
甘みを持つ調味料(甘味料)である。物質としては糖の結晶で、一般に多用されるいわゆる白砂糖の主な成分はスクロースである。砂糖の日本国内消費・生産は、1995–2004年度の10年間平均値(1995年10月–2005年9月)では、国内総需要は年230万トン(国産36%:輸入64%)、国産量は年83万トン(テンサイ約80%:サトウキビ約20%)である。年毎の動向を見ると、総消費量は、1985年には一人当たり21.9kgだったものが、2010年には16.4kgと大きく減少してきたが、ここ数年は下げ止まっている状態である。南北に長い日本列島はサトウキビの栽培に適した亜熱帯とテンサイ(ビート)栽培に適した冷帯の両方が存在する。国産量は微増傾向にあるが、それは主にテンサイ糖の増加によるもので、サトウキビ糖は微減傾向にある。 サトウキビの主たる生産地は沖縄県や鹿児島県で、戦前は台湾で砂糖が大量に生産されていた。テンサイの生産地は主に北海道である。日本の輸入はタイが約4割、オーストラリアが約4割、南アフリカが約1割をそれぞれ占め、この3カ国で9割以上の輸入をまかなっている。日本は先進国の中では、非常に少ない方である。

●含蜜糖 - 黒砂糖・白下糖・カソナード(赤砂糖)・和三盆
●分蜜糖 - 粗糖 - 精製糖
  精製糖 - ザラメ糖・車糖・加工糖
    ザラメ糖 - 白双糖・中双糖・グラニュー糖
    車糖 - 上白糖・三温糖
    加工糖 - 角砂糖・氷砂糖・粉砂糖・顆粒状糖
砂糖は、製造法によって含蜜糖と分蜜糖とに大きく分けられる。含蜜糖は糖蜜を分離せずにそのまま結晶化したもので、黒砂糖・白下糖・カソナード(赤砂糖)・和三盆・ソルガム糖、メープルシュガーなどがこれに当たる。糖蜜を分離していないため原料本来の風味が残るのが特徴である。ほとんどの精糖原料から作ることができるが、テンサイから砂糖を作る場合は高度な精製が必要なため、含蜜糖の製造は一般的ではない。これに対し分蜜糖は、文字通り糖蜜を分離し糖分のみを精製したものである。一般的に使用される砂糖はこちらがほとんどである。まず原料からある程度の精製を行い、粗糖を作成する。粗糖は精製糖の原料であり、不純物も多くそのままでは食用に適さない。このため、生産地の近くでまず一次精製を行って粗糖を作成した後、消費地の近くで二次精製を行って、商品として流通する精製糖が作られることが多い。しかし、生産地で粗糖を経由せず直接製造する耕地白糖や、粗糖工場に精製工場を併設して産地で精製した最終製品まで製造する耕地精糖といった種類も存在する。
精製糖は、大きくザラメ糖・車糖・加工糖・液糖の4つに分類される。ザラメ糖はハードシュガーとも呼ばれ、結晶が大きく乾いてさらさらした砂糖であり、白双糖・中双糖・グラニュー糖などがこれに属する。なお、一般的には白双糖と中双糖を指してザラメという。白双糖を白ザラメ、中双糖を黄ザラメともいう。一方、車糖はソフトシュガーとも呼ばれ、結晶が小さくしっとりとした手触りのある砂糖で、上白糖・三温糖などがこれに属する。液糖はその名の通り、液体の砂糖である。また、ザラメ糖を原料として、角砂糖・氷砂糖・粉砂糖・顆粒状糖などの加工糖が製造される。
日本においては最も一般的な砂糖は上白糖であり、日本での消費の半分以上を占めるが、上白糖は日本独自のものであり、製造消費されるのも日本が主で、ヨーロッパやアメリカではほとんど使われない。世界的に最も一般的な砂糖といえばグラニュー糖を指す。
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塩の用途(拡大)

塩化ナトリウムを主な成分とし、海水の乾燥・岩塩の採掘によって生産される物質。塩味をつける調味料とし、また保存(塩漬け・塩蔵)などの目的で食品に使用されるほか、ソーダ工業用・融氷雪用・水処理設備の一種の軟化器に使われるイオン交換樹脂の再生などにも使用される。日本の塩事業法にあっては、「塩化ナトリウムの含有量が100分の40以上の固形物」(ただし、チリ硝石、カイニット、シルビニットその他財務省令で定める鉱物を除く)と定義される。
塩は大きく分けて以下の4つの原材料から作られる。
岩塩
岩塩を採掘する。主にヨーロッパ・北アメリカにて行われる。岩塩はその昔、海であった土地が地殻変動により地中に埋まり海水の塩分が結晶化し地層となったものである。岩塩の製法は溶解採掘法と、乾式採掘法に分かれる。溶解採掘法は一度水に溶かし、煮詰めて塩を取り出す。不純物が少なく欧米では食用として一般的に用いられる製法である。一方、乾式採掘は直接掘り出す方法で、不純物が混じりやすく、また硬いので食用には適さない。
海塩(天日塩など)
塩田において天日製塩法で作る。西ヨーロッパ、メキシコやオーストラリアなど。海塩は主に天日製塩法で作られる。この製塩法は、海水を塩田に引き込み、1〜2年程度の期間で塩田内の細分化された濃縮池を巡回しながら太陽と風で海水を濃縮していき採塩池で結晶化した塩を収穫する方法である(メキシコやオーストラリア・ヨーロッパの沿岸地域に多い)。なお、アメリカの一部の州や韓国では好塩菌混入などの問題から天日塩の直接の食用使用を制限ないし禁止している。
海水
海水をいったん濃縮した後に煮詰める。イオン交換膜製塩法・揚浜式製塩法・瞬間結晶など。
湖塩
塩湖などから採取する。
その他(山塩など)
過去には食塩泉の温泉水からの製塩(塩井)も行われていた。日本では、福島県の大塩裏磐梯温泉や長野県の鹿塩温泉などで小規模ながら温泉から製塩が行われている。
世界の塩の生産量は2008年で2億650万トンと言われておりそのうち天日塩が約36%である。
日本では岩塩としての資源がなく、固まった塩資源は採れない。また、年間降水量も世界平均の2倍であることから日照時間が比較的長い瀬戸内地方や能登半島など、一部地域以外は塩田に不向きである。このため、塩を作るには、もっぱら海水を煮詰めて作られる。これは、天日干しに比べて、燃料や道具などが必要になるためコストがかかり、大規模な製塩には向かない方法である。そのため自給率は食用塩が85%であるが、工業用を含めると全消費量の85%を輸入に頼っている。海水から製塩するには、直接海水を煮詰めて食塩を得るより、一度、濃度の高い塩水を作ってから煮詰めたほうが効率が良い。この濃い塩水を「鹹水(かんすい)」と言い、この作業を「採鹹(さいかん)」、また煮詰める作業を「煎熬(せんごう)」という。

【日本酒】

日本酒

日本酒

通常は米と麹と水を主な原料とする清酒(せいしゅ)を指す。日本特有の製法で醸造された酒で、醸造酒に分類される。日本特有の製法で造られる酒には、清酒のほかにも、焼酎(麦焼酎、芋焼酎、沖縄の泡盛など)、みりん、鈴木梅太郎らが発明した合成清酒などがあるが、単に「酒(さけ)」「日本酒」という場合には清酒を指すことが多いが、焼酎が多く飲まれる地方(九州南部)では、「さけ」というと焼酎を指す。日本古語では「酒々(ささ)」、僧侶の隠語で「般若湯(はんにゃとう)」、江戸時代には「きちがい水」という別称もあった。



酒税法による定義
日本では、酒類に関しては酒税法が包括的な法律となっている。同法において「清酒」とは、次の要件を満たした酒類で、アルコール分が22度未満のものをいう。
   米、米こうじ及び水を原料として発酵させて、こしたもの
   米、米こうじ、水及び清酒かすその他政令で定める物品を原料として発酵させて、こしたもの
  清酒に清酒かすを加えて、こしたもの
なお、同法の「清酒」のほか、「その香味、色沢その他の性状が清酒に類似する」混成酒である「合成清酒」や、どぶろくなど一部の「その他の醸造酒」も日本酒に含まれる。アルコール度数以外の清酒としての要件を満たしつつも、より高い度数(22度以上)の日本酒を製造することも技術的には可能で、『越後さむらい』(玉川酒造)のように、清酒の製法で製造されながらアルコール度数が46度に達する酒も存在する。
日本酒分類
日本酒の味・香
日本酒の燗度日本酒の味・温度
酒と酒器酒器の種類

【和菓子】

遣唐使によって伝えられた「唐菓子」・中国からの「点心」・ポルトガルやスペインの宣教師が持ち込んだ「南蛮菓子」など、海外の菓子から受けた影響を昇華し日本独自の和菓子として発達した。

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和菓子一覧表(拡大)
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和菓子
和菓子(わがし)とは、日本の伝統的製造法で作られた菓子のこと。明治時代以降にヨーロッパなどから新しく日本に入ってきた洋菓子に対して使われる言葉。葉として定着したのは第二次世界大戦の後であり、国語辞典などにも登場し始めた。遣唐使によって伝来した唐菓子や、宣教師によってもたらされた南蛮菓子も和菓子に含めるとする意見が主流である。
茶道に於ける薄茶(うすちゃ、お薄(おうす)とも)や濃茶(こいちゃ)とともに食べることもあり、味覚は元より美的鑑賞にも堪えることを期待されて発達した食品。通常、薄茶席では干菓子を、濃茶席では生菓子(主菓子)を供される。日本茶や抹茶のお茶請けになることが多いため、甘いものが多く、油はほとんど使われない。砂糖、水飴、米、小麦、小豆など、比較的少ない種類の主原料より、多くの種類の和菓子が生み出される。また、洋菓子のように生のフルーツが素材として使われることは少ないが、煮たり、干したりしたものは使用される場合がある。原料に砂糖を用いるようになったのは近世以降であり、特に和三盆は、容易には白砂糖が手に入らない江戸時代、その独特の風味と程よい甘さによって、和菓子の発展に貢献したとされる。砂糖を用いるようになる以前における、もっとも甘い嗜好品は柿であったことから、和菓子が持つ味覚の繊細さを窺い知ることができる。また、和菓子には芸術作品としての側面も要求される。夏の和菓子であれば、涼を感じさせるために葛などを用いて透明感ある作品に仕上げるといった具合に、季節感の表現一つにも材料を吟味する。特に精巧に作られる工芸菓子と呼ばれる分野もあり、食用可能な和菓子の材料で花鳥風月の世界を表現する。
和菓子は大きくこの3タイプに分類される。
生菓子
  水分量40%以上の和菓子(羊羹は30%以上)を生菓子
  その中間を半生菓子という
干菓子
  水分量20%以下の和菓子を干菓子(ひがし)または乾菓子(ひがし)

京都の和菓子
宮中や公家、寺社、茶家に納めたり、特別なお祝いのためにあつらえる「上菓子」、普段に食べる「おまん(饅頭の略)」や「だんご」「餅菓子」に分けられる。前者を作る者を菓子匠、御菓子司などと称し、後者を作る者を「おまんやさん」「おもちやさん」と呼んだ。「○△餅」という店でも、饂飩(うどん)・寿司・おはぎが出されるところが現在もある。現代ではその区分も曖昧になってきている。上菓子は、お供え菓子や、茶道の菓子として洗練した発展を遂げ、普段の菓子も年中行事ごとに様々なものが食べられた経緯から多彩に展開した。その伝統が今日の京菓子に反映されている。
生菓子(なまがし)生菓子一覧
        生菓子一覧
大福

草餅
(もち)菓子
大福
小豆でできた餡を餅で包んだ和菓子の一種。大福餅(だいふくもち)とも。餅はきめ細かくつかれているものを使い、餡の量は餅と同量以上であることが多い。食用の粉をまぶしてあることも多い。餅に豆やヨモギを加えたものや、餡の代わりにイチゴやカスタードクリームを入れたものなどさまざまなバリエーションが存在する。そのまま食べることが多いが、好みによって焼いたり、汁粉に入れたりする。大福を自宅で作る際は、餅に砂糖を混ぜておくと硬くなりにくい。工場で生産され、流通経路を介して販売される製品も同様の傾向がある。
草餅
餅の一種。和菓子として扱われている。
羊羹

ういろう
(むし)菓子
羊羹(ようかん)
一般には小豆を主体とした餡を型(羊羹舟)に流し込み寒天で固めた和菓子である。寒天の添加量が多くしっかりとした固さの煉羊羹(ねりようかん)と、寒天が少なく柔らかい水羊羹(みずようかん)がある。また、寒天で固めるのではなく、小麦粉や葛粉を加えて蒸し固める製法もあり、これは蒸し羊羹と呼ばれる。単に「羊羹」と称した場合は煉羊羹を指す事がある。煉羊羹は糖度が高いので、真空パックなどの適切な状態であれば常温で一年以上の長期保存が可能なものが多い。この特徴を生かして非常食としても販売されているものもある
ういろう
日本の蒸し菓子の一種。「外良」、「ういろ」、「うゐろ」、「ういらう」、「うゐらう」などの表記が用いられることもある。外郎餅(ういろうもち)とも言う。ういろうは、典型的には米粉などの穀粉に砂糖と湯水を練り合わせ、型に注いで蒸籠で蒸して作る。穀粉には米粉(うるち米、もち米)、小麦粉、ワラビ粉などが用いられ、砂糖には白砂糖、黒砂糖などが用いられる。小豆あん、抹茶など、さまざまなものが加えられることも多い。室町時代のころから存在する黒砂糖を用いた「黒糖ういろう」が本来の姿と考えられている。ちなみに、「ういろう」や「外郎」は普通名詞であり、発祥に関わりない第三者による商標登録も認められている
カステラ(やき)菓子
カステラ
漢字表記は「家主貞良」「加須底羅」とも。鶏卵を泡立てて小麦粉、砂糖(水飴)を混ぜ合わせた生地をオーブンで焼いた菓子のひとつ。ポルトガルから伝わった南蛮菓子を元に日本で独自に発展した和菓子である。ポルトガルには「カステラ」という名の菓子はなく、原型とされる菓子もカステラとは見た目も製法も異なる。日本におけるカステラは長崎が本場とされており、その「長崎カステラ」と呼ばれるものは、長崎県長崎市の福砂屋を元祖とし、長崎県の銘菓という意味ではなく、製法が同じものを総称している。正方形または長方形の大きな型に流し込んで、オーブンで焼いた後に棹型に切る。水飴を用いているので、しっとりとした食感がある。牛乳・抹茶・黒糖・チョコレート・チーズなどを加えて味付けをする変種も多い
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流し菓子
岐阜のスーパーの和菓子コーナーで山積みになっているお菓子がこれ。 見るからに赤色○号とか青×号とかいう着色料で彩られたと思われるゼリー菓子です。 関東でもスーパーの駄菓子コーナーには岐阜県産のお菓子がずらりと並んでおり、和のそぼくなおやつです
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練り菓子
別名「こなし」ともいい、粉末状もしくは粒状の原料と液状もしくは粘土状の原料を配合してから、外力を繰り返し加えて分布を均一化し、粘土状の塑性変型する状態に仕上げた間食用の食品類。原料の性質により、成形後にそのまま食用になるものと、蒸して加熱する必要があるものに分かれる。和菓子の内、生菓子と呼ばれるものの多くは練り菓子である。餅も練り菓子と類似の製法で作るが、主食と考えられる事が多く、練り菓子に入れられない事も多い。粉末原料として、米粉、はったい粉、きな粉、砂糖 など、粒状の原料としてゴマ、クルミなど、粘土状の原料としてアズキなどの餡、液状の原料として湯、茶、牛乳、おろした芋類 などがよく使われる
月餅(あげ)菓子
月餅(げっぺい)
中国語: 月餅、拼音: yuè bǐng、ユエピン)は、中国の菓子の一種。月に見立てた丸く、平たい形は共通であるが、中国各地で大きさ・材料・中に詰める餡などには違いがあり、いわれについても諸説がある。最も有名な物は「広式」と呼ばれる広東省のスタイルで、柔らかめの餡や皮を用い、茹でた鹹蛋xiándàn; シェンタン。アヒルの卵を塩水に漬けたもの)の黄身を入れたものに人気がある。小豆餡の他、ハスの実の餡やナツメ餡なども一般的である。一方、北京など北方の物は一般的に水分が少なめの餡を使い、クルミや松の実などのナッツを入れたものが多い。水分が少ない分、保存性は比較的高いが、これは元々大きなサイズのものを少しずつ切り取りながら食べていた為で、最近では小型なものが一般的になり、また香港では、アイス月餅など新しく作られたバリエーションが豊富である。古代の月餅はお供え物として中秋節に食べられていた。しかし時の移り変わりとともに、月餅は中秋節の贈り物に用いられる食品へと変わっていった。中秋節に月餅を食べる習俗は唐代に出現した
干菓子(ひがし)干菓子一覧
          干菓子一覧
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(うち)菓子
楽雁(らくがん)
米などから作った澱粉質の粉に水飴や砂糖を混ぜて着色し、型に押して乾燥させた干菓子である。型に押す際に、餡や小豆、栗などを入れて一緒に押し固めるものもある。名は近江八景の「堅田の落雁」にちなんでつけられたという説と、中国の軟落甘の「軟」が欠落したという説とがある。落雁の製法には二通りある。
①すでに蒸して乾燥させた米(糒(ほしい、干飯))の粉を用い、これに水飴や砂糖を加えて練り型にはめた後、ホイロで乾燥させたもの。
②加熱していない米の粉を用いて.同様に水飴を加え成型し、セイロで蒸し上げた後、ホイロで乾燥させたもの。
通常は、前者は落雁、後者は白雪糕(白雪羹)(はくせつこう。関西地方では「はくせんこ」とも)と呼ばれるものである。後者は新潟県長岡市の越の雪が有名である。ただし、改良の末、前者に限りなく近い製法となっている。製法は明時代の中国における軟落甘に基づく。これは小麦粉・米粉を水飴や脂肪で練り固めて乾燥させた菓子で、西~中央アジアに由来するといわれ、元時代に中国に伝来した
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押し菓子
干菓子(ひがし)とは、一般的に水分が少なく、日持ちのよいお菓子の総称を指します。煎餅や、生砂糖(きざとう)、工芸菓子などは干菓子の部類に入ります。打物は干菓子のひとつ、その干菓子の中でも「打物(うちもの)」と呼ばれるものは、寒梅粉や、みじん粉に砂糖を入れ、木の型で型をとって仕上げるお菓子です。この「型打ち」という工程のため「打物(うちもの)」と呼ばれています。京都の老舗の店頭に行くと、打物に代々使われている木型が展示されている事もあります。
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おこし
(かけ)菓子
金平糖(こんぺいとう)
昔懐かしいお菓子「金平糖」。誰もが一度は口にしたことがある金平糖は、その手間と手作りの暖かさ、鮮やかな彩りが好まれ、結婚式の引出物として出されるなど、高級和菓子としての一面もあります。
実はとても遠い、ポルトガル。1569年にポルトガルの宣教師が織田信長に献上したのが始まりだと言われています。金平糖の語源は、ポルトガルでお菓子を意味する「コンフェイトス」(お菓子の総称)。430年以上前の戦国時代に伝わった金平糖は、今も遠くポルトガルで作られています。織田信長がその時代に口にし、さぞかし驚いたと思われる金平糖を、今この現代に私達が遠い両国で口にする。その歴史を思うととても感慨深く夢があると思います。
おこし
おこし(粔籹)は、穀物を加工した、飴で固めた和菓子の一種である。干菓子の一種で、おこし米などともいう。唐菓子の一種として平安時代に日本に伝わり、当時は貴族に愛好されていた。江戸時代初期の料理書『料理物語』には菓子の項に「おこし米」の名で製法が記されており、ここでは薏苡仁(よくいにん。ハトムギの胚乳。漢方薬の原料として用いられ、イボなどの皮膚病に効果があるとされる)と糒を用いたおこしが記されている。穀物と水飴などが調達できれば庶民でも製造できたため、江戸時代には駄菓子や間食として全国に広まった
ボーロ(やき)菓子
ボーロ
焼菓子の種類であり、南蛮菓子の種類である。ボーロとはポルトガル語で「ケーキ」を意味し、小麦粉(そば粉や片栗粉も使ったものもある)に卵、砂糖などを加えてこね、成型してから焼き上げたもの。一般的にはカリッとした軽い歯ざわりと口中でさらりと溶ける食感が特徴であるが、中にはカステラのようにしっとり焼き上げたものもある。日本には16世紀にポルトガルから伝えられた
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(あめ)菓子
金太郎飴
日本の昔話の主人公である金太郎の顔の睫毛や瞳などを含む目・鼻・口・月代(さかやき)などの色を模した板状の飴をあらかじめ用意し、切った断面が顔の形になるように各部位に配置した後、適当な太さに細長く伸ばし切断して作られる。全ての工程は飴が熱く柔らかいうちに行われる。題材は基本的には金太郎の顔だが、金太郎の顔でないキャラクターや文字などの場合もある。これも金太郎飴と呼ばれることがある。但し、正式名称は「組み飴」と言う。名前の由来は、職人が大阪に修行に行った時、大阪では「おかめ」「福助」の絵柄だったが、関東では足柄山が近かった為に名付けられた。これから派生して、人や意見について、杓子定規で個性がなく全員が同様・無難な内容を答えることを「金太郎飴的」と表現することがある。英語では同趣旨の慣用句として「Cookie-cutter」(クッキーカッター。“どこから見ても同じ見え方”)がある。

【温泉】

日本には太古の昔から温泉が自然湧出しており、傷や病気にきく水として信仰の対象にもなってきた。『古事記』や『日本書記』にも温泉の記述は散見でき、『万葉集』にも詠まれている。日本人の温泉に対する特別な思いが感じられる。日本三古湯(道後温泉・有馬温泉・白浜温泉)の他に、日本各地に3,000を超える温泉地がある。

道後温泉

放生園
    放生園(からくり時計)
道後温泉
四国・愛媛県松山市(旧国伊予国)に湧出する温泉である。日本三古湯の一といわれる。その存在は古代から知られる。古名を「にきたつ」(煮える湯の津の意)といい、万葉集巻一に見える。なおかつてはこの周辺が温泉郡(湯郡)と呼ばれていたが、これはこの温泉にちなむ地名である。伊予国(いよのくに)という名前も湯国(ゆのくに)が転じたものという説がある。夏目漱石の小説『坊つちやん』1905年)にも描かれ、愛媛県の代表的な観光地となっている。道後温泉は、日本国内でもひときわ古5い3000年もの歴史を持つといわれる温泉である(冠山から、約3000年前の縄文中期の土器・石鏃(せきぞく)が出土している)。神話の昔はもちろん、史実上の記録に登場する温泉として見ても、道後温泉は日本最古級の歴史を持つ。
道後温泉街はその中央にある道後温泉本館を中心としている。本館自体が観光施設であるが、その横には「道後麦酒館」という地ビールを飲める店があるなど、飲食施設が充実しつつある。温泉本館前から、市内電車の道後温泉駅まで、L字型に道後温泉商店街があり、土産物店や飲食店などが軒を連ねている。L字の角のところに、椿の湯がある。こちらも共同浴場であるが、料金も本館より安く、地元の人の利用が多い。市内電車の道後温泉駅前には、放生園という小公園があり、坊っちゃんからくり時計、足湯、湯釜などがある。駅前広場には夜間は坊っちゃん列車の機関車と客車が留め置かれ、ライトアップされている。また、坊っちゃん、マドンナ、巡査の衣装をまとった観光ボランティアガイドも出て、からくり時計の動く時間には観光人力車も集まり、とりわけ夜8時前後は賑やかになる。従来は道後温泉街には昼間の楽しみが少ないと指摘されていたが、放生園に足湯ができて、楽しみが増えた。足湯は湯釜を取り囲む形でベンチが作られ、腰を下ろして足を温泉に浸け、歩き疲れを取ることができる。
有馬温泉

銀の湯
    銀の湯
有馬温泉
兵庫県神戸市北区有馬町(旧摂津国)にある温泉。日本三古湯の一つであり、林羅山の日本三名泉や、枕草子の三名泉にも数えられ、江戸時代の温泉番付では当時の最高位である西大関に格付けされた。名実ともに日本を代表する名泉の一つである。瀬戸内海国立公園の区域に隣接する。神戸市にありながら山深く六甲山地北側の紅葉谷の麓の山峡にある温泉街で、古くより名湯として知られ多くの人が訪れている。温泉街は標高350m - 500mに位置しており、かなりの急斜面にあって、街中を通る道も細い。大きな旅館やホテルは温泉街の周辺や少し離れた山麓、山中にある。公的な外湯は「金の湯」(金泉)、「銀の湯」(銀泉)があり、観光客や下山客でにぎわっている。また、有馬温泉では「○○坊」と名の付く宿が多い。これは元々、有馬十二坊と呼ばれた坊舎が存在したことを物語るもので、建久二年(1191年)に、吉野の僧坊、仁西上人が熊野十二神将に準え、十二軒の湯治宿を建てたのが契機であり、一部の旅館はこの伝統的な名称を継承している。

和歌
ありま山  ゐなのささ原  風ふけば
       いでそよ人を  わすれやはする

(有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする)
白浜温泉

崎の湯
    崎の湯
白浜温泉
南紀白浜温泉(なんきしらはまおんせん)、もしくは白浜温泉(しらはまおんせん)は和歌山県西牟婁郡白浜町にある温泉である。かつては熱海温泉、別府温泉と並んで「日本三大温泉」と言われていた。温泉として非常に歴史が古く、日本三古湯のひとつに数えられ、古い文献では牟婁の湯と呼ばれていた。広義での白浜は温泉郷であり、さらに湯崎、大浦、古賀浦、綱不知、白浜、更に近年は東白浜、新白浜を加え7ヶ所の温泉地に細分できる。白良浜を中心に海岸沿いに温泉施設、宿泊施設が広がっており、周辺には多くの観光地もあるリゾートとなっている。なお、白浜温泉は日本列島を覆うどの火山帯にも属しておらず、火山が周辺にないのに温泉が湧き出ていることが、不思議とされてきた温泉でもある。ところが近年の調査で、白浜、有馬などの一帯の高温を噴き出す温泉は火山性の温泉ではなく、太平洋から潜り込んだプレートから滲出した高温の地下水が滞留しているものであることが核燃料開発機構より研究報告された。白良浜沿いの南部には大規模なホテルが林立しているが、温泉街には民宿や旅館などもある。ほとんどの宿泊施設は浴室に温泉を引いているが、温泉施設のみの共同浴場や料亭・オートキャンプ場の中に温泉を併設したとした施設も見られる。大きなホテルや旅館では有料で温泉のみの利用もできる。温泉街にある温泉神社では、6月に献湯祭が行われる。白浜の由来である白良浜は白くさらさらな砂浜。毎年ゴールデンウィークに海開きを行い、夏の海水浴シーズンは特に多くの観光客で賑わう。近くには熊野三所神社、千畳敷・円月島 ・三段壁などの景勝地や、南紀白浜アドベンチャーワールド・白浜エネルギーランド、南方熊楠記念館、白浜海中展望塔、などの施設がある。特にパンダのいる南紀白浜アドベンチャーワールドは白浜温泉集客への貢献度が高い。
草津温泉

湯もみ
     湯もみ
草津(くさつ)温泉
群馬県吾妻郡草津町(旧国上野国)にある温泉のことである。林羅山の日本三名泉に数えられる。江戸時代の温泉番付では当時の最高位である東大関に格付けされた、日本を代表する名泉の一つである。北西部には、草津白根山(白根山〈2,160m、湯釜〉・本白根山〈2,171m〉・逢の峰〈2,110m〉)が聳えている(上信越高原国立公園)。上毛カルタの「く」の札に、「草津(くさづ)よいとこ薬の温泉(いでゆ)」と歌われている。草津の読み方は「くさづ」。
草津温泉の湯は基本的には酸性泉(酸性低張性高温泉)である。場所(源泉)によっては硫黄泉なども見受けられる。酸性が強くpHは2前後である。この強酸性のために下流の品木ダムには酸性中和施設がある。適応症は皮膚病・神経痛・糖尿病ほか。草津温泉は、草津白根山から東へ流れる地下水に火山ガスが出会って生じていると考えられている。降ってから数ヶ月から数年の比較的新しい地下水が主体となっており、湧出量は直前の降水量の影響を強く受けている。また、白根山の山頂に近いほどpHが低く、含有成分も変わる。
温泉地の中央に湯畑を中心とした古い風情の温泉街があり、それを取り巻くようにリゾート・ホテルやペンション、大滝の湯・西ノ河原公園・テルメテルメおよび温泉センターなどの温泉関連施設のほか、草津音楽の森国際コンサートホールや草津熱帯圏などの諸施設が位置している。また、草津白根山に面して草津国際スキー場がある。町外れには湯治に来て亡くなった人の無縁仏が多数ある。古いものでは明治年間の墓石もある。温泉を用いた医療施設として、群馬大学医学部附属病院草津分院が1951年(昭和26年)に開院されて、高血圧・喘息・リウマチなどの治療に温泉を使用していたが、2002年(平成14年)3月をもって閉院した。草津温泉の湯畑の木の樋を通して採取される湯の花は土産物としても知られている。プラスチックのねじ込みの円錐状容器に赤文字で「湯の花」と筆書体で印刷され、1,500円程度で販売されている。2,3ヶ月に一度、僅かな量しか出荷されないことからすぐに売り切れてしまう場合がある。
別府温泉

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     海地獄
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    血の池地獄
別府(べっぷ)温泉
大分県別府市(旧国豊後国速見郡)中心部の温泉街の名称。または、源泉数、湧出量ともに日本一[1]を誇る温泉都市別府の市内各地に数百ある温泉の総称で、別府八湯(べっぷはっとう)とも呼ばれる。泉都とも呼ばれる別府市には、鶴見岳(1,375m)と約4km北にある伽藍岳(または硫黄山、1,045m)の二つの火山の東側に多数の温泉が湧き出ている。また、奇観を呈する自然湧出の源泉を観光名所化した別府地獄めぐりなど観光スポットも充実しており、毎年800万人を超える観光客が訪れる。豊かな温泉資源は観光や、市民生活だけでなく、古くは明礬の生産から、地熱発電、医療、花き栽培、養魚業、最近では温泉泥美容まで、様々な産業に幅広く利用されている。別府市内には、おのおの泉質や雰囲気を異にした温泉が数百あるが、それらは歴史の異なる8箇所の温泉郷を中心に分布しており、これらを総称して別府八湯と呼んでいる。別府八湯では、毎年4月のはじめに別府八湯の豊かな温泉の恵みに感謝して別府八湯温泉まつりが開催されている。また、2001年から開催されている別府八湯温泉泊覧会(オンパク)や、別府八湯の選び抜かれた温泉施設から88湯に入浴し、温泉道名人の認定を目指す別府八湯温泉道という体験型イベントがある。
別府(べっぷ)温泉は、JR別府駅周辺の別府を代表する温泉街である。駅に近く交通の便がよい。単純泉、食塩泉、重曹泉、重炭酸土類泉など多数の温泉が湧き、各泉質に応じて効能がある。温泉街は別府八湯の中では最も歓楽的な要素が強く、夜になれば飲食店や別府タワーなど繁華街のネオンが煌く。
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銀山(ぎんざん)温泉
山形県尾花沢市(旧国出羽国、明治以降は羽前国)にある温泉。NHK連続テレビ小説「おしん」の舞台となったことで一躍脚光を浴び、全国的にその名を知られることになった。銀山川の両岸に大正から昭和初期にかけての建築の旅館が立ち並ぶ。多くの旅館は、建築された当時としては非常にモダンな三層四層の木造バルコニー建築であり、外装には鏝絵が施されている。川には橋が多くかかり、また歩道にはガス灯が並んでいる。銀山側下流側から温泉街を眺めた大正ロマン漂う光景は、温泉のシンボル的な風景である。この光景を守るため、町並みを保存する条例が定められている。温泉街には古くからの「大湯」近年できた「しろがね湯」2軒の共同浴場が存在する。温泉街の遊歩道には足湯もある
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    足 湯
四万(しまん)温泉

群馬県吾妻郡中之条町(旧国上野国)にある温泉。上毛かるたでは世のちり洗う四万温泉と詠われている。国民保養温泉地として第一号の指定を受けた。四万川沿いに温泉街が広がる。温泉街は5つの地区に分かれる。それぞれ日向見、ゆずり葉、新湯、山口、温泉口地区である。日向見地区は四万温泉の発祥の地である。特に日向見温泉(ひなたみおんせん)と呼ばれる場合もある。群馬県の文化財にも指定されている旅館積善館(新湯地区)の浴場、元禄の湯が有名である。寸志で入浴可能な共同浴場、露天風呂が4軒存在する。河原の湯(新湯地区)、御夢想の湯(日向見地区)、上の湯(山口地区)、山口川音の足湯(山口地区)である。飲泉場も3箇所存在する。その他、奥四万湖建設のボーリング調査時に湧出した単純温泉のこしきの湯が奥四万湖のほとりに存在する。
伊香保温泉

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      石段街
伊香保(いかほ)温泉
群馬県渋川市伊香保町(旧国上野国)にある温泉。草津温泉と並んで県を代表する名湯で、上毛かるたでは「伊香保温泉日本の名湯」と歌われた。
急傾斜地に作られた石段の両側に、温泉旅館、みやげ物屋、遊技場(射的・弓道)、飲食店などが軒を連ねている。365段の石段は温泉街のシンボルであり、この界隈は石段街と呼ばれる。石段の下には黄金の湯の源泉が流れ、小間口と呼ばれる引湯口から各旅館に分湯されている。石段の上には伊香保神社が存在する。石段上の源泉周りは整備されており、源泉が湧出する様子を見ることができる。また石段から源泉までの遊歩道の途中に飲泉所も存在する。源泉の傍には「伊香保露天風呂」が、石段の途中には共同浴場「石段の湯」が存在する。温泉街と近くの物聞山にある上ノ山公園を結ぶロープウェイ(伊香保ロープウェイ)が存在する。温泉街の周辺には榛名山や、水沢うどんで有名な水沢観音などが存在する。明治時代以降は竹久夢二、徳富蘆花、夏目漱石、萩原朔太郎、野口雨情など文人が多く訪れた。また、御用邸やハワイ王国大使別邸なども作られた。伊香保温泉の老舗旅館、千明仁泉亭は、伊香保を愛した明治の文豪徳富蘆花が常宿として生涯10回宿泊し、ひいきにした旅館であり現存する。海軍少尉川島武男と陸軍中将片岡毅の娘浪子が、愛し合いながらも運命に翻弄される悲劇の物語小説『不如帰』の冒頭を飾る宿である。
現在では各地で見られる茶色の温泉饅頭は、伊香保温泉が発祥の地(勝月堂)とも言われ、1910年(明治44年)から売り出されている。「湯の花まんじゅう」と呼ばれている。
登別温泉

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     地獄谷
登別(のぼりべつ)温泉
北海道登別市にある温泉。江戸時代から温泉の存在が知られており、明治時代に温泉宿が設けられてからは保養地・観光地となった。「にっぽんの温泉100選・総合ランキング」では毎年上位にランクインしている日本有数の温泉地となっている地名の語源はアイヌ語の「ヌプル・ペツ」(水色の濃い川)に由来している。
自然湧出量は1日1万トンで、9種類の泉質を有する[2]。地獄谷は登別温泉最大の源泉エリアで、直径約450mのエリアに15ほどの源泉の穴が密集している。毎分3,000リットル湧き出しており「温泉のデパート」と呼ばれる。登別駅から約6kmの距離に位置しており、北海道道2号洞爺湖登別線・北海道道350号倶多楽湖公園線で通じている。クスリサンベツ川の谷にある温泉街(極楽通り)は飲食店・土産物店のほか、警察(交番)・消防・銀行(信用金庫)・郵便局・病院などがあり、バスターミナル付近には公衆浴場「夢元さぎり湯」がある。地獄谷にも近接している。また、四方嶺(クマ山)へ温泉街からロープウェイで通じており、山上にはのぼりべつクマ牧場がある。

【銭湯】

建築

【江戸時代】

江戸時代の民家は、そこに住む庶民の生業によって農家・漁家・商家などの町屋に分けられる。現在、遺構として残っている民家は大半が上層民のものである。

建築物説             明
旧金毘羅大芝居
外観
金丸座
内部
金毘羅(こんぴら)大芝居(金丸座) (香川県琴平町)

現存する中では日本最古の芝居小屋。別名、金丸座とも呼ばれ、国の重要文化財の指定を受けている。古くから信仰を集める金刀比羅宮は、江戸時代には金毘羅講など多く参拝者を集め、門前町は琴平が朱印地・天領であることで取締も寛大で、様々な芝居、相撲、操り人形などの興行が行われた。芝居の興行に仮り小屋がその都度建てられていた(年3回程度)が、当時の大坂道頓堀三座のひとつでもある大西芝居(一説には大阪にあった筑後座とも云われる)を参考にして、1835年(天保6年)に棟上げを行い、翌年完成する。この金毘羅大芝居には江戸、大坂などの千両役者が舞台を踏み、全国にも知られた芝居小屋であり、また富くじの開札場としても使用された。



杵築城下町
全景杵築城下町坂道
坂道
杵築(きつさ)城下町 (大分県杵築市)

江戸時代は杵築藩松平氏3万2000石の城下町として栄え、廃藩置県まで国東半島の政治・経済の中心地であった。日出藩の分家、交代寄合旗本木下氏の陣屋が山香町の立石陣屋に置かれた。江戸時代は杵築藩松平氏3万2000石の城下町として栄え、廃藩置県まで国東半島の政治・経済の中心地であった。日出藩の分家、交代寄合旗本木下氏の陣屋が山香町の立石陣屋に置かれた。

旧城下町 北台・南台に侍屋敷、その谷間に町家が続く景観は、往時の面影を残す。侍屋敷の土塀整備に補助金を出すなど、歴史的環境整備による「坂道の城下町」づくりに取り組む。坂の下に酢屋があったことから「酢屋の坂」と呼ばれるようになった。



角館武家屋敷
外観武家屋敷中庭
中庭
角館(かくのだて)武家屋敷 (秋田県仙北市)

元和6年(1620)江戸時代のはじめ、芦名氏により大規模な都市計画が実施され、その後は佐竹北家の城下町として栄えた角館。武家屋敷が立ち並ぶ通りは、かつては「内町(うちまち)」と呼ばれ、現在も江戸時代末期時の屋敷割や、母屋・門・蔵の屋敷構え、枡型など武家町の特性をよく残しています。「みちのくの小京都」と呼ばれる。春の桜、秋の紅葉は特に見事な景観である。







旧滝沢本陣旧滝沢本陣 (福島県会津若松市)

旧若松城下から白河、江戸に至る旧白河街道沿いにあり、滝沢峠の城下側の上り口にある。現存する建物は1678年(延宝6年)に建てられ、その頃から、会津藩主が白河街道を通る際の休息所として使用された。その後、歴代会津藩主の参勤交代をはじめ、領内巡視、藩祖保科正之をまつる土津神社の参詣の際に休息所として利用された。戊辰戦争時には、藩主松平容保の出陣によって陣屋となり、座敷には当時の戦闘による弾痕や刀傷などが残る。白虎隊はここから出陣したという。
倉敷美観地区倉敷美観地区 (岡山県倉敷市)

江戸時代初期の寛永19年(1642年)、江戸幕府の天領に定められた際に倉敷代官所が当地区に設けられ、以来備中国南部の物資の集散地として発展した歴史を持つ。倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び、天領時代の情緒豊かな町並みをよく残している。1969年に倉敷市の条例に基づき美観地区に定められ、1979年(昭和54年)に県内2件目の重要伝統的建造物群保存地区として選定された。
有備館有備館(ゆうびかん) (宮城県大崎市)

江戸時代(1850年頃)、岩出山伊達家が開設した教育施設。陸奥国玉造郡岩出山本郷(現在の宮城県大崎市)に置かれた仙台藩の郷学(学問所)。茅葺きの書院造の建物が現存し、日本最古の学問所建築である。庭園とともに「旧有備館および庭園」の名称で国の史跡および名勝に指定されている。
寺田屋
寺田屋楢崎龍?
楢崎龍?
寺田屋 (京都市伏見区)

寺田屋事件(てらだやじけん)は、江戸時代末期の山城国紀伊郡伏見(現在の京都市伏見区)の旅館・寺田屋で発生した事件である。以下の2つの事件が寺田屋事件と呼ばれる。
 ①文久2年(1862年)に発生した薩摩藩の尊皇派志士の鎮撫事件。
 ②慶応2年(1866年)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件。

現在寺田屋を称する建物(同一敷地内)には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年(1908年。お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった]。平成20年(2008年)になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した。





大沢家住宅大沢家住宅 (埼玉県川越市)

埼玉県川越市にある蔵造り建築。明治26年(1893年)の川越大火の焼失を免れた川越最古の蔵造りで、現存する関東地方最古の蔵造りでもある。国の重要文化財の指定を受けている。現在の屋号から「小松屋」とも呼ばれている。

【明治大正時代】

明治初期、文明開化の世に西洋式建築をまねた「擬洋風建築」が日本中につくられた。その典型が公共建築の「学校」であったが、日本人大工によるため植民地風の塔屋やバルコニーを備えていても構造はそれまでの日本建築と変わらず、壁も漆喰塗りの大壁(柱を壁の表面に露出させないつくり)だった。後にお雇い外国人専門建築家が招かれ、東洋的モチーフを採り入れた「折衷主義」の建造物がつくり始まり教育も進んだ。

建築物説         明
大阪市中央公会堂
大阪市中央公会堂
辰野金吾
辰野金吾
大阪市中央公会堂 (大阪府大阪市)

通称:中之島公会堂は、1911年(明治44年)、株式仲買人である岩本栄之助が公会堂建設費として当時の100万円を寄付したことにより、1911年8月に財団法人公会堂建設事務所が設立され、建設計画が始まった[1]。北浜の風雲児と呼ばれた相場師・岩本栄之助は渋沢栄一が団長となった1909年(明治42年)の渡米実業団に参加し、アメリカ大都市の公共施設の立派さや富豪たちによる慈善事業・寄付の習慣に強い印象を受けた。彼は父の遺産と私財をあわせた100万円を公共施設建設に寄付することを決め、蔵屋敷の廃止後衰退し再生を模索していた中之島に公会堂を建設することにした。設計は、懸賞付き建築設計競技(最終的に13名が参加)により岡田信一郎案が1位となり、岡田の原案に基づいて、辰野金吾・片岡安が実施設計を行った。1913年(大正2年)6月に着工、1918年(大正7年)11月17日にオープン。岩本栄之助は第一次大戦による相場の変動で大きな損失を出し、公会堂の完成を見ないまま1916年(大正5年)に自殺した。建物は鉄骨煉瓦造地上3階・地下1階建て。意匠はネオ・ルネッサンス様式を基調としつつ、バロック的な壮大さを持ち、細部にはセセッションを取り入れており、アーチ状の屋根と、松岡壽によって天地開闢が描かれた特別室の天井画・壁画が特徴となっている。各種の講演、会合などが催され、大阪市民に親しまれてきた。 ロシア歌劇団の公演、アルベルト・アインシュタインを始め、ヘレン・ケラーやガガーリンなどの歴史的人物の講演も行われた。






旧開智学校
旧開智学校玄関ポーチ
玄関ポーチ




開智(かいち)学校 (長野県松本市)

のちの松本市立開智小学校は、崇教館から明治維新による松本藩学、廃藩置県による筑摩県学と続いてきた県下第一の小学校で、学制による第二大学区筑摩県管下第一中学区の第一番小学開智学校として1873年5月6日に創立された。「開智」の校名は、学制発布の前日に公布された太政官布告の被仰出書の文中にある「其身を修め智を開き才芸を長ずるは、学にあらざれば能わず」に由来すると考えられている。県の学校では唯一、英学(洋学)が設置された。当初は廃仏毀釈で廃寺となった全久院の建物を仮校舎としており、1876年4月に全久院跡地に新規造営となった校舎が、現存する旧開智学校校舎である。この校舎は筑摩県権令・永山盛輝の主導で建設されたもので、永山は自ら工事現場に出て監督を務めたと伝えられている。工事費は約11,000円かかり、およそ7割を松本町全住民の寄付により調達し、残り3割は特殊寄付金及び廃寺をとりこわした古材売払金などで調達した。上棟式には人力車や馬の往来ができないほどの見物人が押しかけ、開校式には約7,000人の来客と約12,000人の参観者があった。校舎の写真は、1884年のニューオーリンズ万国博覧会と1893年のシカゴ万国博覧会に出品された。1961年3月23日、明治時代の擬洋風学校建築としては初めて重要文化財の指定を受けた校舎は、1963年3月まで約90年間使用された後、翌年にかけて現在地に解体移築復元された。1965年から教育博物館として公開され、年間約10万人が訪れている。1987年10月6日に愛媛県西予市の開明学校と、005年11月5日に静岡県賀茂郡松崎町岩科の岩科学校と、それぞれ姉妹館提携している。1991年には、明治時代の洋式住宅である松本市旧司祭館が隣地に移築された。正面玄関は明治天皇の巡幸など特別な時にだけ使われ、通常は反対側の扉から出入りしていた、玄関周辺の彫刻は日光東照宮の龍を参考に彫られたという。
横浜赤レンガ倉庫2号館横浜赤レンガ倉庫2号館 (神奈川県横浜市)

明治政府によって保税倉庫として建設され、当時の正式名称は新港埠頭保税倉庫。みなとみらい地区内の2街区にあたる。2号館は1911年(明治44年)、1号館は1913年(大正2年)に竣工。保税倉庫としての役割は1989年(平成元年)までに終え、しばらく放置されていた。2002年(平成14年)に、1号館は展示スペース、ホールなどの文化施設、2号館は商業施設となり、付近一帯は広場と公園を備える赤レンガパークとして整備され、横浜みなとみらい21地区の代表的な観光施設となっている。全長約150メートル、背面に鉄骨造ベランダを持ち、日本初の業務用エレベーターや避雷針、消火栓を備える赤レンガ倉庫は、国営保税倉庫建築の模範となるとともに、組積造技術の最高段階を示す建築とされる。2号倉庫はレンガとレンガの間に鉄を入れる補強が施されていたことで、1923年(大正12年)に発生した関東大震災でも、被害は1号倉庫の約30%損壊にとどまった。
旧済生館本館済生館(さいせいかん)本館 (山形県山形市)

1873年(明治6年)に私立病院として設立され、1878年9月に当時の県庁そばに本館が竣工した。建物自体は現在山形市霞城公園内に移築され山形市郷土館として利用されている。3層楼なのに実は4層、ドーナツ型の1階部、2階は直径10メートルほどの柱のないホール、中3、4階へは螺旋階段、そしてステンドグラス。内部構造は大変ユニークで、2階は16角形のホールで中央に柱は1本も立っていないのにもかかわらず、ホール上部に中3階・4階がのっている。これは当時日本に入ってきたばかりのトラス構造を利用して支えられている。さらに、16角形から8角形へ楼の形を変えるのに際して使われているのは多宝塔上層部をくみ上げる工法で、日本古来の建築にも熟達した人物の指揮があったことがうかがえる。明治初期の下見板張擬洋風建築の最高傑作と評価され昭和41年重要文化財に指定された。
旧函館区公会堂旧函館区公会堂 (北海道函館市)

北海道函館市元町にある歴史的建造物。北海道特有(材料には地元のエゾマツやタモ材を多用)の木造2階建ての擬洋風建築、アメリカのコロニアル風洋館で札幌の豊平館と並んで、明治期の洋風建築として注目される。左右対称のポーチを持ち、回廊で結ぶ中央にベランダを配し、左右のポーチにもベランダを持つ。屋根は桟瓦葺きで屋根窓を持つ。ポーチの袖妻には唐草模様を配し、玄関や回廊を支えるコリント式の円柱の柱頭に洋風の装飾が配され、当時の日本人職人の洋風建築技法の習得意欲がうかがわれる。本館の延べ床面積は1,761.308平方メートル(533.73坪)、付属棟は138.815平方メートル(42.06坪)である。工事を請け負ったのは村木甚三郎。明治44年(1911年)、大正天皇が皇太子時代に来函、宿舎となった。また、大正11年(1922年)昭和天皇が摂政宮のときにも休憩している。昭和55年(1980年)から解体修理復元が行われ、昭和57年(1982年)当初の姿に戻った。昭和49年(1974年)に本館と附属棟の2棟が国の重要文化財に指定された。
迎賓館(旧赤坂離宮)
迎賓館(旧赤坂離宮)正面庭園
正面庭園屋上装飾

屋上装飾
屋上装飾
迎賓館(げいひんかん)(旧赤坂離宮(あかさかりきゅう) (東京都千代田区)

東京の元赤坂にある現在の迎賓館の建物は、東宮御所として1909年(明治42年)に建設された。鹿鳴館などを設計したお雇い外国人建築家ジョサイア・コンドルの弟子にあたる宮廷建築家片山東熊の設計により、元紀州藩の屋敷跡(明治6年宮城火災から明治21年の明治宮殿完成までの15年間、明治天皇の仮御所が置かれていた。)に建てられた。しかしそのネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としての使い勝手が必ずしも良くなかったことから、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がこの御所を使用することはほとんどなかった。嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮として扱われることとなり、その名称も赤坂離宮と改められた。1924年(大正13年)、大正天皇の皇子・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)との婚儀が成ると、その後の数年間、赤坂離宮は裕仁親王一家の住居たる東宮御所として使用されたが、裕仁親王が天皇に即位した後は離宮として使用されることも稀になった。終戦時には高松宮宣仁親王が昭和天皇に、皇居を出て赤坂離宮へ移り住むことを提案したが、天皇は使い勝手が悪く経費がかさむとして拒否している。第二次世界大戦後、赤坂離宮の敷地や建物は皇室から国に移管され、国立国会図書館(1948–61年)、法務庁法制意見長官(1948–60年)、裁判官弾劾裁判所(1948–70年)、内閣憲法調査会(1956-60年)、東京オリンピック組織委員会(1961–65年)などに使用された。その後国際関係が緊密化して外国の賓客を迎えることが多くなり、またそれまで迎賓館として使用していた東京都港区芝白金台の旧朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)は手狭で随行員が同宿できないといった支障があったため、1962年(昭和37年)に当時の池田勇人首相の発意によって新たに迎賓施設を整備する方針が閣議決定された。これを受けて、池田及び池田の後継として1964年(昭和39年)に首相に就任した佐藤栄作の2代の政権下で政府部内で検討を重ねた結果、『旧赤坂離宮を改修し、これを外国賓客に対する迎賓施設に供する』ことが、1967年(昭和42年)に決定された。こうして5年の歳月と108億円(工費101億円、内装費7億円)をかけて、本館は村野藤吾、和風別館は谷口吉郎の設計協力により、田中角栄政権当時の1974年(昭和49年)3月に現在の迎賓館が完成した。新装なった迎賓館に迎えた最初の国賓は、1974年11月に現職のアメリカ合衆国大統領として初来日したジェラルド・フォードだった。2006年(平成18年)から2008年(平成20年)にかけて、大規模な改修工事が行われている。2009年(平成21年)12月8日、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)として国宝に指定、明治以降の文化財としては初の国宝となった。内部の意匠には「鎧武者」など和の要素がいくつも見られる。
旧日本郵船株式会社小樽支店
全景内部

内部
内部
旧日本郵船株式会社小樽支店 (北海道小樽市)

明治37年着工、同39年10月に落成した近世ヨーロッパ復興様式の石造2階建建築です。設計者は佐立七次郎、施工は地元の大工棟梁山口岩吉があたり、工費は当時の金額で約6万円でした。当時小樽は北海道開拓の拠点都市として商業港湾機能を充実しつつあり、船舶・海運・倉庫業界が競って、船入澗を設置し石造倉庫を建てました。また明治後半から一流建築家達が当時の最先端の技術で、代表的作品を残しました。この建物はその草創期の象徴的存在です。昭和30年市が日本郵船から譲り受け、翌31年から小樽市博物館として再利用されて来ましたが、44年3月には、明治後期の代表的石造建築として国の重要文化財に指定されました。しかし年ごとに老朽化が目立って来たため、59年10月修復工事を着工、33カ月の工期を経て62年6月しゅん工しました。ここに商都小樽を代表する明治後期の商業建築が優れた文化遺産としてよみがえりました。建物は表玄関を中心に左右対称、北面に貴賓用横玄関を配し、背面両翼に張り出すコの字型平面をとっています。外壁は厚さ約75センチメートルの小樽天狗山産軟石、腰・胴蛇腹・軒部分は登別産中硬石を使用、内部は事務所としての機能性と、大理石敷き横玄関、繊細な木彫の大階段手すり、美しく精緻な中心飾り等格調高い装飾が調和し、華麗な貴賓室を有する商業建築として、設計者の周到な計画と配慮が見られます。内装には米国製のスチールシャッター、建具金物類を用い、また暖房は地下にボイラー室を設け蒸気暖房とし、窓はすべて二重ガラスで北国の冬を考慮した当時としては最新式の設備を備えていました。完全復元となった2階貴賓室は寄木造りの床、空色漆喰の天井、菊紋内摺セードシャンデリア、菊模様の金唐革紙(※)の壁、絨鍛、鏡付大理石暖炉等で彩られ、家具調度類の配置、また色彩的にも往時の雰囲気がよく伝わってくる贅を尽した華麗な空間です。隣りの会議室は約198平方メートル。広さを強調する吊り天井の大胆な弧を描く装飾彫刻と中心飾り、シャンデリアの光を反射するアカンサス模様の金唐革紙、床を覆う大絨鍛、大テーブルと36個の椅子が悠然として迫力ある時代を感じさせます。


 

【寺院】

仏教における祭祀施設で、その建築物群を「伽藍(がらん)」と呼ぶ。日本最古の寺院は「飛鳥(あすか)寺」と「豊浦寺(とゆでら)」とされている。伽藍を構成する建物は

飛鳥寺

飛鳥寺復元図
 本堂(金堂):本尊を祀る
 仏塔仏舎利(ぶっしゃり)(釈迦の遺骨)を安置する
 講堂(法堂(ほっとう):学習の場所
 庫裏(くり)食堂(じきどう)東司(とうす)(便所):僧侶の居住空間
 山門:寺院の正面入口
 鍾楼:吊鐘を覆う楼閣
現存する世界最古の木造建築は法隆寺である。

建築物説            明
法隆寺
西院伽藍
法隆寺境内図
法隆寺境内 案内図(拡大)
夢殿
夢殿(東院伽藍)
釈迦三尊像
釈迦三尊像












法隆寺(ほうりゅうじ) (奈良県生駒郡斑鳩町)

現存する世界最古の木造建築で聖徳宗の総本山である。別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺など。法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財(ほとんどが国宝・重文)を有する。

日本の美の原点大和比
「黄金比」は古今東西、古代から現代にいたる世界の芸術品や、建築物そしてDNAのらせん構造にも見られ、すべてのものの美しさと形を決めています。特に日本の古代建築の構造において、1対1.414の「大和比」という比率は古くから大工間では、神の比率とされ、1と1.414を上手く構成して建築物を創造していました。飛鳥時代、聖徳太子によって開基された法隆寺の金堂、五重塔、伽藍配置が「大和比」で同じく聖徳太子の建立された四天王寺もまた「大和比」を基本として設計されています。
画像の説明画像の説明
法隆寺 法隆寺の大和比


















長谷寺

牡丹
牡丹
二本杉
二本杉
長谷寺(はせでら) (奈良県桜井市)

奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺。山号を豊山神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は僧の道明とされる。西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。寺紋は輪違い紋。大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬〜5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。
長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。東大寺(華厳宗)の末寺 であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興され僧正頼瑜により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山(根来寺)を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成された。近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めている。十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く240寺程存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。

















浅草寺
仲見世通り浅草寺境内図
浅草寺境内図雷門
雷門

浅草寺(せんそうじ) (東京都台東区)

東京都内最古の寺である。山号は金龍山。本尊は聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)。元は天台宗に属していたが第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所(13番)である。江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。

『浅草寺縁起』等にみえる伝承による浅草寺の草創の由来は,推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、「土師真中知」(はじのまなかち)とも)は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。その後大化元年(645年)、勝海上人という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像と伝わるが、公開されることのない秘仏のためその実体は明らかでない。平安時代初期の天安元年(857年。天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらを機に浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。

雷門
表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」という。
仲見世
雷門から宝蔵門に至る表参道の両側には土産物、菓子などを売る寺院建築風の外観を持つ店舗が立ち並び、「仲見世」と呼ばれている。商店は東側に54店、西側に35店を数える。
宝蔵門
雷門をくぐり「仲見世」の商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門(2階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている門)である。門の左右に金剛力士(仁王)像を安置することからかつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。その名の通り、門の上層は文化財の収蔵庫となっている。2体の金剛力士像のうち、向かって左(西)は阿形(あぎょう)、右(東)は吽形(うんぎょう)。














南禅寺
三門(山門)
宝冠釈迦座像
山門楼上内陣
方丈庭園
枯山水庭園「虎の子渡しの庭」(小堀遠州)




南禅寺(なんぜんじ) (京都市左京区)

臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)である。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ
三門
歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもんごさんのきり)の二幕目返しで石川五右衛門が「絶景かな絶景かな……」という名科白を廻す「南禅寺山門」がこれである。ただし実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)の建築。五間三戸(正面柱間が5間で、うち中央3間が出入口)の二重門(2階建ての門)。藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものである。上層は「五鳳楼」といい、釈迦如来と十六羅漢像のほか、寄進者の藤堂家歴代の位牌、大坂の役の戦死者の位牌などを安置する。天井画の天人と鳳凰の図は狩野探幽筆。知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられている。
方丈
大方丈と小方丈からなる。大方丈は慶長度の御所建て替えに際し、天正年間建設の旧御所の建物を下賜されたもの。「旧御所清涼殿を移築した」とする資料が多いが、清涼殿ではなく女院御所の対面御殿を移築したものである。接続して建つ小方丈は寛永年間の建築とされる。大方丈の間取りは六間取で、南側が西から順に花鳥の間(西の間)、御昼の間、麝香の間、北側が西から順に鶴の間、仏間(内陣)、鳴滝の間である。建物の東端は幅一間半の細長い部屋で、柳の間と呼ばれる。仏間を除く各室に桃山時代、狩野派の障壁画があり、計124面(附指定4面を含む)が重要文化財に指定されている。これらは旧御所の障壁画を引き継いだものであるが、建物の移築に際して襖の配置構成が大幅に変更されており、本来ひと続きの画面であった襖が別々の部屋に配置されているものも多い。小方丈の障壁画は狩野探幽の作と伝えられるが、作風上からは数名の絵師による作と推測されている。名勝に指定されている方丈前の枯山水庭園は小堀遠州作といわれ、「虎の子渡しの庭」の通称がある。
主殿(総本山金剛峯寺)
主殿(総本山金剛峯寺)奥の院
奥の院(御廟橋)
高野山案内図
高野山参詣案内図(拡大)
金堂 根本大塔
金堂      根本大塔
空海
空海(弘法大師)
金剛峯寺(こんごうぶじ) (和歌山県高野町)画像の説明(五三桐紋) 画像の説明(三つ巴紋)(

高野山真言宗総本山の寺院。高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する。100か寺以上の寺院が密集する、日本では他に例を見ない宗教都市である。京都の東寺と共に、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が修禅の道場として開創し、真言密教の聖地、また、弘法大師入定信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部。「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっている。しかし金剛峯寺の山号が高野山であることからも分かるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。寺紋は五三桐紋と三つ巴紋。
主殿(総本山金剛峯寺)
壇場伽藍の東北方にある。1869年(明治2年)、いずれも豊臣秀吉ゆかりの寺院である青巖寺と興山寺 (廃寺)を合併し、金剛峯寺と改称した。青巖寺(剃髪寺)は秀吉が亡母の菩提のために建立したもので、豊臣秀次が自刃した場所としても知られている。金剛峯寺の主殿は江戸末期文久3年(1863年)に再建された、東西 54 m 南北 63 m の書院造建築である。「金剛峯寺」の寺号は空海が名付けたもので、元来は高野山全体を指す名称であったが、明治期以降は、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称している。主殿の持仏の間には1680年検校文啓の支持で制作された本尊弘法大師座像が祀られ2015年4月2日~5月21日に16年ぶりに開帳された。そのほか、奥殿(1934年建立)、別殿(1934年建立)、新別殿(1984年建立)、阿字観道場(1967年建立)、蟠龍庭(石庭)などがある。和歌山県指定文化財となっているのは、大主殿一棟、奥書院一棟、経蔵一棟、鐘楼一棟、真然堂(廟)一棟、護摩堂一棟、山門一棟、会下門一棟の9棟と、それを取り巻くかご塀。
奥の院
「奥院」とされる場合もある。寺院群の東端にある一の橋から中の橋を経て御廟橋まで、約2キロにわたる参道沿いに無数の石塔が立ち並ぶ。御廟橋を渡ると空海入定の地とされる奥の院である。一番奥には空海が今も瞑想しているとされる御廟があり、その手前には信者が供えた無数の灯明がゆらめく燈篭堂がある。空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま永遠の悟りの世界に入り、今も高野山奥の院で生きていると信じている人もいる。「死去」「入寂」「寂滅」などといわず「入定」というのはそのためである。
空海(くうかい)弘法大師(こうぼうだいし)
空海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。俗名(幼名)は佐伯 眞魚(さえき の まお[1])。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示している。
中尊寺
金色堂覆堂
本堂 白山神社能舞台
本堂  白山神社能舞台
奥の細道
奥の細道
衣川 芭蕉句碑
    衣川        芭蕉句碑









中尊寺(ちゅうそんじ) (岩手県平泉町)

岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院。奥州三十三観音番外札所。山号は関山(かんざん)、本尊は釈迦如来 。寺伝では円仁の開山とされる。実質的な開基は藤原清衡。奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂を始め、多くの文化財を有する。境内は「中尊寺境内」として国の特別史跡に指定されている。2011年(平成23年)6月26日、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された。平泉毛越寺、松島瑞巌寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。
寺伝によると、嘉祥3年(850年)、円仁(慈覚大師)が関山弘台寿院を開創したのが始まりとされ、その後貞観元年(859年)に清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったという。しかし、円仁開山のことは、確かな史料や発掘調査の結果からは裏付けられず、実質的には12世紀初頭、奥州藤原氏の初代・藤原清衡が釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」を建立したのが、中尊寺の創建と見られる。
陸羽街道(国道4号) から月見坂と呼ばれる参道を登った丘陵上に諸堂が点在する。山内には中尊寺本坊のほか、17か院の子院がある(大徳院、地蔵院、瑠璃光院、願成就院、金剛院、積善院、薬樹王院、真珠院、法泉院、大長寿院、金色院、釈尊院、観音院、常住院、利生院、円教院、円乗院)。
本堂
参道である月見坂を登った右手の中尊寺本坊内にある、中尊寺の本堂である。1909年 (明治42年)の建築。2013年3月24日、新本尊の丈六釈迦如来坐像の開眼法要が行われた。
白山神社能舞台(重文)
境内北方に位置する、中尊寺の鎮守・白山神社内に建つ。嘉永6年(1853年)に仙台藩によって再建されたもの。近世の能舞台遺構としては東日本唯一のものとされ、日本の芸能史上貴重な遺構として、2003年に重要文化財に指定されている。
松尾芭蕉は藤原3代の跡を訪ねて(「奥の細道」紀行):三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」という杜甫「春望」を踏まえて詠む。
  夏草や つはものどもが 夢のあと
  五月雨の 降り残してや 光堂
延暦寺根本中堂
根本中堂
転法輪堂
転法輪堂
千日回峰行
千日回峰行
画像の説明
最澄(伝教大師)
延暦寺(えんりゃくじ) (滋賀県大津市)天台宗菊輪宝(天台宗菊輪宝)

延暦寺、正字: 延曆寺(えんりゃくじ)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。平成6年(1994)には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。
比叡山に広大な寺域を持つ、天台宗の総本山。平成6年に世界文化遺産に登録されています。奈良時代末期、19歳の最澄(さいちょう)(767-822)が、比叡山に登り草庵(そうあん)を結んだのが始まりです。最澄が中国に留学して天台宗を開立してからは、弘法大師(こうぼうだいし)の開いた高野山金剛峰寺(こうごうぶじ)とともに、約1200年もの間、日本の宗教界最高の地位に君臨し、この比叡山からのちに日本仏教をささえた円珍(えんちん)(814-891)、円仁(えんにん)(794-864)、慈円(じえん)(1155-1225)、源信(げんしん)(942-1017)、法然(ほうねん)(1133-1212)、親鷲(しんらん)(1173-1262)、一遍(いっぺん)(1239-89)、道元(どうげん)(1200-53)、日蓮(にちれん)(1222-82)などの傑僧(けっそう)を輩出しています。全盛を誇った平安時代末期には、三塔・十六谷・三千坊を数えていたといわれています。この時代に門下の対立が激しくなり、分立した三井寺(園城寺)の寺門に対して、山門と呼ばれています。杉木立が深く生い茂っている比叡山中の境内は、天台宗修行道場としての威厳に満ちみちた雰囲気が漂い、訪れる者の心を引き締めます。延暦寺は比叡山の山上山下に大別されており、
根本中堂(こんぽんちゅうどう)
山上には、根本中堂を中心とした東塔、釈迦堂を中心とした西塔、円仁によって開かれた横川の3地区に分かれています。一方、山下になる坂本には、延暦寺の鎮守社(ちんじゅしゃ)だった日吉大社や本坊だった滋賀院などがあります。 戦国時代に織田信長(1534-82)によって、一山焼き討ちに遭いましたが、豊臣秀吉(1536-98)・徳川家康(1541-1616)の手によって復興された諸堂は、数多く国宝・重要文化財の指定を受けており、宝物類も目を見はる物ばかりです。
転法輪堂(てんほうりんどう)(重文)
西塔の中心堂宇で、釈迦堂ともいう。信長による焼き討ちの後、文禄4年(1595年)、当時の園城寺弥勒堂(金堂に相当し、南北朝時代の1347年の建立)を豊臣秀吉が無理やり移築させたものである。現存する延暦寺の建築では最古のもので本尊は釈迦如来立像(重文)。
千日回峰行
7年間、1年に100日から200日、合計千日間、比叡山の山内を巡拝する回峰行。途中、堂入りという荒行を行い、これを満行した者は生身の不動明王、当行満阿闍梨(あじゃり)と呼ばれる。千日間を満行した者は北嶺大行満大阿闍梨と呼ばれる。第二次世界大戦以降で満行した者は、2015年現在、13人。
最澄(さいちょう)伝教大師(でんぎょうだいし)
平安時代の僧。日本の天台宗の開祖である。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。先祖は後漢の孝献帝に連なる(真偽は不明)といわれる登萬貴王(とまきおう)なる人物で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となった。866年(貞観8年)、清和天皇より伝教大師の諡号が贈られた。日本で初めての大師号である。


【神社】

神道の神を祀る施設で全国に約8万社があるとされ、「八百万(やおよろず)の神」といわれるように、山・滝・岩・木などから伝説上の人物や実在人物まで多彩である。名称も「神宮」「神社」「(みや)」「大社」と分かれ、その代表が伊勢神宮や出雲大社である。祀られる神によって「神明さま」「お稲荷さま」「八幡さま」「天神さま(天満宮)」などと呼ばれる。

建築物説            明
伊勢神宮
伊勢神宮(内宮)
伊勢神宮(外宮)
伊勢神宮(外宮)
五十鈴川
五十鈴川内宮式年遷宮
第59回内宮式年遷宮
(上が新殿舎、下が旧殿舎)
御朱印
御朱印
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伊勢神宮案内図(拡大)
画像の説明
伊勢神宮広域図(拡大)


伊勢神宮 (三重県伊勢市)花菱紋(花菱紋)十六菊花紋(十六菊花紋)龍目紋(龍目紋)

「伊勢神宮」とは通称であり、正式名称は地名の付かない「神宮」(じんぐう)。他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり、親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。神社本庁の本宗(ほんそう)である。二十二社(上七社)の一社。また、神階が授与されたことのない神社の一社。古代においては宇佐神宮、中世においては石清水八幡宮と共に二所宗廟の1つとされた。明治時代から戦前までの近代社格制度においては、すべての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされた。
 皇大(こうたい)神宮(内宮(ないくう)) :太陽を神格化した天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る
 豊受大御神(とようけおおみかみ)(外宮(げくう)) :衣食住の守り神を祀る
の二つの正宮があり、内宮と外宮は離れているため、観光で内宮のみ参拝の人が多いが、まず外宮を参拝してから内宮に参拝するのが正しいとされている。

神宮125社
広義には、別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を含めた、合計125の社宮を「神宮」と総称する。神宮が管理する宮社は125社あり、俗に「神宮125社」と呼ばれる。内訳は内外両正宮に別宮14、摂社43、末社24、所管社42。伊勢市だけでなく、度会郡大紀町、玉城町・度会町、志摩市、松阪市、鳥羽市、多気郡多気町の4市2郡に分布する。
 
正宮(しょうぐう) - 皇大神宮 (内宮)と豊受大神宮 (外宮)の2宮。
 
別宮(べつぐう) - 「正宮のわけみや」の意味で、神宮の社宮のうち正宮に次いで尊いとされる。
 
摂社(せっしゃ) - 『延喜式神名帳』に記載されている神社(正宮、別宮を除く)。定義では摂社
 は全て式内社となるが、戦国時代にほぼすべてが廃絶となり、江戸時代の寛永年間(1630年
 代)から明治初頭(1870年代)にかけて復興されたため、式内社の比定地とされる場合がある。
 
末社(まっしゃ) - 『延暦儀式帳』に記載されている神社(正宮、別宮、摂社を除く)。
 
所管社(しょかんしゃ) - 正宮・別宮・摂社・末社以外の神社。
伊勢神宮は皇室の氏神である天照坐皇大御神を祀るため、歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強く、現代でも内閣総理大臣及び農林水産大臣が年始に参拝することが慣例となっている。また、20年に一度行われる式年遷宮は、国民的関心を集める。
概史
古代
皇室の氏神として、天皇以外の奉幣は禁止された(私幣禁断)。天武天皇の時代に斎宮が制度化され、『扶桑略記』によれば天武天皇の皇女である大伯皇女が初代とされる。
中世
朝廷への、そして皇室とその氏神への崇拝から、日本全体の鎮守として全国の武士から崇敬された。神仏習合の教説において神道側の最高神とされる。また、外宮側の度会家行より伊勢神道(度会神道)が唱えられた。戦乱により神宮領が侵略され、経済的基盤を失ったため、式年遷宮(後述)が行えない時代もあった。資金獲得のため、神宮の信者を増やし、各地の講を組織させる御師が台頭した。伊勢参宮名所図会(1797年)による内宮の正宮。当時は内宮・外宮ともに板垣も外玉垣もなく、参拝客は玉串御門(現在の内玉垣南御門)前まで行けた。
近世
お蔭参り(お伊勢参り)が流行した。庶民には親しみを込めて「お伊勢さん」と呼ばれ、弥次さん、喜多さんの『東海道中膝栗毛』で語られるように、多くの民衆が全国から参拝した。
近代''
明治天皇が在位中の天皇としては初めて参拝した。この長期の空白の理由については諸説がとなえられているが、決定的なものはない。大日本帝国政府により全国神社の頂点の神社として位置付けられたが、第二次世界大戦以後は、宗教法人神社本庁発足により、全国神社の本宗とされた。内宮前に「神宮司庁」があり、神職約100人、一般職約500人が奉職している。佐藤栄作首相が昭和42年(1967年)に参拝して以来、現職内閣総理大臣と農林水産大臣が、(正月三が日の混雑を防ぐため)主に1月4日の官公庁仕事始めの日に参拝するのが慣例行事である。
神宮式年遷宮
神宮(伊勢神宮)において行われる式年遷宮(定期的に行われる遷宮)である。原則として20年ごとに、内外両宮の正宮の正殿を始めとする別宮以下の諸神社の正殿を造替して神座を遷し、宝殿、外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿など計65棟の殿舎といった全社殿を造替する他、装束・神宝、宇治橋等も造り替える。記録によれば神宮式年遷宮は、飛鳥時代の天武天皇が定め、持統天皇4年(690年)に第1回が行われた。その後、戦国時代の120年以上に及ぶ中断や幾度かの延期などはあったものの、平成25年(2013年)の第62回式年遷宮まで、およそ1300年間行われている。
参道
(1)伊勢街道・伊勢本街道・参宮街道を初めとして、多方面から、参拝道をかねる街道が整備された。(2)東海道(京・大阪から)の伊勢別街道では、分岐点の関宿に一の鳥居が立つ。元は内宮前の宇治橋両端に立つ鳥居のうち内側の鳥居で、式年遷宮のときに建て替えられる。東海道(江戸から)の伊勢国入り口の七里の渡しにも一の鳥居が立っており)、元は宇治橋の外側の鳥居で、こちらも式年遷宮のときに建て替えられる。(3)さらに伊勢街道分岐点の日永の追分には、二の鳥居が立つ。
出雲大社
出雲大社(神楽殿)
銅鳥居 拝殿
銅鳥居  拝殿
本殿 注連縄
 本殿    注連縄
出雲大社案内図
出雲大社案内図(拡大)








出雲大社(いづもおおやしろ) (島根県出雲市)神紋(二重亀甲剣花角)

式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。古代より杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。 正式名称は「いづもおおやしろ」であるが、一般には主に「いづもたいしゃ」と読まれる。二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學を卒業後太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格すると、2002年(平成14年)宮司に就任し翌年神社本庁より神職身分特級を拝受している。また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様を練り込んだものであり他に類を見ない。現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。約60年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開されることがある。
祭神
大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。1142年(康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記された。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、すべての神が出雲に出向くわけではない。そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神様としてあらわれるほどに、全国的な信仰をあつめるようになった。
創建(日本神話などにその伝承が語られている)
古事記:大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。
日本書紀:高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。
厳島神社遠景
厳島神社(遠景)
厳島神社大鳥居
厳島神社(大鳥居)
厳島神社(社殿)
厳島神社(海上社殿)
平舞台
平舞台(管絃祭)
厳島(いつくしま)神社 (広島県廿日市市)神紋(三つ盛り二重亀甲に剣花菱)

式内社(名神大社)、安芸国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は三つ盛り二重亀甲に剣花菱。古くは「伊都岐島神社」とも記された。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。ユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている。
広島湾に浮かぶ厳島(宮島)の北東部、弥山(標高535m)北麓に鎮座する。厳島は一般に「安芸の宮島」とも呼ばれ日本三景の1つに数えられている。平家からの信仰で有名で、平清盛により現在の海上に立つ大規模な社殿が整えられた。社殿は現在、本殿・拝殿・回廊など6棟が国宝に、14棟が重要文化財に指定されている。そのほか、平家の納めた平家納経を始めとした国宝・重要文化財の工芸品を多数納めている。厳島神社の平舞台(国宝:附指定)は日本三舞台の1つに数えられるほか、海上に立つ高さ16mの大鳥居(重要文化財)は日本三大鳥居の1つである。また、夏に行われる例祭は「管絃祭」として知られる。
祭神
 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)  田心姫命(たごりひめのみこと)  湍津姫命(たぎつひめのみこと)
市杵島姫命は神仏習合時代には仏教の女神の弁才天と習合し、隣接する大願寺と一体化して大伽藍を構成していた。現在、大願寺は「日本三大弁才天」の1つとされている。
創建
社伝では、推古天皇元年(593年)、当地方の有力豪族・佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に市杵島姫命を祀る社殿を創建したことに始まるとされる。「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとする説がある。厳島神社の鎮座する厳島(宮島)は「神に斎く(いつく = 仕える)島」という語源のように、古代から島そのものが神として信仰されたと考えられている。厳島中央の弥山(標高535m)山頂には巨石が連なっており、山岳信仰の対象であったとされる。
一番鳥居 楼門
一番鳥居  楼門
本殿
本殿千本鳥居
千本鳥居;
案内図
伏見稲荷大社案内図(拡大)

伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ) (京都市伏見区)丸に十字(丸に十字)

旧称は稲荷神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社である。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)。現存する旧社家は大西家。
祭神
祭神は以下の五柱。これらの神々は稲荷大神の広大な神徳の神名化とされている。
  宇迦之御魂大神 (うかのみたまのおおかみ) - 主祭神 下社(中央座)
  佐田彦大神 (さたひこのおおかみ)- 中社(北座)
  大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ) - 上社(南座)
  田中大神(たなかのおおかみ) - 下社摂社(最北座)
  四大神 (しのおおかみ) - 中社摂社(最南座)
稲荷神は元来、五穀豊穣を司る神であったが、時代が下って商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神としても信仰されるようになった。
稲荷山
神体山である稲荷山は、東山三十六峰の最南端に位置し、標高233m。3つの峰(一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰)が連なるが、かつては古墳で、それぞれに円墳が確認されている。三ノ峰からは二神二獣鏡が出土している。この山々「お山」を中世には「下ノ塚」「中ノ塚」「上ノ塚」と呼び、奥社奉拝所の先にある山々を巡拝できる参道には、そこかしこに人々が石碑に「白狐大神」や「白龍大神」などの神名を刻んで祀られた無数の小さな祠(その数、1万基、あるいはそれ以上とも言われる)の「お塚」が奉納されており、「お塚信仰」と呼ばれている。参拝者の中には、石碑の前にひざまづいて「般若心経」や「稲荷心経」などを唱えている人もおり、日本で神仏分離が行われる前の信仰が今でも保たれているのを見ることができる。奥社奉拝所の奥に「おもかる石」という石がある。この石は試し石のひとつで、願いを念じて持ち上げた時、重さが予想していたより軽ければ願いが叶い、重ければその願いは叶わないといわれている。また稲荷山には信者から奉納された約1万基の鳥居があり、特に千本鳥居と呼ばれる所は狭い間隔で多数建てられ名所となっている。鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まった。
春日大社
春日大社(中門・御廟)
4棟
本殿(背面)
手前から第四殿、第三殿、第二殿、第一殿

一の鳥居
一の鳥居





春日(かすが)大社 (奈良県奈良市)神紋(下がり藤)

中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社。旧称は春日神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「下がり藤」
全国に約1000社ある春日神社の総本社である。武甕槌命(たけみかつちのみこと)が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。
祭神
主祭神は以下の4柱。総称して春日神と呼ばれ、藤原氏の氏神である。
 武甕槌命 - 藤原氏守護神(常陸国鹿島の神)
 経津主命 - 同上(下総国香取の神)
 天児屋根命 - 藤原氏の祖神(河内国平岡の神)
 比売神 - 天児屋根命の妻(同上)
本殿は春日造で4棟並んで立っており、第一殿に武甕槌命、第二殿に経津主命、第三殿に天児屋根命、第四殿に比売神が祀られている。拝殿はなく、一般の参拝者は幣殿の前にて、初穂料を納めて特別拝観を申し込んだ場合は本殿前の中門・御廟から参拝することになる。
一の鳥居」は 気比神宮と厳島神社の大鳥居に並ぶ「日本三大鳥居」の一つである。
歴史
奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まるとする説もあるが、社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。

日光東照宮

陽明門正面 陽明門背面
陽明門正面 陽明門背面

三猿 眠り猫
三猿    眠り猫
徳川家光
徳川家光

日光東照宮案内図
日光東照宮案内図(拡大)

















日光東照宮(にっこうとうしょうぐう) (栃木県日光市)

江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが多い。その歴史は少なくとも源義朝による日光山造営までさかのぼり得るもので、源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて、東国の宗教的権威となっていた。こうした歴史を背景に、徳川氏は東照宮を造営したと考えられる。
沿革
元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡)で死去した。遺命によって遺骸はただちに駿河国の久能山に葬られ、同年中に久能山東照宮の完成を見たが、翌・元和3年(1617年)に下野国日光に改葬されることとなった。ただし、家康の遺骸は久能山にそのままとし、日光には家康の遺命に従って分霊が勧請されたとする見方もできる。日光では同年4月(4月)に社殿が完成し(作事奉行は藤堂高虎が務めた)、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、家康死去の1周忌にあたる4月17日(5月21日)に遷座祭が行われた。なお、改葬の際、吉田神道と山王神道のどちらで祀るかで論争となったが、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来を本地仏とする神仏習合によって祀られることになった。寛永11年(1634年)には、9月(9月か10月)に3代将軍・徳川家光が日光社参し、寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて寛永の大造替が始められ、今日見られる荘厳な社殿への大規模改築が行われた。総奉行(日光造営奉行)は秋元泰朝、普請は、江戸はもとより京・大阪からも集められた宮大工たちが、作事方大棟梁・甲良宗広一門の指揮の下で務めた。この年には江戸に来訪した朝鮮通信使が対馬藩主・宗氏の要請で日光参詣を行っており、将軍家の政治的威光にも利用されている。正保2年(1645年)に朝廷から宮号が授与されて東照社から東照宮に改称した。国家守護の「日本之神」として、翌年の例祭からは朝廷からの奉幣が恒例となり、奉幣使(日光例幣使)が派遣された。家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。金地院崇伝の日記である本光国師日記には「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州の鎮守となろうと残されている。家康が目指した「八州の鎮守」とは、日本全土の平和の守り神でもある。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたと伝えられている。明治元年(1869年)の神仏分離により、日光は神社の東照宮・二荒山神社、寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立した。現在でも、一部の施設について東照宮と輪王寺の間で帰属について係争中のものがある。1873年(明治6年)に別格官幣社に列せられ、第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社となっていたが、1985年(昭和60年)に神社本庁を離れて単立神社となった。なお、平成25年度より、平成30年度まで「平成の修理」が陽明門でも行われている。表参道の先に有る高さ9mの石鳥居は日本最大のものであり、福岡藩の初代藩主・黒田長政公によって寄進されたもので、福岡藩領内(現在の福岡県糸島市にある可也山)から海路・水路・陸路を使い15個の石を運び、積み上げて造られた。
陽明門
建物全体がおびただしい数の極彩色の彫刻で覆われ、一日じゅう見ていても飽きないということから、「日暮御門(ひぐらしごもん)」と称されている。門の名は平安京大内裏外郭十二門のうちの陽明門に由来する。陽明門は、表門から参道を進み、石段を2つ上った先に南面して建つ。門の左右は袖塀を介して東西廻廊につながる。門を入ると正面が唐門で、その先には拝殿がある。陽明門は他の社殿と同様、寛永13年(1636年)の造替である。建築形式は三間一戸楼門で、規模は桁行(間口)が約7メートル、梁間(奥行)が約4メートル、棟までの高さが約11メートルである。
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮&br本殿;
本殿
舞殿
舞殿
静御前の舞
静御前の舞

鶴岡八幡宮境内案内図
鶴岡八幡宮案内図(拡大)
鶴岡八幡宮 (神奈川県鎌倉市)

旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれる。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入ることがある。境内は国の史跡に指定されている。
概史
康平6年(1063年)8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。永保元年(1081年)2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。治承4年(1180年)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。建久2年(1191年)に、社殿の焼失を機に、上宮と下宮の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。承元2年(1208年)には神宮寺が創建される。源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退する。戦国時代には里見氏により焼き討ちにあうも(鶴岡八幡宮の戦い)、北条氏綱が再建を果たす。江戸時代に入ると江戸幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂等を建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。また境内には、方五間の多宝大塔、東照宮も存在した。江戸幕府崩壊後、慶応4年(1868年)3月13日に「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が明治政府から出され、また明治3年(1870年)に大教宣布がなされると、鶴岡八幡宮においてもいわゆる廃仏毀釈の動きが始まった。同年中に多宝大塔などの仏堂は破壊され、仏像、仏具、什宝、経典なども破壊・焼却処分されるか散佚した。ただし一部は現存し、鎌倉寿福寺、浅草寺、普門院[要曖昧さ回避]、五島美術館、東京国立博物館に保管されている。鶴岡八幡宮の場合、これらは神主に改名した十二院の社僧が中心となって行った。また、一部残存していた仏堂も、その後の火事で焼失したが、外国人観光客等が撮影した写真やスケッチが残されている。明治の近代社格制度では県社に列し、1882年に国幣中社に昇格、、戦後は神社本庁の別表神社に列している。近年は全国一の宮会に加盟しており、相模国の一宮と扱われることもある(ただし歴史的には一宮は寒川神社とされる)。
祭神
現在の祭神は以下の3柱で「八幡神」と総称される。
 応神天皇 (おうじんてんのう) - 第15代天皇
 比売神 (ひめがみ)
 神功皇后 (じんぐうこうごう) - 第14代仲哀天皇の妃、応神天皇の母
なお、源頼朝の求めに応じて舞った静御前が源義経を慕う次の歌を詠んだとされるが、当時はまだ舞殿は建立されておらず、若宮社殿の回廊で舞ったとされている。
 しづやしづ  しづのをだまき くり返し  昔を今に なすよしもがな
  (倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、
   たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)
 吉野山  峰の白雪 ふみわけて  入りにし人の 跡ぞ恋しき
  (吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)。

【国宝城】

日本の城を象徴するのは「天守(てんしゅ)」(天主・殿主・殿守)である。安土・桃山時代以降に建てられたもので、現存しているのは全国で12城のみで国宝指定は5城である。

建築物説            明
姫路城
姫路城景観

東小天守 西小天守
 東小天守  西小天守
乾天守
乾小天守
全天守
手前は「ニの櫓」
背後は連立天守西面
(左から乾小天守、大天守、西小天守)


池田輝政
池田輝政(姫路藩の初代藩主)


姫路城案内図
姫路城案内図(拡大)














姫路城白鷺城(しらさぎじょう)(兵庫県姫路市)紋章五七桐(ごひちぎり)

江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている。また、ユネスコの世界遺産リストにも登録され、日本100名城などに選定されている。別名を白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)。
姫路城は、播磨国飾東郡姫路、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。1993年(平成5年)12月にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。この他、「国宝五城」や「三名城」、「三大平山城・三大連立式平山城」の一つにも数えられている。姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある。戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。
国宝
以下の5件8棟が1951年(昭和26年)6月9日に文化財保護法に基づき国宝に指定されている。
 大天守(だいてんしゅ)
 東小天守(ひがしこてんしゅ)
 西小天守(にしこてんしゅ)
 乾小天守(いぬいこてんしゅ)
 イ・ロ・ハ・ニの渡櫓 4棟(附指定:台所1棟)
本丸(天守丸・備前丸)
連立した天守群によって構成され、天守南の備前丸には御殿や対面所があり池田氏時代には政務の場であった。御殿や御対面所などは明治時代に焼失している。姫路城の天守は江戸時代のままの姿で現在まで残っている12の現存天守の一つで、その中で最大の規模を持つ、まさしく姫路の象徴といえる建物である。姫路城の天守群は姫山(標高45.6m)の上に建っており、姫路城自体の高さは、石垣が14.85m、大天守が31.5mなので合計すると海抜92mになる。天守の総重量は、現在はおよそ5,700tである。かつては6,200tほどであったとされるが、「昭和の大修理」に際して過去の補修であてられた補強材の撤去や瓦などの軽量化が図られた。天守内には姫路城にまつわる様々な物品が展示されている。姫路城の最初の天守は1580年(天正8年)の春、羽柴秀吉によって姫山の頂上、現在の大天守の位置に3重で建てられた。この天守は池田輝政により解体され、用材は乾小天守に転用された。2代目の天守は池田輝政により建てられ、5重6階天守台地下1階(計7階)の大天守と3重の小天守3基(東小天守・西小天守・乾小天守)、その各天守の間を2重の渡櫓で結んでいる「連立式天守」である。天守は全て2重の入母屋造の建物を基部とする望楼型で、建設時期や構成からさらに後期望楼型に分類されることもある。壁面は全体が白漆喰総塗籠(しろしっくい そうぬりごめ)の大壁造で造られており、防火・耐火・鉄砲への防御に加え、美観を兼ね備える意図があったと考えられている。折廻櫓には編目格子が施されている。
東小天守
3重3階・地下1階で天守丸の北東に位置する。西小天守や乾小天守のような火灯窓や軒唐破風はない。建設当初は丑寅櫓(うしとらやぐら)と呼ばれていた。
西小天守
3重3階・地下2階で天守丸の南西に位置する。水の六門が付属している。建設当初は未申櫓(ひつじさるやぐら)と呼ばれていた。2002年(平成14年)、西小天守の修理が完了した。
乾小天守
3重4階・地下1階で天守丸の北西に位置する。建設当初は乾櫓(いぬいやぐら)と呼ばれていた。秀吉が築城した三重天守であったという説があり「昭和の大修理」では秀吉時代の木材が転用された事が分かっている。
イ・ロ・ハ・ニの渡櫓
大天守と各小天守を連結している渡櫓。イ・ロ・ハの渡櫓はいずれも2重2階・地下1階、ニの渡櫓は水の五門が付属して2重2階の櫓門になっている。天守群と渡櫓群で囲まれた内側に台所櫓があり大天守地階とロの渡櫓1階を繋いでいる。
松江城

宍道湖
  宍道湖夕日
松江城山公園案内図
松江城山公園案内図(拡大)
松江城(千鳥城)(島根県松江市)紋章六つ目結(むつめゆい)

別名・千鳥城。現存天守は国宝に、城跡は国の史跡に指定されている。この他に日本さくら名所100選や都市景観100選に選ばれている。
平山城で江戸時代には松江藩の藩庁として、出雲地方の政治経済の中心となったが、明治時代初頭に廃城令によって存城処分(陸軍省所管)となったため、天守以外の建物はすべて払い下げられ撤去された。城跡は現在、松江城山公園として利用され、また、江戸時代初期建造の天守を有する城跡であり、天守は山陰地方の現存例としては唯一である。天守からは宍道湖(しんじこ)を眺望できる。江戸時代まで遡り城郭建築の雛型が残っているのは8城あるが松江城はその1つである。また国宝天守では唯一、江戸期からの雛型が残っている。
概歴
 天守構造:複合式望楼型 4重5階地下1階(木造 1607年築 現存)
 築城主:堀尾忠氏
 築城年:1611年(慶長16年)
 主な改修者:京極忠高
 主な城主:堀尾氏、京極氏、松平氏
 廃城年:1871年(明治4年)
 遺構: 現存天守、石垣、堀
 指定文化財 国宝(天守)、国の史跡
 再建造物:櫓・門・橋



松本城

天守
天守

黒門 太鼓門
黒門  太鼓門

松本城跡案内図
松本城跡案内図(拡大)







松本城深志城(ふかしじょう) 烏城(からすじょう)(長野県松本市)紋章(笹竜胆(ささりんどう))

松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市にある日本の城である。安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。市民からは別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている。しかし文献上には烏城という表記は一切ない。
戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。
構造
典型的な平城。本丸・二の丸・三の丸ともほぼ方形に整地されている。南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲むという、梯郭式に輪郭式を加えた縄張りである。これらは全て水堀により隔てられている。現存12天守の中では唯一の平城。
天守
5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。大天守は、初重に袴形の石落としを付け、窓は突上窓、破風は、2重目南北面と3重目東西面に千鳥破風、3重目南北面に向唐破風の出窓を付けている。辰巳附櫓・月見櫓は、第3代将軍、徳川家光が長野の善光寺に参拝する途中で、松本に立ち寄るという内意を受けたため、当時の藩主、松平直政が建てた。赤い欄干を配して、風雅な雰囲気を持つ。家光の善光寺参拝は中止になったが、天守に付属する月見櫓としては唯一の遺構となった。大天守は構造的には望楼型天守から層塔型天守への過渡期的な性格が見られ、2重目の屋根は天守台の歪みを入母屋(大屋根)で調整する望楼型の内部構造を持ちながら外見は入母屋を設けず強引に寄棟を形成している。ただ、強引とはいえ外見的には層塔型の形状を成立させているため、各重の屋根の隅は様々な方向を向いており、松本城天守の特徴のひとつとなっている。3階の、低い天井に窓のない特殊な空間が生まれたのはこのためで、パンフレットなどでは「秘密の階」と説明されているが、構造上は2重の上に生じた大屋根構造の名残りともいえる屋根裏的な空間を階として用いたことによるものである。内部は最上階(6階)の他に4階を白壁造りにするなど、ある程度の居住性が考慮されている。外壁は初重から最上重まで黒塗の下見板が張られており、この黒の原料は1950年(昭和25年)の修理工事着工までは墨によるものであったが、解体修理の際に漆塗りの痕跡が見つかったことから、修理工事が竣工した1955年(昭和30年)以降は黒漆塗りとなっている。乾小天守も構造的特徴は大天守と同様であるが、最上階に華頭窓が開けられている。



彦根城

天守と附櫓 多聞櫓
天守と附櫓 多聞櫓
玄宮楽々園
玄宮楽々園

彦根城案内図
彦根城案内図(拡大)
彦根城金亀城(こんきじょう)(滋賀県彦根市)櫓紋章(丸に(たちばな)

江戸時代および1869年(明治2年)の版籍奉還後から1871年(明治4年)の廃藩置県まで彦根藩の役所が置かれた。天守、附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は国の特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域である。
概要
江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城(標高50m)である。山は「金亀山(こんきやま)」との異名を持つため、城は金亀城(こんきじょう)ともいう。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ、天守が現存する。天守と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少である。一説では、大隈重信の上奏により1878年(明治11年)に建物が保存されることとなったのだという。天守が国宝指定された五城の一つに数えられる。姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されたが、近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られている。滋賀県下で唯一、城郭建築が保存された。
構造
城の形式は連郭式平山城。また、現存例の少ない倭城築城の技法である「登り石垣」が良好な形で保存されている。この石垣は天秤櫓の向かって右が牛蒡積み、向かって左が落し積みとなっている。なお、城の北側には玄宮園・楽々園という大名庭園が配されており、これらは「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されている。また、玄宮園、楽々園は松原内湖に面していたし、入江内湖も望める絶景であった。
犬山城

犬山城郭
犬山城郭(拡大)








犬山城三光寺(さんこうじ)城 白帝(はくてい)城)(愛知県犬山市)紋章(丸に酢漿草(かたばみ)

現在は天守のみが現存し、江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつである。また天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城)。
概要
木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城である。別名、白帝城は木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで荻生徂徠が命名したと伝えられる。前身となる砦を織田信長の叔父・織田信康が改修して築いたものを石川貞清(光吉)が改修し現在のような形となった。この際の建築用材は金山城の建物の一切を解体移築したという「金山越」の伝承がある。江戸時代には尾張藩の付家老が入城し、成瀬正成以来、成瀬氏9代が明治まで城主として居城とした。現存する天守が建てられた年代については天文期説、慶長期説などがあるが、現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した1617年(元和3年)ごろである。2004年まで、城主であった成瀬氏が個人所有する文化財であったが、個人所有では維持に非常に困難が伴うことから、成瀬一族の中から城主に選ばれた成瀬淳子(13代当主成瀬正浩の妹)は財団法人『犬山城白帝文庫』を設立して理事長に就任し、犬山城は個人所有でなくなった。
天守
東側からの天守は外観3重、内部は4階、地下に踊場を含む2階が付く。天守南面と西面に平屋の付櫓が付属する複合式で、入母屋2重2階の建物の上に3間×4間の望楼部(華頭窓)を載せた望楼型天守である。、窓は突上窓と火灯窓、両開き窓なと、 地階1・2階出入口を含めて、総延面積は698.775平方メートルに達する。天守台石垣は野面積という積み方で、高さは5メートルある。天守の高さは19メートルある。


天守の構造

上の写真「姫路城景観」には、「望楼(ぼうろう)型天守」と「層塔(そうとう)型天守」が見られる。
これらは下図の「入母屋(いりもや)屋根」の上に層を重ねたもので幅がすこしずつ減っていく。
天守の構造

世界遺産

世界遺産の登録基準

世界遺産リストに登録されるためには、「世界遺産条約履行のための作業指針」で示されている下記の登録基準のいずれか1つ以上に合致するとともに、真実性(オーセンティシティ)や完全性(インテグリティ)の条件を満たし、締約国の国内法によって、適切な保護管理体制がとられていることが必要です。
(i) 人間の創造的才能を表す傑作である。
(ii) 建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値感の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(iii)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。
(iv)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
(v) あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの
(vi)顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。
(vii)最上級の自然現象、又は、類まれな自然美・美的価値を有する地域を包含する。
(viii)生命進化の記録や、地形形成における重要な進行中の地質学的過程、あるいは重要な地形学的又は自然地理学的特徴といった、地球の歴史の主要な段階を代表する顕著な見本である。
(ix) 陸上・淡水域・沿岸・海洋の生態系や動植物群集の進化、発展において、重要な進行中の生態学的過程又は生物学的過程を代表する顕著な見本である。
(x) 学術上又は保全上顕著な普遍的価値を有する絶滅のおそれのある種の生息地など、生物多様性の生息域内保全にとって最も重要な自然の生息地を包含する。
※なお、世界遺産の登録基準は、2005年2月1日まで文化遺産と自然遺産についてそれぞれ定められていましたが、同年2月2日から上記のとおり文化遺産と自然遺産が統合された新しい登録基準に変更されました。文化遺産、自然遺産、複合遺産の区分については、上記基準(i)~(vi)で登録された物件は文化遺産、(vii)~(x)で登録された物件は自然遺産、文化遺産と自然遺産の両方の基準で登録されたものは複合遺産とします。
【文化財】
国指定文化財データベース ⇒ 日本の文化財
このデータベースは、文化財保護法に基づき、国が指定・登録・選定した文化財等の情報を、「名称」、「分類」、「都道府県」、「指定等区分」、「所有者」、「時代」、「地図」等で検索することができます。
 また、検索条件を指定しなくても、文化財分類ごとに分類別・都道府県別で文化財の情報を閲覧することもできます。
ユネスコ「無形文化遺産」
ユネスコ三大遺産」 ユネスコ登録済無形文化遺産
世界遺産について

【日本の登録遺産】

ユネスコの世界遺産に日本から19箇所(2016年7月現在)が登録されています。日本の世界遺産地図

区分登録内容(名称 登録年月 所在地)





(11)
法隆寺地域姫路城古都京都白川郷五箇山
法隆寺地域文化財
1993年12月
奈良県
姫路城
1993年12月
兵庫県
新装姫路城拡大
古都京都文化財
1994年12月
京都市
白川郷・五箇山
1995年12月
岐阜県・富山県
原爆ド厳島神社古都日光の社寺
原爆ドーム
1996年12月
広島県
厳島神社
1996年12月
広島県
古都奈良文化財
1998年12月
奈良市
日光の社寺
1999年12月
栃木県
琉球王国那智大社画像の説明
琉球王国のグスク
2000年12月
沖縄県
紀伊山地の霊場
2004年07月
三重奈良和歌山
国立西洋美術館
2016年7月
東京都台東区






(4)
石見銀山平泉富士山富岡製糸場
石見銀山遺跡
2007年06月
島根県
平泉・仏国浄土
2011年06月
岩手県
富士山信仰芸術
2013年06月
静岡県・山梨県
富岡製糸場
2014年06月
群馬県





(4)
屋久島白神山地知床小笠原諸島
屋久島
1993年12月
鹿児島県
白神山地
1993年12月
青森県・秋田県
知床
2005年07月
北海道
小笠原諸島
2011年06月
東京都
合計19箇所(2016年7月現在)






ユネスコの事業の一つ。
世界遺産が建築物などの
有形の文化財の保護と継承
を目的としているのに対し
民族文化財、フォークロア、口承伝統などの無形
のもの(無形文化財)を保護対象
とすることを目指したもの。
日本の無形文化遺産 
計 22件(2014年12月現在)
能楽
     能楽
文楽
     文楽
歌舞伎
     歌舞伎
指定以外に各地には多くの民俗文化があるが後継者不足で存続の岐路にたっている。


【日本遺産】
世界遺産登録基準
登録基準 i ~ vi の1つ以上を満たして登録された物件は文化遺産に、vii ~ x の1つ以上を満たして登録された物件は自然遺産に、双方の基準それぞれ1つ以上を満たして登録された物件は複合遺産になる。
人類の創造的才能を表す傑作である。【人類の創造的傑作】
建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。【価値観の交流】
現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも稀有な存在)である。【文化的伝統、文明の存在】
歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。【建築様式、建築技術、科学技術の発展段階】
あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存在が危ぶまれているもの)。【伝統的集落、土地・海上利用、環境との交流】
顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。【出来事、伝統、宗教、芸術的作品、文学的作品との関連】
最上級の自然現象、又は類まれな自然美・美的価値を有する地域を包含する。 【自然現象、自然景観】
生命進化の記録や、地形形成における重要な進行中の地質学的過程、あるいは重要な地形学的又は自然地理学的特徴といった、地球の歴史の主要な段階を代表する顕著な見本である。【地球の歴史】
陸上・淡水域・沿岸・海洋の生態系や動植物群集の進化、発展において、重要な進行中の生態学的過程又は生物学的過程を代表する顕著な見本である。【生態系、進化発展の過程】
学術上又は保全上顕著な普遍的価値を有する絶滅の恐れのある種の生息地など、生物多様性の生息域内保全にとって最も重要な自然生息地を包含する。【生物多様性の保全】
地域の有形・無形文化財をパッケージで認定し、観光振興などの地域活性化に役立てる新事業。伝統や風土に根差した「ストーリー」が認定対象となる。「地域型」「ネットワーク型」がある。(平成27年4月24日 第一弾発表)
日本遺産

プレハブ住宅

プレハブ住宅が初登録へ 国の登録有形文化財昭和38年に別荘として建てられた長野県軽井沢町のプレハブ住宅など199件が、新たに国の登録有形文化財に登録されることになりました。プレハブの建物が登録されるのは初めてだということです。(H28.3.11)








国立西洋美術館>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8]](東京)世界文化遺産に登録 (中日新聞 2016.7.18朝刊)
画像の説明





【参詣道】

日本仏教の聖地である。奈良の吉野山と大峰山、和歌山の熊野三山、およびそれらを結ぶ参詣道が「紀伊山地の霊場と参詣道」として2004年に世界遺産に登録された。奈良・和歌山・三重の3県のまたがり総面積は約500haにおよぶ。神々が宿る山岳宗教の霊場が山中に巡らされている。

地域主   要   霊   場



紀伊山地熊野本宮大社熊野参詣道那智大滝
紀伊山熊野三山・熊野本宮大社熊野三山・熊野参詣道熊野三山・那智大滝



吉野大峯金峯山寺金剛峰寺奥の院
吉野山金峯山寺高野山・金剛峰寺高野山・奥の院
参詣道全図

⬤【熊野参詣道(くまのさんけいみち)

中辺路(なかへち)
紀伊田辺付近から熊野本宮大社を経て、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を結ぶ熊野参詣道の中心的な道
小辺路(こへち)
高野山から紀伊山地の険しい山岳道を縦断して熊野本宮大社を結ぶ道
大辺路(おおへち)
紀伊田辺市と那智勝浦を結ぶ、急坂が多く海岸付近を通るなど変化に富んだ道

⬤【大峰奥駈道(おおみねおくがけみち)
奈良の吉野山と熊野三山の熊野本宮大社を結ぶ。100kmにわたり大峰山脈を縦断する険しい参詣道。道中75ヶ所の修行場「(なびき)」がある。

⬤【高野山町石道(こうやさんちょういしみち)
国宝の木造弥勒仏坐像のある慈尊院から高野山へ続く参道。約22kmあり道中には1町(約109m)ごとに180基の「町石(ちょういし)」と呼ぶ石柱が配置されている。

参道寺院・神社など説            明








熊野本宮大社
熊野本宮大社
大門坂
大門坂
熊野速玉大社
熊野速玉大社;
熊野那智大社
熊野那智大社
画像の説明
熊野参詣道中辺路(拡大)
熊野参詣道中辺路(くまのさんけいみちなかへち)
紀伊路(きいじ、古くは紀路〈きじ〉とも)は、熊野三山への参詣道・熊野古道のひとつ。淀川河口の渡辺津(摂津国)から一路南下、和泉国を経て、雄ノ山峠を越えて紀伊国に入り、紀伊田辺からは大塔山地周縁部を東進して熊野本宮大社に至り、熊野速玉大社・熊野那智大社を結ぶ。近世までに紀伊田辺以東の部分が中辺路(なかへち)の名で区分されるようになった。
概要
熊野古道の中では、伊勢路と並んで梁塵秘抄に詠われたように最も古くから知られた道であるが、摂津国・和泉国では和泉山脈・葛城山脈に、紀伊国では紀伊山地と紀伊山地に源流をもつ河川に制約され、決して容易ではない困難な道であった。そのような困難な道であるにもかかわらず、紀伊路は7世紀以降、熊野三山への参詣道として正式なルートとして認識され、京の院や貴族による参詣の隆盛を見た。のみならず、こうした院や貴族による参詣を中心とする平安末期から鎌倉初期にかけての中世熊野詣は徒歩が原則とされ、九十九王子への巡拝が行われた。中世熊野詣の先達をつとめ、参詣ルートの整備や参詣儀礼の指導にあたったのは修験者であったため、困難な修行の道を踏み越えて行くことそれ自体に信仰上の意義が見出されていたのである。
淀川河口の渡辺津(摂津国)を発った紀伊路は、和泉山脈から派生した和泉丘陵先端部の湧水帯線沿いに紀州街道とほぼ平行して進み、今日の阪南町付近で丘陵越えに方向を転じる。同じく丘陵越えに転じた紀州街道と合流して雄ノ山峠を越えて紀伊国に入る。紀ノ川で中央構造線を南に越えると、そこからは紀伊山地から派生した地形が続き、紀伊山地に源流を持つ紀ノ川・有田川・日高川といった河川を渡りながら紀伊田辺に着く。田辺からは東進し、岩田川河谷を経て滝尻からは大塔山系北縁部を東進して熊野本宮大社に至り、熊野速玉大社・熊野那智大社を巡拝する道へ進む。


























高野山壇場伽藍
高野山壇場伽藍
水ヶ峰 伯母子岳
水ヶ峰入口  伯母子岳山頂
三浦峠 果無峠
三浦峠    果無峠
熊野本宮大社
熊野本宮大社熊野古道小辺路熊野参詣道小辺路(拡大)
熊野参詣道小辺路(くまのさんけいみちこへち)
小辺路(こへち)は、熊野三山への参詣道・熊野古道のひとつ。高野山(和歌山県伊都郡高野町)と熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)を結び、紀伊山地を南北に縦走する。
小辺路は弘法大師によって開かれた密教の聖地である高野山と、熊野三山の一角である熊野本宮大社とを結ぶ道である。熊野古道の中では、起点から熊野本宮大社までを最短距離(約70キロメートル)で結び、奥高野から果無山脈にかけての紀伊山地西部の東西方向に走向する地質構造を縦断してゆく。そのため、大峯奥駈道を除けば最も厳しいルートである。
高野山(和歌山県伊都郡高野町)を出発した小辺路はすぐに奈良県に入り、吉野郡野迫川村・十津川村を通って柳本(十津川村)付近で十津川(熊野川)に出会う。柳本を発って果無山脈東端にある果無峠を越えると和歌山県側に入り、田辺市本宮町八木尾の下山口にたどり着く。ここからしばらくは熊野川沿いに国道168号線をたどり中辺路に合流し、熊野本宮大社に至る。
小辺路の主要峠
小辺路の主要峠
       水ヶ峯    伯母子(おばこ)峠      三浦峠        果無(はてなし)








冨田坂 峠の茶屋跡
冨田坂    峠の茶屋跡
安居辻松峠 仏坂
安居辻松峠    仏坂
長井坂 和深川王子神社
長井坂    和深川王子神社
段築 大門坂
段築     大門坂
塩津山 志原海岸
塩津山    志原海岸


熊野古道大辺路熊野参詣道大辺路(拡大)
熊野古道大門坂周辺図熊野古道大門坂周辺図


大門坂
熊野古道大門坂
那智大滝
那智大滝






































熊野参詣道大辺路(くまのさんけいみちおおへち)
熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へ通じる参詣道・熊野古道のひとつ。国の史跡「熊野参詣道」(2000年〈平成12年〉11月2日指定)の一部として、2002年(平成14年)12月19日に追加指定を受けている。ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の構成資産の一部。
概要
大辺路は、田辺から那智勝浦を結ぶ海辺の道である。他の熊野古道のルートと同じく、途上に厳しい峠道が控えており、富田坂(とんだざか)、仏坂、長井坂などが知られている。これらの峠道は、近代以降の市街化や道路開発を免れた部分が残されており、旧状が比較的よく保たれている。しかし、こうした部分はむしろ例外で、大半の道は市街地や国道に吸収されており、遺されているのは沿道の寺社や碑柱のような遺構が主である。大辺路の北端は、田辺市北新町にある道標(北新町道標)である。この道標には「左りくまの道」と大書される一方で、「すくハ大へち」(「すく」は「真っ直ぐ」の意)の記はごく小さく、中辺路がメインルートであったことが見てとれる。田辺市街地を抜けた道は富田川下流部沿いに続き、富田川と別れるとただちに最初の難所・富田坂を越え、日置川河畔にたどり着くが、すぐに仏坂が控えている。仏坂を越えてすさみ町側に入り、和深川を渡ると、そこから長井坂である。長井坂を越えて見老津に出てからは、道らしい道がまとまってある箇所はしばらく途絶え、断片的な残存箇所が続く。那智勝浦町に入って浦神峠を越えると、終点はもう近い。那智駅にほど近い熊野三所大神社にたどり着くと、振分石(ふりわけいし)と呼ばれる石柱に出会う。この石柱は、大辺路と伊勢路・中辺路の分岐を表すと言われており、大辺路はここに終わる。
難路であったことから、里道を利用したり、海路を経たり、河畔を歩いたりと、代替ルートや派生ルートが多く用いられたと考えられており、さらに消失による分断区間も多いことから、旧道の全容を正確に知ることは難しい。むしろ、一本の道という線としての捉え方よりも、田辺から那智勝浦を結ぶ交通の網ないし帯という広がりを捉える方がよいと考えられる。紀伊山地南端のうち連なる山々を背に、前面に枯木灘や熊野灘の変化に富む海を望んで、優れた景観を目にすることが出来ることは大辺路の大きな魅力であろう。特に近世の文人墨客の中には、参詣の復路に大辺路をたどった人々がおり、彼らの旅行記を通して、大辺路の往時の姿を知ることが出来る。そこでは、温泉に立ち寄ったり、本地(現在の太地町)の沿岸捕鯨の様子に驚嘆しつつ、探勝を楽しんだ様子が伝えられており、信仰の道にのみにとどまらないルートであることが分かる。
大辺路の道
大辺路はかなりの部分が国道や市街地との重複となり、旧状をとどめる箇所は限られており、連続して歩けるのは長くても10km内外である。それらのルートはおおむね「~坂」と名付けられた峠道だが、これは山地が海の間際まで迫っている紀伊半島の地勢によって交通路の開削が制約されたことによる。以下では大辺路のルートのうち、旧状をよく残すまとまった箇所に限って述べることにする。
富田坂
富田坂(とんだざか)は、白浜町富田から安居(あご)を結ぶ。明光バスの富田バス停を下車し、高瀬川沿いの道をさかのぼると、草堂寺の城壁を思わせる石垣に出会う。この石垣の脇から旧道ははじまり、道を進むと、一里塚跡に着く。これは、上述のように紀州藩が整備したもので、和歌山から22里を示している。林道を抜けると、七曲りの急坂がはじまるが、これが富田坂である。富田平野や白浜から田辺湾にかけての海を横目に、坂を登り切ると、なだらかな起伏の尾根道である。自然林をたどり、峠の茶屋跡を過ぎ、安居辻松峠(あごつじまつとうげ)に着く。峠を越えると、平地までは林道が続き、日置川河畔の安居集落(西牟婁郡白浜町)で里に降りる。
峠の茶屋跡または茶屋の壇(ちゃやのだん)
現地の案内板を含め、これを常設の茶屋の跡とする資料があるが、実際に常設であったのは近代以降のことで、明治維新の頃から1919年(大正8年)までのことである。
安居辻松峠(あごつじまつとうげ)
地蔵立像あり。紀州藩の一里塚の跡地とされ、道の両側に塚が築かれて松が植えられていたと伝えられることから、この名が付いた。
安居集落
かつて安居村(あごむら)と呼ばれ、『紀伊続風土記』にも登場する大辺路の要地であった。大辺路を旅した文人墨客の立ち寄った旧家の屋敷跡がある。
仏坂
仏坂(ほとけざか)は、白浜町安居集落からすさみ町を結ぶ。日置川河畔に一度降り立った旧道は、かつては安居の渡し場で川を渡って仏坂登り口にとりついていた。だが、現在では渡し場は失われているので、下流の橋から渡らなければならない。急坂を登り詰めて尾根道に着くと、桂松跡という場所がある。ここには、一里塚の松があったと伝えられている。尾根の終わり近くには不動明王石像があり、ところどころに石畳の残る入谷口の下り坂を通って、すさみ町に降りる。
長井坂
長井坂(ながいざか、または長柄坂(ながえざか)とも)は、すさみ町口和深から見老津を結ぶ丘陵道である。和深川王子神社近くでJRきのくに線の線路を横切り、和深川に架かる木橋をわたると、登り口がある。紀勢本線の双子山トンネルの上部に出て、杉林の中、枯木灘を横目にジグザグの坂道を登る。やがて緩やかな坂道を下って茶屋峠(茶屋の壇)に降り立つ。峠を後にし、県道225号に吸収された区間を過ぎると、ふたたび峠道を直進し、やせ尾根沿いに急坂を下って見老津駅近くのJR線路脇に降りる。
和深川王子神社周参見王子神社
和深川王子神社(わぶかがわおうじじんじゃ)は和歌山県西牟婁郡すさみ町にある神社である。かつては、現在地よりも北の宮の谷にあったと伝えられている。創建当時から2社が併祀されており、明治42年(1909年)に周参見王子神社に合祀されたことになっているが、実際はそのまま祭祀されたものと思われる。御神体には室町期以前と思われる懸仏3体が完全な形で保存されていて、文化財的価値が高い。他に、弘化3年(1846年)年の記がある石灯籠や、弘化4年の年記がある石造手水鉢がある。また、境内の神社林は、古い森林形態をとどめる貴重なものである。『紀伊続風土記』に記述があり、春日神社の摂社であると述べられている。所在地:すさみ町和深川
段築
尾根道、特に分水嶺となる丘陵鞍部を土手状に整形し、道路平面を一定に保つことで通行を助ける道路構造。行政道路としての整備の事例である。ルート内最高地点(328m)の東西両側にある。
塩津山
熊野古道・富田坂の安居(あご)辻松峠から北側に20分程も登ると旧白浜町の最高点で一等三角点の塩津山に至ります。ここからの眺めはすばらしく、富田平野の先には白浜岬が一望でき、白浜空港に離着陸する航空機の様子も眼下に眺められます。ゆったりと紀伊水道に出入りする船舶の眺めは時の流れを忘れさせてくれます。振り返れば、熊野の山々がどこまでも重層しており、紀伊半島が海からすぐに山となっているのが実感できます。
志原海岸
見渡すとそこは太平洋、そんなロケーションのなかにある志原海岸の広い砂利の浜になっており、潮風が心地よいです。大洞窟がある「志原千畳敷」にも徒歩10分程で行くこともできます。
大門坂
かつて坂の入り口に大門があり、通行税を徴収していたことが名称の由来とされ、 坂道の両側にまるで門柱のようにそびえる夫婦杉をくぐり、九十九王子最後の一社・多富気王子を横目に、樹齢数百年の深い杉木立の中に石畳の道をたどります。坂を上りきったところは、熊野那智大社と青岸渡寺があり、那智の滝へも続きます。
那智山青岸渡寺
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある天台宗の寺院。西国三十三所第一番札所。山号は那智山。本尊は如意輪観世音菩薩。本堂および宝篋印塔は国の重要文化財。ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の一部。




大峯奥駈道大峯奥駈道(拡大)吉野山
吉野山
水分神社 金峰神社
水分神社     金峰神社
山伏 六根清浄
  山伏       六根清浄山上ヶ岳 阿弥陀森
山上ヶ岳    阿弥陀森
普賢岳 行者還岳
普賢岳   行者還岳
八経ヶ岳 釈迦岳
八経ヶ岳     釈迦岳
大日岳 大峰山(夜明け)
大日岳    大峰山(夜明け)
西の覗西の覗
   西の覗
ありがたや 西の覗きに懺悔して
  弥陀の浄土に 入るぞうれしき胎内潜り 熊野速玉大社
胎内潜り    熊野速玉大社
熊野本宮大社
熊野本宮大社
大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)
吉野と熊野を結ぶ大峯山を縦走する、修験道の修行の道。2002年(平成14年)12月19日、国の史跡「大峯奥駈道」として指定された。ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の一部。
概要
大峯奥駈道は、奈良吉野山と熊野三山を結ぶ、もとは修験道の修行場として開かれた道であり、熊野古道の中で最も険阻なルートをなす。今日、一般的に大峰山(大峯山)といえば山上ヶ岳を指すが、大峯奥駈道でいう「大峯」とは、吉野から山上ヶ岳を経てさらに奥の山々、そして最終的には熊野三山に至る大峰山脈を縦走する修行の道全体を指している。
大峯奥駈
大峯奥駈とは本来、大峯山寺より奥の「靡」に進むことを奥駈と云われていた。修行場は「靡」(なびき)と呼ばれ、ひとつひとつに番号が割り当てられている。すなわち、熊野本宮大社の本宮証誠殿(1番)にはじまり、吉野川河岸の柳の宿(75番)に終わる。この大峯七十五靡は75箇所を数えるが、これは歴史的に整理されてきた結果であり、もっと多くの靡が設けられていた時期もある。江戸時代の紀州藩の宗教政策や明治時代の修験道禁止令以降、奥駈道の水場に乏しい南部は荒廃し忘れ去られた。しかし1980年以降の前田勇一たちの活動と、これを引き継いだ新宮山彦ぐるーぷなどの尽力により、持経宿、行仙宿、平治宿に山小屋が建てられ、南奥駈道は再興された。
順峯と逆峯
これら行場を巡る方法には2つの方法が知られている。ひとつは、本宮から吉野に向かう順峯(じゅんぷ)、他方は、逆に吉野から本宮に向かう逆峯(ぎゃくふ)で、それぞれに主宰する宗派が異なる。順峯(従因向果)は天台宗系の聖護院(本山派)が、逆峯(従果向因)は真言宗系の醍醐寺三宝院(当山派)がそれぞれ主導する。中世の熊野を支配し、熊野詣の先達をつとめたのは天台宗系の本山派であり、大峯奥駈についても本山派が先行していたが、近世以降の熊野詣の衰退に伴って、江戸時代から今日まで、両派とも吉野から入るのが一般的かつ正統的なものとされている。ただ、中世の熊野詣を主導した天台宗系による順峯は、那智山青岸渡寺によって復興され、今日でも行われているので、完全に途絶したわけではない。水場が乏しいこともあって、前鬼宿(奈良県下北山村)太古の辻以南の部分(南奥駈と呼ばれることもある)はたどられないことが一般的であり、現在でも大峯七十五靡を踏破する奥駈の行をおこなう寺院は限られている。
75の(なびき)
以下に示すリストは、現在の聖護院が示すものに従う(逆峯の順番)。どの修験教団でも、靡の名はおおむね一致しているが、一部異なるものがあることに注意されたい。
第75柳の宿(やなぎのしゅく)第74丈六山(じょうろくさん)第73吉野山(よしのさん)第72水分神社(みくまりじんじゃ)第71金峯神社(きんぷじんじゃ)第70愛染の宿(あいぜんのしゅく)第69二蔵宿(にぞうのしゅく)第68浄心門(じょうしんもん)第67山上岳(さんじょうがたけ)第66小篠の宿(おざさのしゅく)第65阿弥陀森(あみだがもり)第64脇の宿(わきのしゅく)第63普賢岳(ふげんだけ)第62笙の窟(しょうのいわや)第61弥勒岳(みろくだけ)第60稚児泊(ちごどまり)第59七曜岳(しちようだけ)第58行者還(ぎょうじゃがえり)第57一の多和(いちのたわ)第56石休宿(いしやすみのしゅく)第55講婆世宿(こうばせのしゅく)第54弥山(みせん)第53朝鮮ヶ岳(ちょうせんがたけ)第52古今宿(ふるいまじゅく)第51八経ヶ岳(はっきょうがたけ)第50明星ヶ岳(みょうじょうがだけ)第49菊の窟(きくのいわや)第48禅師の森(ぜんじのもり)第47五鈷嶺(ごこのみね)第46舟の多和(ふねのたわ)第45七面山(しちめんさん)第44楊枝の宿(ようじのしゅく)第43仏性ヶ岳(ぶっしょうがたけ)第42孔雀岳(くじゃくだけ)第41空鉢岳(くうはちだけ)第40釈迦ヶ岳(しゃかがたけ)第39都津門(とつもん)第38深仙宿(じんせんのしゅく)第37聖天の森(しょうてんのもり)第36五角仙(ごかくせん)第35大日岳(だいにちだけ)第34千手岳(せんじゅだけ)第33二つ岩(ふたついわ)第32蘇莫岳(そばくさだけ)第31小池宿(こいけのしゅく)第30千草岳(ちぐさだけ)第29前鬼山(ぜんきさん)第28前鬼三重滝(ぜんきのさんじゅうのたき)第27奥森岳(おくもりだけ)第26子守岳(こもりだけ)第25般若岳(はんにゃだけ)第24涅槃岳(ねはんだけ)第23乾光門(けんこうもん)第22持経宿(じきょうのしゅく)第21平治宿(へいじのしゅく)第20怒田宿(ぬたのしゅく)第19行仙岳(ぎょうせんだけ)第18笠捨山(かさすてやま)第17槍ヶ岳(やりがたけ)第16四阿宿(しあのしゅく)第15菊ヶ池 第14拝返し(おがみかえし)第13香精山(こうしょうざん)第12古屋宿(ふるやのしゅく)第11如意珠岳(にょいじゅがだけ)第10玉置山(たまきさん)第9水呑宿(みずのみのしゅく)第8岸の宿(きしのしゅく)第7五大尊岳(ごだいそんだけ)第6金剛多和(こんごうたわ)第5大黒岳(だいこくだけ)第4吹越山(ふきこしやま)第3新宮(熊野速玉大社)第2那智山(なちさん、熊野那智大社)第1本宮大社(本宮証誠殿)

修験道(しゅげんどう)
熊野の深山にて修行中の修験者、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の混淆宗教である。修験宗ともいう。修験道の実践者を修験者または山伏(やまぶし)という。修験道は、奈良時代に役小角(役行者)が創始したとされるが、役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている。







































慈尊院
慈尊院
六本杉 丹生都比売神社
六本杉    丹生都比売神社
大門 町石

大門     町石
金剛峯寺
金剛峯寺
奥の院
奥の院(弘法大師御廟)
高野山町石道図高野山町石道図(拡大)
高野山町石道(こうやさんちょういしみち)
慈尊院(和歌山県伊都郡九度山町)から高野山(和歌山県伊都郡高野町)へ通じる高野山の表参道である。弘法大師が高野山を開山して以来の信仰の道とされてきた。国の史跡「高野参詣道」として指定されている。ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の構成資産の一部。

町石(ちょういし)
高野山への道標(道しるべ)として、1町(約109メートル)ごとに「町石」と呼ばれる高さ約3メートル強の五輪卒塔婆形の石柱が建てられ、高野山上の壇上伽藍・根本大塔を起点として慈尊院までの約22キロメートルの道中に180基、大塔から高野山奥の院・弘法大師御廟まで約4キロメートルの道中に36基の、合計216基の町石が置かれている。慈尊院から数えて36町(1里)ごとには、町石の近くに「里石(りいし)」が合計4基置かれている。町石は、弘法大師が開山した平安時代の頃は木製の卒塔婆だったと言われており、風雨にさらされるなどして老朽化したため、鎌倉時代の文永2年(1265年)頃に遍照光院の覚きょう上人が石造の町卒塔婆建立を発願し、20年の歳月をかけて弘安8年(1285年)に完成した。現在でもその8割以上にあたる150本の石柱が建立当時のまま残り、今なお昔日の面影を伝えている。かつては高野巡礼の人々が町石のひとつひとつに手を合わせて礼拝しながら登ったと言われているが、現在では道も整備され気軽に歩けるハイキングコースともなっている。この一帯は和歌山県高野山町石道玉川峡県立自然公園の一部をなす。
























【富士信仰】

構 成 要 素説               明
富士山

富士山巡礼者
富士山巡礼者(1880年撮影)
赤富士
凱風快晴(葛飾北斎)
神奈川沖浪裏
神奈川沖浪裏(葛飾北斎)
駿河薩夕之海上
駿河薩夕之海上(歌川広重)








































富士山:信仰の対象と芸術の源泉

2013年にUNESCOの世界遺産リストに登録された日本の世界遺産である。静岡県と山梨県にまたがる日本最高峰の富士山は、古来富士信仰が育まれた霊峰であるとともに、葛飾北斎の富嶽三十六景などに代表される芸術上の主要な題材として、日本国内のみならず国際的にも大きな影響を及ぼした景観を形成している。
信仰の対象
富士信仰の明確な定義はないが、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言われる。特に富士山の神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり、全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。また徳川家康による庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派を形成し、富士信仰を形成してきた。富士参詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年」とあり)などが確認されている。登山口は末代上人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。次第に他の登山道も開削されてゆき、13世紀には大宮・村山口、吉田口、須山口の3登山道の存在が確認されている[1]。後に須走口が出来たとされる。15世紀後半には他の登山口と比べ吉田口を利用する道者が目立つようになっていたと考えられ、特に富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降では、他の登山口の合計と同程度であったという。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年(明治39年)に新大宮口が開削された。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つようになった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年〜1275年)の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。しかし、慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。
芸術の源泉
富士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。
「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」 は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ…」(巻3・319・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌集』から。富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな (西行)都人にとって富士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている場所が現存している。ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されているが、古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗った太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳図として描かれている。鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼荼羅』も描かれた。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在として認識されていた。室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富士山は三峰型富士で描かれている。江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波と富士を描いた『神奈川沖 浪裏』などが知られる。また、歌川広重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版し、広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。浮世絵に描かれた富士山は西洋美術にも影響を与えた。葛飾北斎や歌川広重の浮世絵を通じ、ヨーロッパではいわゆるジャポニスムの風潮がおこり、たとえばフィンセント・ファン・ゴッホの作品『タンギー爺さん』には、浮世絵(歌川広重『冨士三十六景』)の模写という形で背景に富士山が描かれている。富士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われている。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また、鉄道・道路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景画などを残している画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。富士山麓に滞在した作家は数多くいる。武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記した。また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはこの一節を刻んだ文学碑が建っている。直木賞作家である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作『強力伝』や『富士山頂』をはじめ数々の富士にまつわる作品を執筆している。高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見て句を詠んだ。駅前にはその句碑が建てられている。「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れの花の姥」
富士山本宮浅間大社(富士宮市)
富士山本宮浅間大社(富士宮市)
浅間神社(笛吹市)
浅間神社(笛吹市)
河口浅間神社(富士河口湖町)
河口浅間神社(富士河口湖町)
一宮浅間神社(市川三郷町)
一宮浅間神社(市川三郷町)
浅間神社分布図
浅間神社分布図(富士山周辺)(拡大)
浅間神社(せんげんじんじゃ)
浅間神社(せんげんじんじゃ、あさまじんじゃ)は、「浅間」を社名に持つ神社。浅間神社のほとんどは富士山に対する信仰(富士信仰、特に浅間信仰)の神社であるが、一部浅間山に対する信仰の神社もある。
 駿河(するが)(静岡県)
  富士山本宮浅間大社(富士宮市)
 甲斐(かい)(山梨県)
  浅間神社(笛吹市)
  河口浅間神社(富士河口湖町)
  一宮浅間神社(市川三郷町)
浅間神社の分布
浅間神社は霊験あらたかな神として、頼朝はもちろん国中の人々が讃え、各地に建てられていきました。現在その数は、全国に1300社以上もあるといわれています。他社との合併で浅間神社という社名をはずした神社をあわせると、1900社に近い数になるとも言われています。これは浅間信仰と修験道や角行の富士講などと結びつき、関東を中心に全国的に発展したからです。


























富士山全登山ルート図
富士山全登山ルート図(拡大)
吉田ルート
吉田ルート(拡大)
5~7合目 7~本8合目
5~7合目   7~本8合目
本8合目~山頂 下山案内
本8合目~山頂   下山案内


富士宮ルート
富士宮ルート(拡大)
富士宮1 富士宮2
新五合目   八合目
富士宮3 富士宮4
八合目    下山


須走ルート
須走ルート(拡大)
須走り1 須走り2
新五合目ー六合目   六合目ー山頂  


御殿場ルート
御殿場ルート(拡大)
御殿場1 御殿場2
新五合目ー六合目  六合目ー山頂
富士登山

概要富士登山は古来より、霊峰信仰として行われた。 平安時代の貴族で学者の都良香が記した『富士山記』には富士山頂上の実情に近い風景描写がある。これは、良香本人が登頂、または実際に登頂した者に取材しなければ知り得ない記述であり、富士登山の歴史的記録として重要である。江戸時代には富士講による登山が盛んであった。観光目的の登山は明治期以降に盛んになった。

登山ルート
現在使用されている主な登山道には、静岡県側の「富士宮ルート」・「須走ルート」・「御殿場ルート」、山梨県側の「吉田ルート」の4ルートがあるが、観光が主産業であり富士山観光開発を積極的に行っている吉田ルートの登山者が最も多い。
富士山五合目(新五合目)
それぞれの登山口(自動車道の終点)は全て「五合目」あるいは「新五合目」を名乗っているが、各登山口で五合目の標高が大きく異なる。例えば4つの登山ルートのうち最高標高の富士宮口の五合目では約2380mであるが、御殿場口の新五合目は旧二合目のさらに下、約1440mである。

【山梨県側】
吉田ルート
富士スバルライン五合目を出発し、六合目で吉田口登山道と合流します。山梨県側の富士山の北側から山頂を目指すルートです。登山道と下山道が別になっている。登りの登山道に山小屋が多い。逆に、下山道には山小屋がほとんどない。

【静岡県側】
富士宮ルート
富士宮口五合目を出発し、静岡県側(富士宮市内)の富士山南側から山頂を目指すルートです。4つの登山ルートのうち、最も標高の高い位置から出発するため、山頂までの距離が短い。そのため、吉田ルートに次いで登山者が多い。全体的に傾斜が急で、やや岩場が多い。登山道と下山道が同じで、ルートを間違えにくい反面、混雑時は譲り合って登山することが必要。
須走ルート
須走口五合目を出発し、静岡県側(小山町内)の富士山東側から山頂を目指すルートです。標高の高い位置まで樹林帯が広がっており、登山中の日差しから守られる。樹林帯を抜けると、どこからでもご来光や影富士が見られる。火山砂利の下山道を一直線に下る「砂走り」がある。登山道と下山道が別。本八合目から山頂までの区間は吉田ルートと合流。樹林帯では見通しが効かないため、夜間や濃霧時は道に迷わないように注意。
御殿場ルート
御殿場口新五合目を出発し、静岡県側(御殿場市)の富士山南東側から山頂を目指すルートです。出発点の標高が低く、傾斜が緩やか。(山頂までの標高差が大きく、距離が長いため健脚向き)火山砂利を下る大砂走りの下山がダイナミック。他ルートに比べて山小屋が少ない。(トイレや休憩場所が少なく、緊急時に対応できる施設がない)4ルート中、最も登山者が少ないため、静かな登山が楽しめる。登山道の標高の高い位置から、ご来光が見られる。目標物が少ないため、夜間や濃霧時には道に迷いやすい。
登山期間
一般的な富士登山の期間は、山開きの7月1日〜9月14日(山梨県側)もしくは7月10日〜9月10日(静岡県側)までである。この期間は案内所やほぼ全ての山小屋が営業しているため利便性が高く、登山客が集中する。しかし山開きはしても、残雪の多い年は7月中旬まで登山道に雪が残ることもあり、ルートによってはその頃まで通行止めとなっていることがある。
登山道の渋滞
夏期シーズンにおいて、日によって登山者数が大きく異なる。7月中旬~8月下旬の金土日祝が混雑し、さらに、8月上旬~中旬は平日も混雑する。
その他
登山者から見るとあまり美しい山ではなく、また独立峰の高山で様々な過酷な環境・危険がともなうが、それでも魅了され何度も登る者たちもいる。
気候
平均気温
山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃で、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上10℃未満のツンドラ気候に分類され、平均風速は7月 8.5m/s、8月 7.3m/sであり、(真夏でも)体感気温は0℃以下となる。平地では30℃を超えていても、真冬並の防寒着が必要となる。富士山は独立峰であるため、低気圧が日本付近を通過中は、猛烈な強風となる。(台風なみの)風速20m/s以上となることも多く、その間の登山は非常に危険である。
ガスの発生
また、富士山にガスがかかることは多い。気象庁発表の、富士山山頂のアメダスデータで湿度100%となっているときは、山頂でガスがかかっていることが多い。2006年度は、平均湿度が90%以上となった日の数は、7月は24回、8月は9回である。ガスが原因で道を誤り遭難したケースもある。また、ガスがかかっていると御来光も見られない。














































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西湖
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本栖湖
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千円札E号券 五千円札D号券
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精進湖
精進湖
山中湖
山中湖
河口湖
河口湖


富士五湖
富士五湖(ふじごこ)は、山梨県側の富士山麓に位置する5つの湖の総称。下記の5つの湖をさす。堀内良平(富士急の創設者)によって命名された。本栖湖(富士河口湖町、身延町)(もとすこ) 精進湖(富士河口湖町)(しょうじこ) 西湖(富士河口湖町)(さいこ) 河口湖(富士河口湖町)(かわぐちこ) 山中湖(山中湖村)(やまなかこ)
いずれも富士山の噴火による堰止湖で、富士箱根伊豆国立公園に指定されている。2011年(平成23年)9月21日に富士五湖の名称で5湖とも国の名勝に指定され、2013年6月22日には「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の一部として五湖すべてが世界文化遺産(日本の文化遺産としては13箇所目)に登録された。
名前の由来
江戸時代には富士講において現在の「富士五湖」に四尾連湖、明日見湖、泉津湖もしくは須戸湖を加えた「富士八海」の呼称は見られるが、「富士五湖」の呼称は見られない。「富士五湖」の呼称は、1977年(昭和52年)に富士急行から刊行された『富士山麓史』によれば「この時、堀内良平の胸にひらめいたのが『富士五湖』の名であった。良平は新聞社に行き『富士五湖』の新名称で投票することの了解を取るとともに、自社の株主に一株一枚の投票を呼びかけた。締め切りまでに富士五湖に寄せられた票は360万票、湖沼の部日本一となった」とある。審査の結果「富士五湖」は「日本二十五勝」に選定された。
西湖(さいこ)
山梨県南都留郡富士河口湖町にある湖。山梨県指定天然記念物フジマリモの群落地である。
本栖湖(もとすこ)
山梨県南都留郡富士河口湖町及び南巨摩郡身延町に跨いで存在する湖。富士五湖の一つで、五湖の最西端に位置し富士五湖の中で最大となる121.6mの水深がある。千円紙幣E号券、五千円紙幣D号券の裏面に描かれる逆さ富士のモデルとして有名である。
精進湖(しょうじこ)
山梨県南都留郡富士河口湖町にある湖。富士五湖のひとつで、西から2番目、東から4番目にあたる。富士箱根伊豆国立公園の特別地域内にある。
山中湖(やまなかこ)
山梨県南都留郡山中湖村にある淡水湖。富士五湖のひとつ。湖面の面積は6.57平方kmあり、富士五湖の中で最大の面積を持つ。また、湖面の標高は富士五湖の中では最も高い位置にあり、日本全体でも第3位。逆に水深は富士五湖の中で最も浅い 13.3m。富士箱根伊豆国立公園に指定されている。
河口湖(かわぐちこ)
本州の中部、富士山の近くに存在する、富士五湖の1つに数えられる相模川水系の湖である。富士箱根伊豆国立公園に指定されている。富士五湖の中で最も長い湖岸線を持ち、最も低い標高地点にある。面積は富士五湖では2番目の大きさで、最大水深は精進湖と並び3番目 15.2m の深さ。湖の中央に鵜の島(鸕鷀島)と呼ばれる小さな島がある。また、産屋ヶ崎は富士山展望の好適地とされているほか、乳ヶ崎、小曲岬(子轉ヶ崎)、長崎(胞ヶ崎)などの景勝も存在する。


























出口池
出口池
御釜池
御釜池
底抜池
底抜池;
銚子池
銚子池
湧池
湧池
濁池
濁池
鏡池
鏡池
菖蒲池
菖蒲池



忍野八海(おしのはっかい)
山梨県忍野村にある湧泉群。富士山の雪解け水が地下の溶岩の間で、約20年の歳月をかけてろ過され、湧水となって8か所の泉をつくる。英名はSprings of Mt. Fuji、忍野八海からの湧水は山中湖を水源とする相模川水系の桂川と合流する。国指定の天然記念物、名水百選に指定。県の新富嶽百景にも選定されている。2013年には「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録された。
出口池(でぐちいけ)
忍野八海で最大の池。出口池の高台に出口稲荷社が建つ。石碑に「あめつちの ひらける時にうこきなき おやまのみつの出口たうとき」との和歌が刻まれている。
御釜池(おかまいけ)
かつて存在した石碑には「ふじの根のふもとの原わきいづる水は此の世のおかまなりけり」との和歌が刻まれていた。
底抜池(そこぬけいけ)
はんのき資料館(有料)の最奥にある池。石碑に「くむからにつみはきへなん御仏のちかひぞふかしそこぬけの池」との和歌が刻まれている。忍野八海に唯一個人所有の池。
銚子池(ちょうしいけ)
間欠的な湧水。名前の由来は長柄の銚子に似ていることから。石碑に「くめばこそ銚子の池もさはぐらんもとより水に波のある川」との和歌が刻まれている。
湧池(わくいけ)
八海で最大の湧水量。珪藻土層でなる水中洞窟を持ち、潜水調査により池の底から最奥部まで約55mあることが確認された。景観も良く、周辺住民の飲用水としても利用されている。石碑に「いまもなほわく池水に守神のすへの世うけてかはれるぞしる」との和歌が刻まれている。
濁池(にごりいけ)
池本荘にある池から大きな排水溝が空いており、湧水は池底から少しだけ湧き出ている。川に隣接。分的に濁ってはいるが、比較的清麗である。今は池に埋もれてないが石碑に「ひれならす竜の都のありさまをくみてしれとやにごる池水」との和歌が刻まれていた。
鏡池(かがみいけ)
名前の由来は逆さ富士が映ることから。水は濁り、湧水の清らかさはない。かつて存在した石碑には「そこすみてのどけき池はこれぞこのしろたへの雪のしづくなるらん」との和歌が刻まれていた。
菖蒲池(しょうぶいけ)
沼状の池。周囲に菖蒲が生い茂る。石碑に「あやめ草名におふ池はくもりなきさつきの鏡みるここちなり」との和歌が刻まれている。




























三保松原
三保松原
羽衣の松
羽衣の松
三保の松原(歌川広重)
三保の松原(歌川広重)
三保松原
静岡県静岡市清水区の三保半島にある景勝地。その美しさから日本新三景(大沼、三保の松原、耶馬溪)、日本三大松原(三保の松原、虹の松原、気比の松原)のひとつとされ、国の名勝に指定されている[1]。また、ユネスコの世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産に登録されている。なお、「三保の松原」は名勝としての指定名称及び世界文化遺産・構成資産一覧では「三保松原」と表記され、表記にゆれが存在する。新聞等ではハンドブックにより「三保の松原」で表記を統一しているところもある。
概要
平安時代から親しまれている三保半島の東側に広がる景勝地である。総延長7km、3万699本の松林が生い茂る海浜と、駿河湾を挟んで望む富士山や伊豆半島の美しい眺めで有名。歌川広重の『六十余州名所図会』「駿河 三保のまつ原」を始めとする浮世絵にも描かれている。
また、日本最古の和歌集である『万葉集』に
 廬原(いほはら)の 清見の崎の 三保の浦の ゆたけき見つつ 物思ひもなし
と詠われて以降、多くの和歌の題材となり、謡曲『羽衣』の舞台にもなっている。三保半島は、安倍川から海へと流された土砂が太平洋の荒波に運ばれ、日本平を擁する有度山を削りながら出来た砂嘴である。何百年にわたり流された土砂(漂砂)が静岡海岸、さらには清水海岸に幅百mを超える砂浜を作り、現在の清水港を囲む三保半島、および三保の松原の砂浜を形成した。羽衣伝説の舞台でもあり、浜には天女が舞い降りて羽衣をかけたとされる「羽衣の松」があり、付近の御穂神社(みほじんじゃ)には羽衣の切れ端といわれるものが保存されている。羽衣の松には毎年元日の朝に大勢の人々が集い、伊豆半島の山々から昇る初日の出を拝んでいる。


















【古都】

地域文化財説                  明
奈良大極殿(復元)
大極殿(復元)
第1次大極殿
復元工事中の第1次大極殿
(写真中央)
背後に東大寺大仏殿や若草山
がみえる(2010年1月)
朱雀門(復元)
朱雀門(復元)
東院庭園
東院庭園
平城宮跡(拡大)
平城宮(へいじょうきゅう)
平城宮(へいぜいきゅう、へいじょうきゅう)は奈良の古都平城京の大内裏。1998年(平成10年)12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産に登録された(考古遺跡としては日本初)。
歴史
平城京の北端に置かれ、天皇の住まいである内裏即ち内廷と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙の所謂外朝から成り、約120ヘクタールを占めていた。周囲は5メートル程度の大垣が張り巡らされ、朱雀門を始め豪族の姓氏に因んだ12の門が設置され、役人等はそれらの門より出入りした。東端には東院庭園がおかれ、宴等が催された。この東院庭園は今日の日本庭園の原型とされている。ただし、平城京に都が置かれていた70年余りに間に何度か大規模な改築が実施されており、その間に平城宮内部の構造も変化している部分もあったが、そのことが後世の研究家に認識されることは少なく、実際に本格的な発掘が実施されるまで誤った推定が行われる遠因となった。
784年(延暦3年)に長岡京に遷都され、その後平城上皇が大極殿(第一次)跡地に新しい宮(平城西宮)を造営して居住したこともあったが、その後平安京が都としての地位が確定すると放置され、しだいに農地となっていった。しかし南都と呼ばれ、あくまでも本来の都は奈良という認識が大宮人の間にはあった。1852年(嘉永5年)、奉行所の役人であった北浦定政が『平城宮大内裏跡坪割之図』を著し、平城京の跡地を推定した。明治時代に建築史家、関野貞が田圃の中にある小高い芝地が大極殿(第二次)の基壇である事を発見、907年(明治40年)に『平城京及大内裏考』を奈良新聞に発表した。ただし、関野の研究は大極殿(第一次)の恭仁京への移転を含む平城宮の度重なる改築の事実を認識できず大極殿(第一次)を内裏の遺構と誤認したこと、中宮(中宮院とも、聖武・淳仁天皇が御在所とした)を無条件で内裏の別称と解したこと、内裏位置の誤認のために実際の内裏区域に対してはほとんど関心を払わなかったことなど、今日からみれば問題となる部分を含んでいた。この研究記事がきっかけとなり、棚田嘉十郎・溝辺文四郎らが中心となり平城宮跡の保存の運動が起こった。1921年(大正10年)には、平城宮跡の中心部分が民間の寄金によって買い取られ、国に寄付された。その後、「平城宮址」は1922年(大正11年)に国の史跡に指定された(後に特別史跡)。この時、上田三吉を中心として発掘作業が実施されて大極殿(第二次)の北方(すなわち実際の内裏区域)にも遺構があることを確認した。ただし、上田もこれが内裏の一部であるとする認識には至らなかった。1928年(昭和3年)にも岸熊吉の発掘調査で今日内裏の東大溝として知られている部分を発見しているが、岸も内裏との関連性に気付くことはなかった。その後、1953年(昭和28年)・1955年(昭和30年)にも大規模な発掘調査が実施したが、内裏に関する関野説の誤りを指摘して正確な内裏の跡地の推定をしたのは、1960年(昭和35年)の奈良国立文化財研究所の発掘調査に参加した工藤圭章であった。戦後に「址」(し・あと)が常用漢字外であるため「平城宮跡」と書かれるようになる。1960年代に近鉄電車の検車庫問題と国道建設問題に対する二度の国民的保存運動が起こった。現在は、ほぼ本来の平城宮跡地が指定され保存されている。
なお、唐招提寺の講堂(国宝)は平城宮朝堂院にあった建物の一つである東朝集殿を移築したものである。切妻屋根を入母屋にしたり、鎌倉時代の様式で改造されている箇所もあるが、平城宮唯一の建築遺構として貴重である。また2015年度(平成27年度)には、平安京大内裏の豊楽院での発掘調査によって豊楽殿(豊楽院中心施設)の規模が平城宮第2次大極殿と一致することが判明しており、第2次大極殿は平安京へ移築されたとする説が生じている。
中門・御廟
中門・御廟
本殿(背面)
本殿(背面)
手前から第四殿、第三殿、第二殿、第一殿
画像の説明
春日大社境内(拡大)
春日大社下がり藤(下がり藤)
中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社。旧称は春日神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「下がり藤」。全国に約1000社ある春日神社の総本社である。武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。
祭神
主祭神は以下の4柱。総称して春日神と呼ばれ、藤原氏の氏神である。
 ●武甕槌命(たけかみつちのみこと) - 藤原氏守護神(常陸国鹿島の神)
 ●経津主命(ふつぬしのみこと) - 同上(下総国香取の神)
 ●天児屋根命(あめのこやねのみこと) - 藤原氏の祖神(河内国平岡の神)
 ●比売神(ひめかみ) - 天児屋根命の妻(同上)
歴史
奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まる[要出典]とする説もあるが、社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。藤原氏の隆盛とともに当社も隆盛した。平安時代初期には官祭が行われるようになった。当社の例祭である春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされる。850年(嘉祥3年)には武甕槌命・経津主命が、940年(天慶3年)には、朝廷から天児屋根命が最高位である正一位の神階を授かった。『延喜式神名帳』には「大和国添上郡 春日祭神四座」と記載され、名神大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、813年(弘仁4年)、藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされた。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていった。11世紀末から興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日大社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった。1871年(明治4年)に春日神社に改称するとともに官幣大社に列し「官幣大社春日神社」となった。1946年(昭和21年)12月、近代社格制度の廃止に伴い、そのままでは単に「春日神社」となって他の多くの春日神社と混同することを避けるために現在の「春日大社」に改称した。1998年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に「古都奈良の文化財」の1つとして登録された。
興福寺
五重塔と東金堂
五重塔
五重塔
東金堂
東金堂
興福寺伽藍
興福寺伽藍(拡大)
興福寺
奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
創建
藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。
東大寺
金堂(大仏殿)
大仏
大仏(盧舎那仏(るしゃなぶつ))像高は14.7m
画像の説明
勧進状((拡大))
画像の説明
大仏殿周辺図(拡大)
東大寺
奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら[1])ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
創建と大仏造立
8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ[3]、寺名は金光明寺と改められた。大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、このころから「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことであった。東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。
その大きな仏を造るという一大事業は、聖武天皇や国家の力だけでは完成できないため、*行基が全国をまわって大仏造立の意味を説き、物資や人手を集めました。こうして大仏および大仏殿の建立にたずさわった人数と物資は以下の通りで、莫大な量にのぼりました。
 材木の寄進:51,590人
 労働力:1,665,071人
 金銅の寄進:372,075人
 銅:約241トン
 練金:4,187両1分4朱
京都画像の説明

画像の説明

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300 x 200

清水寺
京都府京都市東山区清水にある寺院。山号を音羽山。本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮である。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三所観音霊場の第16番札所である。
概要
清水寺は法相宗(南都六宗の一)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場であり、鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地として有名であり、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。また、修学旅行で多くの学生が訪れる。古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。清水寺の宗旨は、当初は法相宗で、平安時代中期からは真言宗を兼宗していた。明治時代初期に一時真言宗醍醐派に属するが、明治18年(1885年)に法相宗に復す。昭和40年(1965年)に当時の住職大西良慶が北法相宗を立宗して法相宗から独立した。
本尊
 ●本堂本尊
清水寺本堂本尊の千手観音立像は33年に1度開扉の秘仏であり、写真も公表されていない。ただし、秘仏本尊を模して造られた「お前立ち像」の写真は公表されている。本像は、42本の手のうち、左右各1本を頭上に伸ばして組み合わせ、化仏(けぶつ)を捧げ持つ特殊な形式の像である。このような形式の像を「清水寺形千手観音」と称し、これを模した彫像、画像が日本各地に存在する。このような、脇手のうちの2本を頭上に掲げる形の千手観音については経典に典拠がなく、その由来は未詳である。脇侍として毘沙門天像と地蔵菩薩像を安置するが、このうち地蔵菩薩像は、鎧で武装した上に袈裟を着け、兜をかぶり、剣を持つ特殊な形の像である。本堂本尊は、20世紀末以降では以下の機会に開帳された。2000年3月3日から同年12月3日まで(33年に一度の開帳)2008年9月1日から11月30日まで、及び2009年3月1日から5月31日まで(西国三十三所巡礼の中興者とされる花山法皇一千年忌記念の結縁開帳)
 ●奥の院本尊
奥の院本尊の秘仏千手観音坐像(重要文化財)は、鎌倉時代の作で一木割矧造、像高63.9センチメートル。正面・右・左の3つの顔をもち、頭上に24の小面を乗せ、計27面をもつ特異な形の像である。本面と左右脇面は額に縦の眼を有する三眼とすること、前で組み合わせる宝鉢手は親指と人差し指で輪をつくる、阿弥陀如来と同様の印相とすること、光背に観音の三十三応現身を表すことなど、図像的に特異な点が多い。作風には快慶風が強いが、作者を快慶と同定するには至っていない。本像は2002年に重要文化財に指定され、翌2003年3月7日から12月7日まで243年ぶりに開帳された。また、2008年8月から11月にかけて奈良国立博物館及び名古屋市博物館で開催された特別展「西国三十三所」に出陳された。
画像の説明300 x 200二条城
京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある、江戸時代に造営された日本の城である。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された。城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもある
画像の説明画像の説明東寺雲東寺
京都市南区九条町にある仏教寺院。真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の総本山でもある。「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。山号は八幡山。本尊は薬師如来。寺紋は雲形紋(東寺雲)。東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。昭和9年(1934年)に国の史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。
画像の説明画像の説明五七桐金閣寺
鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣(きんかく)、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺(きんかくじ)として知られる。相国寺の山外塔頭寺院である。寺名は開基(創設者)である室町幕府3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ。山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐。義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、昭和25年(1950年)に放火により焼失し、昭和30年(1955年)に再建された。平成6年(1994年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。


                             京都観光地図
京都観光地図

絶景

【棚田】

山からの湧き水を利用し斜面に階段状につくられた段々畑。水と斜面の活用だけでなく寒暖差・風通し・日照時間なども考えた先人の知恵が凝縮されている。さらに田んぼを水平に保つために石や土で築いた仕切りはダムの役割を果たし地滑りが起こりにくい利点もある。

【参照】 日本の棚田百選

【伝統集落】

日本の民家は、その土地の気候や風土と深く関係しながら形づくられてきた。農家なら段々畑、漁村なら海と直結しているなど生活と密着しているのが特徴である。釘を使わない木組みで、屋根は入母屋(いりもや)造りか寄棟(よせむね)造りで茅や杉皮、屋内には土間・(かまど)、居間には囲炉裏(いろり)が置かれ家族団らんの場となった。

白川郷伊根の舟屋下栗の里
白川郷 (岐阜県大野郡)
伝統的な合掌造りの集落は富山の五箇山と一緒にユネスコ世界遺産に登録された。屋根裏は養蚕(ようさん)の作業場として使われた
伊根の舟屋(いねのふなや) (京都府伊根町)
伊根湾に沿って約230軒の舟屋が並ぶ重要伝統的建造物群保存地区。一階にガレージや作業場がある。民宿や飲食店の舟屋も多い。
下栗(しもぐり)の里 (長野県飯田市)
南アルプスを望む標高800~1,000m、最大斜度38度の傾斜地にあり、「天空の里」「日本のチロル」とも呼ばれる。

竹富島白馬青鬼集落かやぶきの里
竹富島(たけとみじま) (沖縄県竹富町)
八重山諸島にあり周囲約9kmの島。3つの集落からなり白砂道・赤瓦民家・石垣など沖縄の伝統的町並みを保つ重要伝統的建造物群保存地区。
白馬青鬼集落(はくばあおにしゅうらく) (長野県白馬村)
標高約760mの白馬村の山腹に、江戸後期から明治後期に建てられた茅葺き(現在は鉄板被覆)の家14棟と蔵8棟がある。重要伝統的建造物群保存地区
かやぶきの里 (京都府南丹市)
江戸中期から末期にかけての入母屋造りの「北山型かやぶき民家」38棟が立ち並ぶ。重要伝統的建造物群保存地区

【参照】 重要伝統的建造物群保存地区

【宿場町】

江戸・徳川時代、江戸と各地を結ぶ主要道として江戸五街道が整備された。道中には宿場町が設置され大名行列や旅人らで賑わった。いずれも明治期以降の鉄道網の発展により、街道も宿場町も衰退していった。

五街道五街道と全宿場
五街道(194宿)五街道と全宿場(拡大)
江戸時代の街道水戸街道
江戸時代の街道拡大水戸街道


                           【参照】⇒ 旧街道地図   旧街道宿場一覧



主  な  宿  場  など




53
宿
江戸日本橋箱根関所跡二川本陣跡関宿京都三条大橋
江戸日本橋箱根関所跡二川本陣跡関宿京都三条大橋




67
宿
神田明神下諏訪宿妻籠宿馬籠宿関ケ原
神田明神下諏訪宿妻籠宿馬籠宿関ケ原




43
宿
府中猿橋台ケ原金沢上諏訪
府中猿橋台ケ原金沢上諏訪




21
宿
千住幸手古河宇都宮日光
千住幸手古河宇都宮日光




10
宿
白沢佐久山越堀芦野白河
白沢佐久山越堀芦野白河
五街道以外にその枝道、また古街道として脇往還が設置され、勘定奉行の管轄に置かれた。

下記の記事は中日新聞(2016.7.31 朝刊)より転載させていただきました。
新宿
中日新聞(2016.8.21 朝刊)
鵜沼宿
中日新聞(2016.8.28 朝刊)
白沢宿
中日新聞(2016.9.18 朝刊)
松阪日野町
中日新聞(2016.9.25 朝刊)
贄川宿
中日新聞(2016.10.2 朝刊)
土浦宿
中日新聞(2016.10.9 朝刊)
掛川宿
中日新聞(2016.10.16 朝刊)
鳴海宿
中日新聞(2016.10.23 朝刊)
滑川宿
中日新聞(2016.10.30 朝刊)
岳温泉
中日新聞(2016.11.6 朝刊)
疋田宿
中日新聞(2016.11.13 朝刊)
丸子宿
下記の記事は中日新聞(2016.11.20 朝刊)
善師野宿
中日新聞(2016.11.27 朝刊)
木下河岸
中日新聞(2016.12.18 朝刊)
須川宿
中日新聞(2016.12.25 朝刊)
池鯉鮒宿
中日新聞(2017.01.15 朝刊)
板橋宿
中日新聞(2017.01.22 朝刊)
金山宿
中日新聞(2017.01.29 朝刊)
高松宿
中日新聞(2017.02.05 朝刊)
神奈川宿
中日新聞(2017.02.12 朝刊)
鳥居本宿
中日新聞(2017.02.19 朝刊)
見付宿
中日新聞(2017.02.26 朝刊)
上柘植宿

                     東海道五十三次(弥次喜多道中)


                     現在の東海道五十三次(自転車旅行)

参照】 バーナー (クリック)
    東海道五十三次今昔
    中山道六十九次歩き旅
    甲州街道四十四宿歩き旅
    歩く日光街道二十一宿
    奥州道中十宿

【ユネスコ無形文化遺産:山・鉾・屋台行事】

登録年行   事   名重要無形文化財場     所開催時期
2015年大垣祭の車山行事大垣市5月中旬
2014年花輪祭の屋台行事鹿角市8月中旬
2014年手漉和紙島根県・岐阜県・埼玉県
2013年和食 日本人の伝統的な食文化月旬
2012年那智の田楽(なちのでんがく)和歌山県月旬
2012年須成祭の車楽船行事と神葭流し蟹江町8月上旬
2011年佐陀神能(さだしんのう)島根県月旬
2011年壬生の花田植(みぶのはなたうえ)広島県月旬
2011年八代妙見祭の神幸行事熊本県八代市11月下旬
2010年結城紬(ゆうきつむぎ)茨城県、栃木県月旬
2010年組踊(くみおどり)沖縄県月旬
2009年アイヌ古式舞踊(あいぬこしきぶよう)北海道月旬
2009年題目立(だいもくたて)奈良県月旬
2009年大日堂舞楽(だいにちどうぶがく)秋田県月旬
2009年チャッキラコ(ちゃっきらこ)神奈川県1月中旬
2009年秋保の田植踊(あきうのたうえおどり)宮城県月旬
2009年早池峰神楽(はやちねかぐら)岩手県月旬
2009年奥能登のあえのこと(おくのとのあえのこと)石川県月旬
2009年甑島のトシドン(こしきじまのとしどん)鹿児島県月旬
2009年京都祇園祭の山鉾行事(きょうとぎおんまつりのやまほこぎょうじ京都府月旬
2009年日立風流物(ひたちふりゅうもの)茨城県4月上中旬
2009年石州半紙(せきしゅうばんし)島根県月旬
2009年小千谷縮・越後上布(おぢやちぢみ・えちごじょうふ)新潟県月旬
2009年雅楽(ががく)宮内庁式部職楽部
2009年新庄まつりの山車行事山形県新庄市8月下旬
2008年歌舞伎(かぶき)社団法人伝統歌舞伎保存会
2008年人形浄瑠璃文楽(にんぎょうじょうるりぶんらく)人形浄瑠璃文楽座
2008年能楽(のうがく)社団法人日本能楽会
2007年桑名石取祭の祭車行事三重県桑名市8月上旬
2006年犬山祭の車山行事犬山市4月上旬
2006年亀崎潮干祭の山車行事半田市5月上旬
2005年川越氷祭の屋台行事川埼玉県川越市10月中下旬
2004年八戸三社大祭の山車行事青森県八戸市8月上旬
2004年佐原の山車行事千葉円香取市7月・10月
2003年鹿沼今宮神社祭の屋台行事鹿沼市10月上中旬
2002年城端神明宮祭の曳山行事南栃市5月上旬
2002年上野天神祭のダンジリ行事三重県伊賀市10月下旬
1997年土崎神明社祭の曳山行事秋田市7月中下旬
1997年鳥出神社の鯨船行事三重県四日市市8月中旬
1997年魚津のタテモン行事富山県魚津市8月上旬
1996年日田祇園の曳山行事福岡市7月下旬
1991年角館祭のやま行事秋田県仙北市9月上旬
1990年知立の山車文楽とからくり(動画参照⇒下記)愛知県知立市5月上旬
1983年青柏祭の曳山行事石川県七尾市5月上旬
1980年古川祭の起し太鼓・屋台行事岐阜県飛騨市4月中旬
1980年戸畑祇園大山笠行事北九州市7月下旬
1980年尾張津島天王祭の車楽船行事愛知県津島市・愛西市7月下旬
1980年唐津くんちの曳山行事佐賀県唐津市11月上旬
1979年烏山の山あげ行事栃木県那須烏山市7月下旬
1979年高岡御車山祭の御車山行事富山県高岡市5月上旬
1979年秩父祭の屋台行事埼玉県秩父市12月上旬
1979年高山祭の屋台行事(春・秋)岐阜県高山市4月旬・10月旬
1979年長浜曳山祭の曳山行事滋賀県長浜市4月中旬
1979年京都祇園祭の山鉾行事京都市7月中下旬
1979年博多祇園山笠行事福岡市7月上中旬
1977年日立風流物茨城県日立市4月上中旬



祝!ユネスコ世界遺産登録 知立まつり(2014.5.3 本祭り)~宮出~山町→中新町→本町→宝町→西町

車輪の付いた屋台を神社から引出して()山車(だし)祭で、神が宿る依代(よりしろ)として作られ祭礼で曳かれるようになったのが始まりで、日本全国各地に古くから伝わる。山車の大きさ・形や載っている造形物などは地域ごとに特徴がある。呼び名も「山車」「屋台」「曳山(ひきやま)」「車山(やま)」「祭車(さいしゃ)」「(ほこ)」などと違う。

行事名場所開催時期内容文化財指定年
高山祭
高山祭
岐阜県高山市春の山王祭:4月14~15日
秋の八幡祭:10月9~10日
からくり奉納が見どころ
春の山王祭:高山に春の訪れを告げる旧高山城下町南半分の氏神様日枝神社(山王様)の例祭
秋の八幡祭:高山を秋の彩りで染める、旧高山城下町北半分の氏神様桜山八幡宮の例祭

京都市の祇園祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭と並んで日本三大曳山祭の1つに数えられる。また京都市の祇園祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭と並んで日本三大美祭とされる。
高山祭屋台は「動く陽明門」とも呼ばれ国の重要有形民俗文化財である。
1979
高山祭高山祭(岐阜県高山市)

毎年開催され、4月14~15日の「春の山王祭」(12台)と10月9~10日の「秋の八幡祭」(11台)の総称。からくり奉納が見どころ
春の山王祭:高山に春の訪れを告げる旧高山城下町南半分の氏神様日枝神社(山王様)の例祭
秋の八幡祭:高山を秋の彩りで染める、旧高山城下町北半分の氏神様桜山八幡宮の例祭

京都市の祇園祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭と並んで日本三大曳山祭の1つに数えられる。また京都市の祇園祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭と並んで日本三大美祭とされる。
高山祭屋台は「動く陽明門」とも呼ばれ国の重要有形民俗文化財である。



犬山祭提灯屋台犬山祭(愛知県犬山市)

1日目を「試楽(しんがく)」、2日目を「本楽(ほんがく)」と呼ぶ。城下町であった13の(縦横の通りの1ブロック毎に下本町、中本町、魚屋町、寺内町などの名称がある)各町より車山が曳き回される。「試楽」では、車山が針綱神社へ向かい、からくりを奉納する。



その後1年分を表す365個の提灯に載せ変え、早い町内では18時30分から21時30分ごろまで提灯に火を点して町内を巡る。夜の部については「夜車山(よやま)」と呼び分けている。「本楽」は針綱神社で神事が行われ、13町の車山と共に3町(内田、坂下大本町、鵜飼町)の練り物も同神社へ集結する。









祇園祭






京都祇園祭(ぎおんまつり)(京都市)

八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは「祇園御霊会(御霊会)」と呼ばれた。京都の夏の風物詩で7月1日から1か月間にわたって行われる長い祭である。祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。
一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は山鉾が設置される時期により前祭(さきまつり)後祭(あとまつり)の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山(よいやま)」(前夜祭の意。前祭:7月14日〜16日・後祭:7月21日〜23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名。八坂神社主催の神事は「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や神輿洗(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。
祇園祭は数々の三大祭のひとつに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭、神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭)、日本三大美祭(他は前述の高山祭と秩父夜祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。
唐津くんち





唐津(からつ)くんち
(佐賀県唐津市)

乾漆で製作された巨大な曳山(ひきやま)が、笛・太鼓・鐘(かね)の囃子にあわせた曳子(ひきこ)たちの「エンヤ、エンヤ」「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声とともに、唐津市内の旧城下町を練り歩く。祭り期間中の人出は延べ50万人を超える。昭和33年(1958年)に曳山14台が佐賀県の重要有形民俗文化財に、さらに昭和55年(1980年)には「唐津くんちの曳山行事」が国の重要無形民俗文化財に指定された。豪華な漆の工芸品の曳山は、現代の制作費に換算すると1~2億円に上るといわれている。赤獅子・青獅子の曳山は大きさ3mに及ぶものがある。
くんちとは、九州北部における秋祭りに対する呼称。収穫を感謝して奉納される祭である。「おくんち」と称される場合もある。語源の説により「(御)九日」、「(御)供日」「(御)宮日」と幾つかの漢字表記がある。
佐原の大祭






佐原(さわら)の大祭
(千葉県香取市)

佐原の市街地で行われる7月の本宿祇園祭と10月の新宿秋祭りの総称。
二層構造の山車の上部(大天上)に、歴史上の人物の大人形(4~5m)や町内で藁を用いて製作した大きな飾り物を飾り付け、下段(中天上)に「佐原囃子」を演奏する下座連を乗せ、奏でながら町内衆により曳き回される。また、山車の前では手古舞の流れをくむ手踊りが披露される。飾り物の他に多くの山車の周りには彫物が巡らされ、獅子や龍、物語等を題材にしたものが彫られている。市街地を流れる小野川をはさみ東側を本宿(ほんじゅく)、西側を新宿(しんじゅく)と呼び、それぞれ別々に祭りが行われる。
本宿地区・八坂神社の祇園祭(山車10台)。7月10日以降の金土日
新宿地区・諏訪神社の秋祭り(山車14台)。10月第2土曜日を中日とする金土日
川越氷川祭・常陸國總社宮大祭とともに関東三大祭りの一つである。

                   愛知県知立市の山車  (H28.5.4 中日新聞)

知立山車

【四季のまつり】

四季ま       つ       り
ご神木
    ご神木
木落し
    木落し
;
御柱祭
長野県諏訪地方で行われる祭である。諏訪大社における最大の行事である。正式には「式年造営御柱大祭」といい、寅と申の年に行なわれる式年祭である。長野県指定無形民俗文化財。日本三大奇祭のひとつとされる。大社での開催年を中心に、全国の諏訪神社や関連神社(通称:小宮)でも同様の祭(小宮祭)が実施される。山中から御柱として樅(もみ)の大木を16本(上社本宮・前宮、下社秋宮・春宮各4本)切り出し、長野県諏訪地方の各地区の氏子の分担で4箇所の各宮まで曳行し社殿の四方に建てて神木とする勇壮な大祭である。この御柱祭りは7年目ごとに行われ、柱を更新する。氏子は、木遣りや喇叭に合わせて曳行する。正確には満6年間隔で行われる「6年に一度」だが、慣例として数え年の7年目ごとという意味で「7年に一度」「7年目」「数えで7年」などと表記される。大きくは「山出し」と「里曳き」にわかれそれぞれ4月と5月に、そして下社は上社の1週間後に行われる。諏訪地方あげての一大行事であり、これに合わせて休日を設定する企業もある。建御柱の前後に本来の式念祭といえる宝殿の造営がされるが、一般には取り上げられることが少ない。これは御柱の曳行と建立が氏子の奉仕によって行われるのに対し、宝殿の造営と遷座は諏訪大社神職が中心となり執り行われる行事のためである。起源は、平安時代以前とされる。諏訪大社は五穀豊穣、狩猟・風・水・農耕の神として古くから信仰されておりそれらを祈願するものであったと推測される。[江戸時代以降は、宝殿の造営と御柱の曳き建てが行われている。
豊年祭みこし
      みこし
田県神社 1%田県神社奉石
田県神社     田県神社奉石
豊年祭
愛知県小牧市にある神社である。式内社。旧社格は郷社。毎年3月に行なわれる豊年祭が有名である。創建の年代は不詳で、かなり古い神社である。古い土着信仰に基づく神社で、子宝と農業の信仰を結びつけた神社でもある。延喜式神名帳にある「尾張国丹羽郡 田縣神社」、貞治3年(1364年)の『尾張国内神名牒』にある「従三位上 田方天神」に比定されている。現在地は旧春日井郡なので、後に遷座したことになる。祭神は御歳神と玉姫神で、五穀豊穣と子宝の神である。社伝によれば、当地は大荒田命の邸の一部で、邸内で五穀豊穣の神である御歳神を祀っていた。玉姫は大荒田命の娘で、夫が亡くなった後に実家に帰り、父を助けて当地を開拓したので、その功を讃えて神として祀られるようになったという。境内には、男根をかたどった石などが、多数祀られている。毎年3月15日に行われる、奇祭として有名な祭事。「ほうねんさい」または「ほうねんまつり」と読み、別名「扁之古祭(へのこ祭)」ともいう。男達が「大男茎形(おおおわせがた)」と呼ばれる男根をかたどった神輿を担いで練り歩き、小ぶりな男根をかたどったものを巫女たちが抱えて練り歩く。それに触れると、「子どもを授かる」と言われている。 この祭事は、男根を「天」、女陰を「地」と見立て、「天からの恵みにより、大地が潤い、五穀豊穣となる事と子宝に恵まれる」事を祈願する祭事である。春に行われる理由は、「新しい生命の誕生」をも意味するからである。なお、少し離れた場所にある犬山市の大縣神社の豊年祭(別名「於祖々祭(おそそ祭)」)が対になっており、こちらは女陰をかたどった山車などが練り歩く。
画像の説明

画像の説明

青森ねぶた 祭
青森県青森市で8月2〜7日に開催される夏祭りであり、毎年、延べ200万人以上の観光客が訪れる。1980年に国の重要無形民俗文化財に指定された。
起源・歴史
以前、起源としてよく知られていたのはのちに征夷大将軍となる坂上田村麻呂が陸奥国の蝦夷征討(三十八年戦争・第3期)の戦場において敵を油断させておびき寄せるために大燈籠・笛・太鼓ではやし立てたことを由来とするものである。このため、青森ねぶた祭りの最優秀団体に与えられる賞として1962年に「田村麿賞」が制定された(現在では「ねぶた大賞」と名称変更されている。後述)。しかし坂上田村麻呂が現在の青森県の地で征討活動をしたとは考えられず、ねぶたの起源とされたものも田村麻呂伝説の1つと見られる。現在では、日本全国にある土着の七夕祭りや眠り流しの行事(禊祓い)が変化したものと考えるのが主流で、現在の形式のねぶた祭りの発祥は浅虫ねぶたとされている[2]。一方で、田村麻呂の側近である文室綿麻呂は史実の上で青森県まで達した可能性が高く、また青森ねぶたのみ、他の地域のねぶた・ねぷたと大きく異なる、日本の伝統音楽には他に類を見ないほどの勇壮な囃子であることから、蝦夷征伐説の可能性もなお否定できない。青森市内には妙見の大星神社(征伐軍の戦勝祈願)・幸畑地区熊野神社(蝦夷の砦「甲田丸」跡)・沢山地区の稲荷社(蝦夷トンケイ没所)等、蝦夷征伐を伝える痕跡が残っている。藩政時代や明治時代には大型の灯籠を担いで町中を練り歩く行為に対ししばしば禁止令が出された。戦時中も禁止されたが、戦況が悪化した1944年には戦意高揚の為に解禁されており、「桃太郎の鬼退治」をもじった「桃太郎のルーズヴェルト退治」(製作者は北川金三郎)といったものが製作された。戦後は逆に進駐軍の影響により西洋への敵対的な表現ができなくなり、また刀を持ったねぶたも事実上制作不能だった。進駐軍撤退後には企業がねぶた運行の主体となり、観光の側面が強くなるようになった。人形型ねぶたは元々は竹を曲げて骨組みを作り、指等の細かい部分はその上に貼った和紙に筆で描いていた。昭和30年代に北川啓三というねぶた師が針金を用いて指を1本ずつ作ったり複雑な造作のねぶたを作ったことによって、ねぶた界に革命が起こる。針金が登場した当時、一部では反発があったと言われているが、その表現性の高さから程なくして主流となった。北川によってロウソクだった内部の明かりを蛍光灯に替え、台座にバッテリーを乗せ明るく輝くねぶたを作ることに成功しより芸術性と完成度を高め、後に「ねぶたの神様」と評される。北川は既に他界しているが、現在の主流となっているねぶたの磯は北川が築いたと言える。その後、佐藤伝蔵や鹿内一生によって更にねぶたの造形性が高められ現代のねぶたの形が整った。

無形遺産(山・鉾・屋台)
日本の祭一覧
四季のまつり
動く美術館 (中日新聞 2016.7.18朝刊)