外国人の見た日本
あらためて見直そう我が日本を!

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日本に誇りと自信を

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平和の俳句(外国人)

中日新聞(2015.12.27)より転載
平和の俳句(外国人)
【日本の原風景】中日新聞(平成27年5月24日朝刊)より転載
日本の原風景


【愛知県新ロゴを発表】中日新聞(平成27年5月30日朝刊)より転載
愛知県新ロゴを発表

海外へ広がる日本食

海外へ広がる日本食(2016.1.3 中日新聞)
ここ数年、海外の「日本食レストラン」が増え、日本産の食材が注目されています。和食が2013年にユネスコの無形文化遺産に登録され、日本のアニメの食事シーンを見て日本食に興味を持つ人が増えていることも関係しているようです。
人気の日本料理


日本貿易振興機構(ジェトロ)が2012年、七つの国と地域(米国・フランス・イタリア・中国・香港・台湾・韓国)で日本料理に対する関心度や印象などについて調べたところ、多くの項目で好感度の高さが浮き彫りになった。「好きな外国料理は?」では他国を大きく引き離して1位に選ばれている。
日本とフランスは料理や味覚など類似点が非常に多く、日本の懐石料理とフランスのフルコースの料理構成。懐石料理は前菜・吸い物に始まり、刺身や焼き物などに続いて煮物・ご飯・味噌汁・香の物・果物・抹茶・和菓子といった流れですが、フランス料理もそのメニュー構成はほぼ同じ。また日本人もフランス人も多様な味を区別し受け入れることの出来る繊細な味覚を持っている点で共通しています。食の流行の発信源であるフランスが、日本食の魅力や良さを知ったことが大きな力になっています、寿司や刺身だけでなく日本のカレーライスや焼き鳥・みそ汁といった個々の味だけでなく「BENTO(弁当)」まで浸透しています。弁当は懐石料理のメニュー構成が基本になっています。  ⇒日本料理  フランス料理
日本食のランキング


従来なかなか浸透しなかった日本茶も高く評価されている。フランスにはワインをテイスティングしたり、香りを楽しむ文化がありますが、日本茶の中では普通の煎茶よりも香りが高く、まったりとしたうま味のある玉露・玄米茶・抹茶が好まれており、フレーバーティーの文化があるフランス人の嗜好だと思われる。
                                     

日本食の評価
ここ十年ぐらいでフランスの若いシェフが、昆布や鰹節を使った日本のだしやうま味に大変興味を抱き、積極的にフランス料理に生かしています。

世界が感謝!「日本のもの」

かって「経済大国」であった日本は、いまや「観光立国」を目指してインバウンドな話題で盛り上がっています。すっかり内向きになった日本ですが、実は日本発のアウトバウンドも静かに着実に世界中に拡散しています。伝統的な日本文化のみならずmade from JAPAN にも目を向けてみましょう。
以下の内容は、三笠書房知的いきかた文庫」(ニッポン再発見倶楽部)より抜粋・転載させていただきました。

分類内    容説    明
便利ファスナーファスナー
1891年アメリカで生れたが、日本の富山YKKが改良を重ね特許権を持ち世界市場を席捲している。
「エレメント(務歯(むし))」「テープ」「スライダー」の三つのパーツから構成されている。この製作には1200もの技術が必要で、金型を削る出す精度はミクロン(1/1,000mm)単位の誤差も許されない
ウオッシュレットウオッシュレット
かって日本では、便所は暗く汚いというイメージが定着していたが、持ち前の技術力と高い衛生意識によって、快適な空間へと変えた。アメリカのビデ社が開発した衛生トイレを基に、東洋陶器(現・TOTO)が温水式洗浄便座を発売し、ハイテクトイレとして大ヒットした。
ゴム草履ゴム草履
アメリカの工業デザイナー・レイバスティンが日本の草履に興味をもち、ゴム素材で商品化できないかと考えた。軒並み拒否されるなか兵庫県の「内外ゴム」が開発したのが「ビーチサンダル」で、ハワイのサーファーを中心に大ブームとなり、都市部でも支持されるようになった。
使い捨てカイロ使い捨てカイロ
菓子メーカ「ロッテ」の子会社「ロッテ電子工業」が菓子袋の中に入れ品質を長持ちさせる酸化防止剤を開発中に、鉄粉や活性炭を調合してみると化学反応で発熱することを知り、「ホカロン」が誕生した。2009年の実売数は14億9,800万箇。
紙おむつ紙おむつ
中国人が爆買いが「ユニ・チャーム」で、高機能・高品質を重視してトップシェアを獲得している。原料は納豆から作られた「納豆樹脂」(後述)であることは意外と知られていない。
安心
安全
注射針注射針
注射は痛みをともなうため辛く苦しいものである。そこで「痛くない注射針」を開発したのが、東京「岡野工業」の金型製造とプレス加工の超高度な技術力である。針の先端が左右非対象になっており、皮膚に突き刺すのではなく鋭い刃先でわずかに切る。パイプ状の金属を引き伸ばす従来の方法ではなく金属板を滑らかに丸める技術で、針穴は0.08mmと極めて細い。
一万円札 500円硬貨偽造防止技術
日本の紙幣偽造発生率はアメリカ・ドルの1/638 イギリス・ポンドの1/1,619と極めて低い。これは日本造幣局の高度な偽造防止技術によるもので、硬貨も含め世界屈指である。
点字ブロック点字ブロック
歩道や駅のプラットフォームに見られる「視覚障碍者誘導用ブロック」で日本人の考案によるもので、進路方向を示す「誘導ブロック」と危険個所を示す「警告ブロック」がある。世界統一基準化によりさらなる普及が望まれる。
内視鏡内視鏡
1950年世界に先駆けて実用化に成功したのは日本のオリンパス(旧・高千穂光学工業)の胃カメラで、世界シェア70%を占め、近年にはカプセル内視鏡にも成功した。
納豆水質浄化
  納 豆           水質浄化
水質浄化剤
独特のネバネバ感と匂いのある納豆が、水質浄化剤として発展途上国で大いに役立っている。納豆菌が発酵する過程で作られるポリグルタミン酸にカルシウム化合物を混合させた粉末1gで10リットルの水を浄化することが出来る。大阪のベンチャー企業「日本ポリグル」が開発した水質浄化剤(PGa21Ca)は、水中のゴミや大腸菌などの雑菌類、金属などの有害物質を瞬時に集めて沈殿させる。透明で無毒の上澄み水は濾過すれば飲んでも全く問題ない。輸送コストも安く、世界40ヶ国以上に輸出してBOPビジネス(貧困層支援ビジネス)として展開している。
交番所交番所
日本の治安は世界トップクラスですが、1874(明治7)年に制定さた交番制度が日本の治安維持に貢献している。外国でも「KOBAN」として国際語にもなっている。
食文化インスタントラーメン カップヌードルインスタントラーメン
日本の国民食で海外での人気もうなぎ上がりである。日清食品の創業者・安藤百福が戦後の闇市で屋台に群がる庶民を見て、気軽に食べられる即席麺を作ろうと決意し開発に取組んだ。スープ味を染み込ませた麺を乾燥させ長期保存するというもので、てんぷら揚げにヒントを得て「瞬間油熱乾燥法」を考えついた。「チキンラーメン」として発売すると、たちまち大ヒット商品となった。その後も「カップヌードル」を開発、長期保存が利き調理容易・安価なため貧困地域や災害地域でも喜ばれている。
ステンレス包丁ステンレス包丁
新潟県の吉田金属工業が製造しているステンレス和包丁「GLOBAL」は世界の一流シェフたちが絶賛する包丁である。従来の和包丁は動物性の脂や酸に弱く錆びやすいが、切れ味と耐久性を兼ね備えた包丁を目指して研究を重ね究極のステンレス包丁を完成させた。

【参考】和包丁・洋包丁の刃先
包丁の刃先
電子レンジ電子レンジ
電子レンジの心臓部「マグネトロン」という電波発振器はアメリカの軍事用レーダーとして発明された。日本の工学者・岡部金治郎が開発した分割陽極マグネトロンは効率よく安定したマイクロ波を発振でき、誘導加熱の技術が電子レンジの元となった。
炊飯器炊飯器
中国人観光客の爆買い商品の一つで、「圧力」(釜内部の圧力を上げ水の沸点を上昇させ、甘みを増したご飯を炊きあげる)・「スチーム機能」(保温の際、定期的にスチームを送ってご飯の乾燥を防ぐ)・「蒸気カット」(炊飯寺に発生する蒸気を外に漏らさず結露をしにくくする)の三つが主機能であるが、さらに高速炊き・おかゆ製造・米以外の煮炊きなどの機能もある。
うま味
うま味
うま味
従来の味覚「甘味」・「酸味」・「塩味」・「苦味」に第五の味として「うま味」が加わり、「UMAMI」として海外でも受け入れられている。昆布・鰹節・シイタケなど煮込んだダシの中に潜んでおり、東京帝大・池田菊苗博士がアミノ酸の一種であるグルタミン酸であることを発見した。舌の表面にグルタミン酸を感知する受容体が存在することがわかり、それまで欧米では他の味を引き立てる風味であると考えられていたが、独立した味であることが判明した。繊細な日本人の感性に、世界の料理人たちが驚嘆した。
ウヰスキーウヰスキー
ここ最近、日本のウヰスキーが世界で高い評価を得ている。日本の温暖な気候は、スコットランドで醸造されたウヰスキーよりも優れた熟成感を生み出し、「なめらかさ」と「バランス」が海外で大いに受けている。ドラマ「マッサン」で有名になったニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝がスコットランドでウヰスキーづくりを学び、北海道で国産ウヰスキーを完成させた。スコッチウヰスキーのようにスモーキーな香りが強いものではなく、飲み口が優しい味が外国人にも好ましく感じられるようだ。
サバ缶サバ缶
西アフリカでは「GEISHA」(芸者)という缶詰が国民食となっている。1911年に「野崎産業(現・川商フーズ)」が製造したサバの缶詰で、サバをトマトスープで煮込んだもので、現地物価からすると安くはないがコンスタントに売れ続けている。
産業産業ロボット産業ロボット
日本では1960年代後半から産業ロボットの開発が始まり、世界をリードしており出荷額50%、稼働台数20%を占める十八番である。少子高齢化や労働人口の減少が予想されることからますます期待が大きく、さらに介護用ロボット・レスキューロボット・無人探査ロボットなども開発が進むであろう。
ミニ・ベアリングミニ・ベアリング
回転運動を支え摩擦を少なくするのがベアリングですが、その極小版がミニチュア・ベアリング。日本企業の独壇場で外径22mm以下のサイズで世界シェア60%を占めている。航空機・鉄道・自動車・洗濯機・エアコン・パソコンなどの精密機械等あらゆる機械に組み込まれている。
炭素繊維炭素繊維
「夢の素材」といわれ重量は鉄の1/4、強度は10倍。アメリカの発明家エジソンが実用化したが、日本の大阪工業試験場が研究を重ね1961年ポリアクリロニトリル系の炭素繊維の基本原理を発見、日本企業が開発を開始した。3社(東レ・東邦テナックス・三菱レイヨン)で世界シェア30%
魅了ウォークマンウォークマン
ソニーのひらめきが生んだカセットテープ式携帯音楽プレーヤーで、超軽量小型ヘッドホーンを組合せた画期的な商品。後継の携帯型CDプレーヤー・MDプレーヤー・iPodの進化の呼び水となった。
鏡面研磨鏡面研磨
職人数数人の新潟県・小林工業がアップル社iPodの裏面金属部分を表面凹凸精度1/1,000mmの鏡面加工を請負った。研磨機に「バフ」いう専用布を取付け、研磨剤を塗りながら回転させて磨き上げる職人技で、その技術力は高く評価された。
プラネタリューム映像 プラネタリューム投影機
 投影映像       投影機
プラネタリューム
世界最大のプラネタリューム(名古屋市科学館「ブラザーアース」 ドーム直径35m)と最新鋭のプラネタリューム(多摩六都科学館「CHIRONⅡ」 投影恒星数:1億4,000万箇)が日本にある。CHIRONⅡを製造した五藤光学研究所は映像を重ね合わせて星空」や宇宙を自在に表現できるハイブリッド・プラネタリュームを世界で初めて開発した。
巨大水槽  日プラアクリルパネル
 巨大水槽           アクリルパネル
アクリルパネル
巨大な水槽を備えた水族館が世界各地に続々新設されている。何万トンもの水圧に耐える強度と継ぎ目のない見栄え良さを兼ね備えたアクリルパネルは、香川県の「日プラ」が製造しシェア70%を誇っている。パネルの張り合わせに使用するシリコンチューブは、香川の讃岐うどんをヒントに開発された。世界最大パネル:横幅40m 高さ8.3m
鉄碗アトム日本アニメ
日本では「オタク」と呼ばれ冷ややかな視線を浴びせられがちであるが、海外の若者にとっては「クール(カッコいい)」の代名詞的存在になっている。手塚治虫の「鉄碗アトム」がフランスへ輸出され、アメリカでテレビ放映されて人気を博した。日本アニメが世界を席巻し続けるのは、海外アニメと比べて明らかに質が違い世界各地で完全な市民権を獲得している。
初音ミク ボカロ
                   ボカロイド(拡大)
ボカロ
ヤマハが開発した画期的な音楽制作パソコンソフト「VOCALOID」は、歌詞とメロディを入力すると歌声と楽曲が合成される。これを元にクリプトン・フューチャー・メディア社から発売されたのがバーチャルシンガー・ソフト「初音(はつね)ミク」である。初音ミク人気の背景には萌え系キャラブームの影響があるが、日本古来の文楽・人形浄瑠璃の影響もあるのではないかと云われる。
養殖真珠養殖真珠
高価な天然真珠に対し、真珠王・御木本幸吉が養殖を考えアコヤ貝に陶器砕粒などの異物を入れ、失敗を繰返して真円真珠を誕生させ「ミキモトパール」は世界ブランドに成長した。
電子楽器 MIDI
                   MIDI(詳細拡大)
MIDI
机上パソコンで創る音楽「DeskTopMusic」は、日本の楽器メーカー「ローランド」の創業者・梯郁太郎が制定に尽力した「MIDI(ミディ)」のおかげだといわれている。MIDIは電子楽器同士を接続するための世界共通規格で、パソコンから電子楽器をコントロールしたり、キーボードで演奏した情報をパソコンに記録することが可能になった。
模型食品模型
外国人観光客の定番土産が日本の「模型」であるが、レストランのショーウインドーに展示されている食品サンプルも人気が高い。「バンダイ」の製造した人気アニメ「機動戦士ガンダム」のキャラクター・プラモデルの販売がその根底にあり、日本の職人気質が外国人を魅了している。
盆栽盆栽
自然の風景を切取り鉢のなかで再現するのが盆栽の醍醐味であり、日本人の心が表現されている。埼玉県さいたま市北区の盆栽町が聖地である。盆栽が世界に普及するきっかけとなったのは、1900(明治33)年のパリ万博だといわれる。世界盆栽連盟も設立され「BONSAI」も世界語として立派に通用する。
和紙 和紙の手漉き
     和 紙      伝統的な紙漉き器
和紙
柔らかい風合いと温もりを持つ和紙は、伝統的に障子・襖・傘・扇子などの素材として使われたきた。原料になるコウゾやミツマタなどの木皮を叩いて繊維状にして、トロロアオイやノリウツギの根から抽出した粘液を加えて漉いて作る。ヨーロッパの図書館・博物館・美術館で文化財の修復作業に用られている。
インフラ鉄道システム 鉄道ダイヤ
鉄道システム(拡大)
鉄道システム
日本の鉄道はダイヤどおりに運行することは当たり前で、JRでは1分以上を遅れとみなすが、フランスやドイツでは15分以内の遅れは定時運行の範囲内とされる。この基準からも日本の鉄道の正確性がうかがえる。いわゆる「分刻み定時運行」を支えているのは高い技術力によるもので、世界各国から大いに注目されている。
新幹線新幹線
日本の新幹線は安全性と定時運行性では他国の追随を許さない。専用線路を使い「自動列車制御装置(ATC)」や「早期地震検知システム(地震の初期微動P波を検知)」を導入して、1時間あたり14本・最短3~4分間隔での運行で、平均遅延時間0.6分の驚異的な定時運行が出来る。
エレベーターエレベーター
新興国を中心に高層ビルの建設ラッシュが起こっており、その昇降には超高速エレベーターが欠かせない。2016年に中国・広州に完成予定のCTFフィナンシャルセンターの超高速エレベーター(日立製作所)は速度1,200m/分で、停止位置精度はもちろん防音・室内減圧・スムーズ性・地震対策など最先端技術が詰込まれている。
水道システム
水道システム(拡大)
水道システム
日本の水道技術の牽引役は東京都などが出資する第三セクターの「東京水道サービス」で、約1,300万人に水を供給する世界最大規模のシステムであり、埋設水道管の総延長は地球半周分にも上る。培われた技術力は並大抵ではなく、漏水検査とともに分刻みの圧力調整・徹底した使用量検針システムが適用されている。
ハードロックナット 鳥居の楔
ハードロックナット(拡大)     鳥居のくさび
ハードロックナット
通常、ナットは長い年月を経るうちに振動などで緩んでしまう。この常識を覆したのがハードロックナットである。この製品の誕生のきっかけは、神社の鳥居に打込んである(くさび)にある。上下のナットのジョイント部分を凹凸にして噛ませるダブルナットに止まらず、下の凸ナットの先端形状を偏芯構造にした。その結果、上の凹ナットを締めるとボルトに押付ける力が働き、緩みが止まる。
免震ゴム
免震ゴム(拡大)
耐(免)震ゴム
地震大国の日本では、さまざまな耐震技術が開発されてきたが、近年は「免震」技術が注目を集めている。世界一のタイヤメーカー「ブリジストン」が海外への売り込みを展開している。構造は薄いゴムと鋼板を幾重にも交互に積み重ねたもので、上からの建物の荷重に耐え、さらに横揺れを吸収できる仕組みになっている。
LEDLED発光原理
LED発光原理(拡大)三原色
LED技術
日本語では「発光ダイオード」といい、電気を通すことで光を放つ半導体のこと。LED電球は電気を直接光に変えるため消費電力が格段に少なく、また白熱電球と比べて二酸化炭素の排出量が80%近く削減され、ほとんど熱を出さない。世界シェアのほぼすべてを日本企業が占める。光の三原色(赤・緑・青)のうち、不可能と云われた青色LEDを開発し出せる。
未来iPS細胞iPS細胞
iPS細胞が開発されるまで再生医療の現場では、受精卵が細胞分裂によって分かれ始めた初期細胞を取出し培養する「ES細胞(胚性幹細胞)」の研究が主流だった。し用せずにES細胞と似た細胞を作りうと考え、すでに皮膚などになった細胞を元の真っ新な状態の細胞に戻す初期化するアイデアを思いついた。しかし初期化を促す遺伝子を探し出すのは至難の技であった。再生治療・病気原因解明のほか新薬開発にも威力を発かし新たに生まれてくる生命の犠牲を伴うとの懸念を示す声も上がっていた。ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授は、ES細胞を使揮するだろう。
スーパーカミオカンデ
カミオカンデ(拡大)
カミオカンデ内部 光センサー
カミオカンデ
岐阜県北部の神岡鉱山内の地下1,000mに宇宙の謎を解く巨大な最先端施設が存在する。この施設は、宇宙から飛来するニュートリノ(極めて小さい素粒子)を検出するために使われる。ニュートリノ(1,000/cm2)で1,000兆箇/secで通り抜けるが、50億箇に1箇くらいが物質と衝突してかすかな光を出す)を捉えると宇宙構成物質や謎が解ってくる。ノーベル賞を受賞した小柴昌俊博士が考案したのがプロトタイプのカミオカンデである。直径・深さとも40mの円筒形水槽に5万の超純水が満たされ、水槽壁内面には光電子増倍管センサーがびっしりと取付けられている。現在は「スーパーカミオカンデ」から「ハイパーカミオカンデ」へと建設が進められている。
燃料電池自動車
燃料電池自動車(拡大)
燃料電池自動車
世界的にCO2(二酸化炭素)の排出規制が厳しくなり、次世代エネルギー自動車への期待が高まっている。そうしたなか水素(H2))をチャージして走る燃料電池自動車(FCV)が話題をさらっている。従来の電気自動車よりエネルギー効率が高く走行距離が長い。普及のカギは水素の補充を行なう水素ステーションの整備である。
納豆樹脂
納豆樹脂(拡大)
納豆樹脂
納豆のネバネバが水質浄化剤として用いれられていることは先に紹介したが、もう一つ意外な効用がある。ネバネバ成分のポリグルタミン酸に放射線を当てるとゼリーのようなゲル状になり、乾燥させると白い粉末状の「納豆樹脂」ができる。納豆樹脂は吸収力が非常に高く、樹脂自体の重さの5,000倍もの貯水能力がある。畑に蒔いておくと稲が育ち、ヘドロに混ぜ種を植えると砂漠や荒れ地でも芽が出てくる。またさまざまな形に加工しやすく、最後は土に還るといった特徴もある。九州大学の原敏夫准教授はこの特徴に目をつけ、納豆樹脂で砂漠を緑化するという壮大なプロジェクトを開始した。先ず納豆樹脂から紙オムツを作り、次に水分を吸収させた紙オムツを砂漠に埋め水分を確保すると緑化しやすくなる。紙オムツは微生物に分解されやすく、土に埋めると最後は消えて無くなるのでゴミ問題を考えなくてすむ。日本の伝統食である納豆が地球環境を救う日も近い。


オールドジャパン(Old Japan)

来日外国人による開国期(江戸幕末・明治時代)の日本仰天観察記
以下の内容は、三笠書房知的いきかた文庫」(ニッポン再発見倶楽部)より抜粋・転載させていただきました。

分類内容評                 価
シンボル画像表     記  ( すばらしい とまどい よくない )
自然
街・村
気候四季日本は四季の移り変わりがはっきりしている。幕末明治期に来日した西洋人は、その豊かさに驚嘆している。日本人の自然に対する愛着が、凡庸な詩歌をも優れた詩歌へ昇華させているという。

秋の群葉な色彩はたいへん素晴らしい (ロバート・フォーチュン 「幕末日本探訪記」)
豊かな緑色に被われた山や平地に細分化されている (ロングフェロー「日本滞在記」)
自然に対する愛着が強く、それが皆の間に広まっている民族 (ウェストン「明治見聞記」)
日本の詩歌は、自然を描写する印象主義の産物である (同上書)
その季節の花が見頃になったとき、眺め喜びを味わう目的で国民が花見に出かける (同上書)
上下水道江戸上下水路
江戸上水路(拡大)江戸配水管江戸配水管(拡大)
現在の日本は世界有数の水道先進国であるが、近代以前は違っていた。

家庭からの排水は、近くの汚水溜に流れ込み、汚水が浸透するので地下水も汚染している
                 (リチャード・ヘンリー・プラントン 「お雇い外国人が見た近代日本」)
     しかし、世界一の大都会だった江戸は、上水道がかなり発達していたのだ
    徳川家康が江戸城を築城する際に神田川から水を引き入れ、1653年には全長43kmの
    玉川上水が完成して、江戸の地下には「木樋(もくひ)」と呼ばれる配水管が設置された
    しかし明治維新後、西洋化が進むと汚水が放流されはじめ、飲料水として使用できない
    どころか、衛生状態はどんどん悪化していった(プラントンが見た状態)

ようやくヨーロッパ式の下水道が建設されたのは、1884(明治17)年のことであった
家屋日本家屋日本人は古来 恵まれた木材を利用した家屋で生活してきたが、石造りの家で暮らす西洋人には
奇異に感じられた。

この家は貸家かなと思ったくらいだった(エドワード・S・モ-ス「住まい」)
部屋を極度に静かな、かつ洗練されたものにしている (エドワード・S・モ-ス「同上書」)
この国の人々がどこ迄もあっけぱなしなのに、見る者は彼らの特異性をまざまざと印象づけられる
                              (エドワード・S・モ-ス「日本その日その日」)
地味で優雅さのある部屋の中には、我々のサロンを醜いものにしている目障りなものが無い
                                     (ジョルジュ・ブスケ「日本見聞記」)
庭園庭園江戸時代は園芸文化が大きく発展した、天下泰平で人々の生活に余裕が生まれた。

身分の高下を問わず、花好きである (ロバート・フォーチュン「幕末日本探訪記」)
日本の観葉植物は、変わった形態にして栽培しており、非常に見事である(同上書)
どの家にも小さな庭があり、丹念に手入れをしている。
                       (エドゥアルド・スエンソン「江戸幕末滞在記」)
道路網道路網
江戸時代の道路網(拡大)
江戸・大坂・京都の城下町をつなぐ五街道をつくり、脇街道網を全国にはりめぐらし宿駅を設けた。
当時 舗装技術はあったが、幕府も住民も経験的にあえて舗装しなかった。

乾いた堅い道路など、昔の日本では考えも及ばなかった(リチャード・ヘンリー・プラントン)
旅人の到着前には箒で掃き、汚物や馬糞を取り払い、暑い時期には水を撒き散らす
                       (カール・ペーター・ツェンベリー「江戸参府随行記」)
上り旅人は左側、下り旅人は右側を行く配慮をするまでに及んでいる (「同上書」)
乗り物駕籠人力車ヨーロッパでは馬車が使われていたが、日本ではせいぜい、牛の引く荷車や大八車が使われていた。

【駕籠】
金持ちは、四方に(すだれ)(とばり)がかかった「ノリモン」、下層階級は単純な構造の「カンガ」に乗っていた
外国人の評価も二分( )されている
脚を折り曲げてあぐらをかくので、身動きができない (エドゥアルド・スエンソン「江戸幕末滞在記」)
いつバランスを崩して外へ放り出されるか不安であった (「同上書」)
慣れれば極めて乗り心地が良く、優秀な苦力(クーリー)(担ぎ手)にあたれば本さえ読むことができる
                                     (ロングフェロー「日本滞在記」)
【人力車】
江戸から明治になると、文明開化を象徴するハイカラな乗り物とみなされるようになった。
狭い道を全速力で走っていくと人々が我々に、かって見た扇子に描かれた絵を思いおこさせた
                               (エドワード・S・モ-ス「日本その日その日」)
仕組
制度
権力者朝廷・幕府
朝廷と幕府(拡大)
江戸時代に日本を訪れた外国人たちは、「天皇」と「将軍」という二人の大君(たいくん)がいることを知って
混乱した。

天皇と将軍を取り違えた ⇒ ウィリアム・アダム(三浦按針)
二人の主権者が存在しており、天皇(朝廷)は宗教上の皇帝、将軍(幕府)は政治上の
 皇帝である      (エンゲルベルト・ケンペル「日本誌(鎖国論)」)
二人の皇帝を有する奇異な体制を持ち、世俗的な皇帝と、宗教的な皇帝である
                    (マシュー・カルプレイス・ペリー「ペリー提督日本遠征記」)
身分
制度
士農工商
身分制度(拡大)
江戸時代の日本社会は「士農工商」を基本とする厳格な身分制度が守られていた。

身分差は明確で譲ることの出来ない一線で、一貫して従順に守られている
                         (マシュー・カルプレイス・ペリー「ペリー海軍提督論文」)
忍耐強く不屈で創意工夫・進取精神の民族が、身分制度で帳消しになっている
                             (ラザフォート・オールコック 「長崎から江戸へ」)
平民が国の富をつくり出し、歳入をつくり税を支払い、貴族・武士・僧侶を支えていた
                             (ラフカディオ・ハーン・小泉八雲 「神国日本」)
鎖国交易ルート
鎖国(拡大)
江戸時代の日本は外国との交流をほとんど行っておらず、幕府は外国との通商・交通を禁止し極端に制限していた。
当時 ヨーロッパは植民地主義の時代に突入しており、アフリカ・アメリカ・アジアへの侵略を続けていた。日本は近代化が遅れた側面もあるが、平和のなかで質の高い文化を維持してきた。

日本が鎖国するのには理があり、国民は平和に幸福に暮らしている
                  (エンゲベルト・ケンペル 「日本誌」)⇒「鎖国」という言葉の誕生
日本の民族が平和的・経済的に豊かに、精神的に自由な生活を営むことができた
                             (エンゲベルト・ケンペル「日本誌(鎖国論)」)
近代化馬鹿鳥に肖像
ものまねをしているオウム
(牛肉を食べビールを飲む)
明治政府が成立した当初、日本は西洋から百年単位の遅れをとっていたといわれる。西洋化を目指して脇目もふらずに働く日本を、西洋の先進国は目を見張った。

世界最古の日刊新聞・イギリス高級紙「ザ・タイムズ」の掲載記事
  日本の発展は、人類史上最もめざましく、非常に熱心である (1873年8月28日付)
  西洋の習慣や科学を摂取・同化してスピードは大きな脅威であり、たんなる模倣ではなく
   国内における変化である (1876年5月30日付)

その一方で、近代化を急ぐあまり浮き足立った日本の様子を見過ごさなかった。
伝統ある貴重な遺産を捨て去り、前代未聞の努力をしている外国追従の惨めな姿勢は
 かえって西側世界の反発に遭った (エリザ・ルーモア・シドモア 「シドモア日本紀行」)
日本人は日本人として前進しなくてはならぬ(エドウィン・ダン 「日本における半世紀の回想」)
牛肉を食べビールを飲めば、一人前になれると思っている馬鹿な鳥(オウム)
                          (チャールズ・ワーグマン 「ワーグマン日本素描集」)
治安江戸・窃盗罪
江戸時代の窃盗罪(拡大)
日本は治安のよい国として知られ日本に来た外国人は盗みを働く者が少ないことに驚いている。

こんなに泥棒が少ないのは珍しい  (フランシスコ・ザビエル 「聖フランシスコ・ザビエル全書簡」)
法律が厳格に施行されており、泥棒がつかまると決して容赦されない (同上書)
この国ほど盗みのない国はほとんどなく、強奪はまったくなく、窃盗はごく稀に耳にするだけである
                           (カール・ペーター・ツェンベリ 「江戸参府随行記」)
正義は広く国中で順守され、裁判所では正義が守られ訴えは迅速かつ策略なしに裁決される。
                                                 (同上書)
生活入浴銭湯
行水
日本人は大の風呂好きとして知られており、身体の汚れを落とすのはもちろん、治療に用いたり(温泉)娯楽・社交の場として利用するなど、風呂に親しんできた、とくに銭湯には驚いたようだ。

東京だけでも、毎日30万人以上の人々が利用する800軒の銭湯がある
                             (アドリフ・フィッシャー「明治日本印象記」)
子・孫・曾孫など数世代にわたる丸裸の男女が一緒に混浴していたが、奇抜な見せ物だった。
                              (ロバート・フォーチュン「幕末日本探訪記」)
婦人たちが家の前や表通り向って開いた玄関先で、バスタブに入って体を洗っている。
                           (ローレンス・オリファント「エルギン卿遺日使節録」)
夜明けから日暮れまで、老若男女がいっしょに湯につかっている
                             (ハインリヒ・シュリーマン「シュリーマン旅行記」)
正座玄関・正座
正座
正座
欧米人にとって、玄関で靴を脱ぐ習慣は理解し受け入れつつも、正座は理解しがたい不思議な
姿勢だった。

相当に苦痛で、慣れるためにはただ練習以外にない(エドワード・S・モ-ス「日本人の住まい」)
双方の脚部を折り曲げて体の下に収める。臀部は両こむらと両きびすの内側の上にのっかかる
 ようになる。(同上書)
日本人でさえ数年も外国暮らしをやると、端座(正座)する生活に戻ることが、かなり苦痛のよう
 である。(同上書)
読み
書き
読み書き
江戸時代識字率江戸時代・識字率
江戸時代も識字率(拡大)
教育水準を知る指標「識字率」は数百年にわたって世界一の座を維持しており多くの外国人が驚いている。江戸時代には寺子屋が普及し、出版(木版)技術が向上し本が庶民のもとに届くようになったことも識字率アップに貢献した。

読み書きが普及していて見聞を得ることに熱心である。自国のみならず他国の地理・物質的
 進歩・歴史についても知識を持っている。
                       (マシュー・カルプレイス・ペリー「ペリー提督日本遠征記」)
日本には少なくとも自国語を読み書きできない男女はいない。(パンペリー「日本踏査紀行」)
多くの貸本屋があり、安い料金で本は借りて読める
                            (ニコライ・カーサトキン「ニコライの見た幕末日本」)
友人が集まって酒を酌み交わす時間んがあると、硯と筆が用意され歌や詩を書きつける。
                                  (イリヤ・メチニコフ「回想の明治維新」)
歯黒(はぐろ)お歯黒奈良時代頃から上流婦人の間で行われ庶民にも普及した。江戸時代以降は既婚であること
を示したり、パトロンがいる芸者のしるしとされた。現代日本人の感覚でも少し気味悪い。
外国人の目には、日本女性の厚化粧は不気味で恐ろしい習慣に映ったようである。

彼女らの容貌は、黒く染めた歯と鉛の白粉で台なしになっている。
                          (アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」)
日本の女性は鉄と酢を用いて、歯を黒くすることに努める。
                              (ルイス・フロイス「ヨーロッパ文化と日本文化」)
この習慣が夫婦の幸せに貢献することの無いように思える。
                      (マシュー・カルプレイス・ペリー「ペリー提督日本遠征記」)
おじぎぺこぺこお辞儀
ぺこぺこお辞儀
日本人の代表的な挨拶には、身分の上下・屋外か室内・立ってするか坐ってするかなどにより様々なパターンがあるものの、会ったときも別れるときも「おじぎ」をする。来日した西洋人は少なからず戸惑ったが、動作そのものより互いに何度も繰り返すことが不思議に思えたようである。

頭をひょこひょこ下げながら、どちらかがもう参ったと思うまで喋っている。
                 (ヘンリー・ティーリー(生没不詳)「日本、アムールおよび太平洋」)
おじぎを何度も繰り返しているうちに思いついたこととか、言い慣れていることだけを通訳している。
                       (フィリップ・フランツ・シーボルト「江戸参府紀行」)
Ohをゆっくり発音したような帯気音を出す。
                       (J・M・トロンソン''「Our Live in Japan」)
鼻でシューシュー音をたてながら挨拶する。
                       (R・ジェフソンとE・エルマースト「Our Live in Japan」)
丁髷(ちょんまげ)ちょんまげ挨拶と同様、西洋人の目を引いた日本の習慣で、現在の会社員のネクタイのようなもので成人男性の証で名誉と優越を表すものであった。

こめかみと後頭部にだけ長い髪を残し、一つに束ねて頭のてっぺんで白い細紐で堅く縛り、その束
 を頭にぴったりとくっつけて房の先の方を前に曲げてからもう一度細紐で縛って頭の上に固定する。
                            (バシリー・M・ゴロウニン「続・日本俘虜実記」)
隣人たる中国帝国の人々の髪型とは大いに異なっていた
                            (ハインリッヒ・シュリーマン「日本中国旅行記」)
ヨーロッパ人が顎鬚によって表す名誉と優越を日本人は後頭に結んで付けている小さな髪で表す
                            (ルイス・フロイス「ヨーロッパ文化と日本文化」)
礼儀おはようおはよう古代から、日本人は礼節を重んじる民族として、外国人から絶賛されていた。

日本国主明楽美徳に勅する。彼は礼儀の国にして神霊の(たす)ける所
                     (唐の玄宗皇帝が日本の聖武天皇へ贈った勅書「曲江集」)
  唐から日本にあてた国書としては、唐・開元23年(735)玄宗皇帝の与えたものが、中国側
  文献に残っています。玄宗の側近の張九齢が日本にあてて起草した国書は「日本国王
  主明楽美御徳(聖武天皇)に勅す、(第九次遣唐使の帰国にあたり与えられた) 」で完全な
  臣下あての形式をとる勅書です。
世界中で、礼儀で日本人に優る者はない、百姓から大名に至るまで大変礼儀正しい。
                           (エンゲベルト・ケンペル「日本誌(鎖国論)」)
道で会う人・野良で働く人・村民から、例外なく「おはよう」という気持ち良い挨拶をうけた
                             (ジョン・レディ・ブラック「ヤング・ジャパン」)
日本人の挨拶は心底から生じるもので、真の親切心に根ざすものである
                             (バジル・ホール・チェンバレン「日本事物誌」)
  バジル・ホール・チェンバレンが日本国歌「君が代」を日本語に翻訳した
親切心しんせつ
親切心
幕末明治期に来日した西洋人の多くが、日本人の温かい心や気づかいを称賛している。

根が親切心と真心は、日本の社会の下層階級全体の特徴である。
                                  (エメ・アンベール「幕末日本図絵」)
馬から下りるとき、ていねいに持ち上げてくれたり、乗るときには背中を踏み台にしてくれた。
                                  (イザベラ・バード「日本奥地紀行」)
暑くて困っているのを見て、うやうやしく扇子をもってきて一時間も扇いでくれた、料金をたずねると
 少しもいらないと言い、それは恥ずべきことだと言った。(イザベラ・バード「同上書」)

度が過ぎた親切心が、理解はしているものの我慢がならなかったこともあるようだ。
自分のほうがもっと良くやれるという、下級者側の根深い信念に基づくものである。
                             (バジル・ホール・チェンバレン「日本事物誌」)
武士道武士道
武士道の心武士道
武士道とは
中世から近世にかけて支配身分であった武士は、倫理性が高く礼儀や慎みといった美徳を、ことさら重視した。これが社会全般に広まり、日本人の礼儀正しい精神性を形成したと考えられている。

道路を避けるとき、お互いに「有難う」と言い交し、何度も「有難うございます」を繰り返す
                                        (ブルーノ・タウト「ニ社会契約が在り、「やかましい人」などは嫌われる
                                    (エドウィン・アーノルド「ジャポニカ」)
食物
服装
和食和食西洋人は日本の食事の少なさも嘆いたが、食習慣そのものに不満をもらした。

肉・牛乳・パン・バター・ジャム・コーヒー・サラダもなく、よく料理した野菜や新鮮な果物も少ない。
                            (バジル・ホール・チェンバレン「日本事物誌」)
きれいさっぱりとして油気もなく綺麗であるが、これを食べてゆかねばと思うと駄目である。
(バジル・ホール・チェンバレン「同上書」)
お米が最上最高の栄養源で、卵・魚・海老・乾豆・野菜が少々。
                            (エドゥアルド・スエンソ  ン「江戸幕末滞在記」)
米と薩摩芋と茄子と魚ばかり食って生きている。(エドワード・S・モ-ス「日本その日その日」)
肉を食べないどころか牛乳やチーズを敵視しており、牛乳は子牛に飲ませている。
                            (アドリフ・フィッシャー「明治日本印象記」
日本料理本膳料理
本膳料理
ぺりー饗応
現在の日本は世界に冠たる美食大国であるが、幕末明治期に来日した外国人には分量の少なさに納得がいかなかったようだ。

ご馳走は不条理なほど少量で、一人前がお人形さんのような食事です
                             (エリザ・ルーモア・シドモア「シドモア日本紀行」)
丸ごとの魚以外の料理はすべて可愛らしく感じが良かったが、ままごと料理のようで男の胃袋には
  適さなかった            (フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェン「日本滞在記」)
見た目の美しさや豪華さに贅をこらそうとも、日本の厨房はろくなものを生み出していない
                           (マシュー・カルプレイス・ペリー「ペリー提督日本遠征記」)
  幕府はアメリカに日本の権威を見せつける必要から、日米合計500人分の膳を用意して
  費用は2,000両(1億2,000万円)にも及んだ
宴会が終わると、いっせいに紙を取出して広げ残り物をかき集め、一緒くたにして持ち帰った
                               (マシュー・カルプレイス・ペリー「同上書」)
飲酒飲酒「日本人の悪癖」と口を揃えたのが日本の飲酒風習で、相手にしつこく勧めたり泥酔するまで飲む
ことを嫌った。

日本では非常にしつっこく勧め合うので、あるものは嘔吐し、また酔っ払う。
                          (ルイス・フロイス「ヨーロッパ文化と日本文化」))
客を厚遇し痛飲させるために、唄・笛・三味線で歓迎を示して、酣飲爛酔(かんいんらんすい)するに至る
                          (フランソワ・カロン「日本大王国史」)
江戸中は日没以降は酔っ払いの天下  (ロバート・フォーチュン「幕末日本探訪記」)
花見客は酒盛りに熱中し、お金と意識が続く限り器を空にし、買っては満たして繰り返す。
                          (エリザ・ルーモア・シドモア「シドモア日本紀行」)
和装和装
江戸の男子服装
女性の着物や浴衣姿には魅了されたようだが、武士の正装は興味深くうつり、羽織は外套 袴はズボンのように見えたようである。

幅が広くふくらんだ外套を着、ダブダブのズボンをはいているので、背丈と横幅がほとんど同じくらい
 になってしまう                  (エンゲベルト・ケンペル「江戸参府旅行日記」)
男女
子供
見合(みあい)江戸の見合現代の見合現代日本の結婚形態はさまざまで自由だ。鎌倉時代以降、武家社会を中心に見合い結婚
が始まったが恋愛結婚も続いた。ところが戦国時代から江戸時代にかけて、見合い結婚が主流になった。

個人的なところは少なく家族的な問題である (バジル・ホール・チェンバレン「日本事物誌」)
結婚適齢期になると適当な相手を見つけてやることが親の義務となる (「同上書」)
両親の命ずるままにしなければならない特に女子は意見を持つものではなかった。 (「同上書」)
(めかけ)めかけ
妻妾同居
江戸・明治期も一夫一婦制がとられていたが、夫が妾(愛人)をもつことは珍しくなかった。しかし女性の不義密通は問答無用で切り捨てられた(厳罰)。

子供ができるという条件で一妻が決まりである。
                        (ウィリアム・エリオット・グリフィス「明治日本体験記」)
夫は家系をまもり・子孫を育てるために、女を置くことが公然と認められ妻からも強く勧められる。
                              (ウィリアム・エリオット・グリフィス「同上書」)
養えるなら一人でも二人でも女を囲ってよい   (ウィリアム・エリオット・グリフィス「同上書」)
ある男と秘密に会話したというような小さな罪のために死を以て罰せられる。
                                (フランソワ・カロン「日本大王国史」)
育児子育て江戸・明治期では、日本人の子ども好き・子育て術は外国人から高い評価を得ていた。

これほど自分の子どもを可愛がる人々を見たことがない。(イザベラ・バード「日本奥地紀行」)
日本ほど子供の喜ぶ物を売る玩具屋や縁日の多い国はない。
                        (ウィリアム・エリオット・グリフィス「明治日本体験記」)
日本の大玩具店の存在は、日本人がいかに子供好きであるかを証明している。
                             (ロバート・フォーチュン「幕末日本探訪記」)
日本の子どもは11・12歳になるまでは、世界で最も幸福な子どもに違いない。
                    (チャールズ・A・ロングフェロー「ロングフェロー日本滞在記」)
仕事医者江戸の医者画像の説明日本の医学は鎖国の影響もあって世界からずいぶん遅れたいた、江戸時代の日本の医学は「後世派」・「古医方」・「蘭方・西洋医学」の三つがあった。幕末になると蘭方・西洋医学が普及して世界レベルに近づいた。当時、外国人を驚かせた医療行為は鍼灸(しんきゅう)と温泉である。

脈の測り方を知らず、15分も掛かる。  (カール・ペーター・ツェンベリー「江戸参府随行記」)
非常に奇異な施術で「鍼灸」といい、日本では有名な治療法の一つらしいが、もっと簡単かつ
 有効な方法を知りたがっているに違いない。  (ロバート・フォーチュン「幕末日本探訪記」)
職人浮世絵幕末明治期に来日した西洋人は日本の職人技をこぞって称賛した。江戸時代の日本絵画は浮世絵が中心だったが、日本人の美的センスにたいしては賛否両論だった。

油絵は濃(アーネスト・フェノロ厚豊富な色彩を誇り、日本画はおおむね軽疎淡泊だが、その湊合華麗とは無関係で
 却って妙想の妨げになることがある。サ
「美術真説」)
日本の画家は陰影や色彩の助けを借りずとも、最もあいまいで捉え難い形すら線によって表現
 することができる。(ジョサイア・コンドル「河鍋暁斎」)
二本の筆を片手で同時に使い遠近法で描く線画、これ以上ないほど正確で優れた絵。
                      (マシュー・カルブレイス・ペリー「ペリー提督日本遠征記」)
日本人は絵が大好きなようであるが、人物像はあまりにリアルで優美さや繊細さに欠ける。
                           (ハインリッヒ・シュリーマン「シュリーマン旅行記」)
音曲(おんぎょく)三味線江戸時代は日本の民族音楽が大成した時代で、鎖国が長く外国音楽がほとんど入ってこなかったため、それ以前に輸入された大陸音楽が日本的に消化され独自の音楽文化が開いた。
武家・貴族・僧侶の間で普及した雅楽や能楽、町人たちの三味線音楽、農民・漁民などが奏でた民謡など、階級ごとに音楽の種類が違った。
西洋人が下した日本の伝統音楽に対する評価は、実に惨憺たるものであった

三味線の音色にはハーモニーはなく、荒々しく耳障りなだけである。
                                 (フェリーチェ・ベトア「F・ベトア写真集」)
われわれの耳には実に調子外れの音なので、縁先に逃げ出してホットした。
                           (ローレンス・オリファント「エルギン卿遺日使節録」)
私にとって東洋の音楽は苦痛をもたらす神秘的なものです。(イザベラ・バード「日本奥地紀行」)
音調の十中の九までが調子外れで、ヨーロッパ人の耳を慣れさせるには長い年季を必要とする
 だろう。(アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」)


【おまけ】三味線は、日本人の我々には良い音色なんですがね~!?


世界が称賛!「すごい日本人」

日本の「もの」が世界的に脚光を浴び高い評価を受けていることは前述しましたが、日本の「人」も海外でその国・地域のために尽力し、いまだに現地の人から称賛されている日本人はたくさんおられます。
以下の内容は、三笠書房知的いきかた文庫」(ニッポン再発見倶楽部)より抜粋・転載させていただきました。

すごさ肖    像シンボル画像説    明
救った杉原千畝杉原千畝
発給ビザ

レリーフ
顕彰碑(早稲田大学)
杉原千畝(すぎはらちうね) 「命のビザ」を発給
第二次世界大戦中、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人の難民に「命のビザ」を発給して6,000人もの命を救った外交官である。
ヨーロッパ情勢が切迫するなか、汚れた格好で疲れ切った様子の群衆が日本領事館を取り囲んでいた。彼らはナチスの迫害を逃れて隣国のポーランドから命からがら逃げてきたユダヤ人の難民たちだった。ソ連を経由して日本に渡り安全な第三国に向いたいので、ビザ発給を求めにやってきたのだ。
杉原は「人道上、拒否できない」と判断、特別扱いでのビザ発給を求める電報を日本に打電したが、当時の日本はドイツとの同盟締結を進めており拒否された。
しかし杉原は職を賭してでも、この人たちを救わねばならないと決意し即座に行動に移した。約一ヶ月間、不眠不休でビザを書き続けた。
帰国後、日本外務省は彼を解雇したが、イスラエル政府は勲章を授け、母校・早稲田大学には「外交官としてではなく、人間として当然の正しい決断をした」という言葉が刻れた碑(レリーフ)が建っている。
野口英世梅毒
梅毒(病原菌:スピロヘータ)黄熱病
黄熱病(病原体:レプトスピラ)記念切手
生誕120年記念切手(ガーナ)
野口英世(のぐちひでよ)  地球規模で人類を救った
西アフリカ・ガーナと日本は特別な友好関係を築いている。ガーナだけでなくアフリカや中南米の熱帯地域に暮らす人々はみな、野口に感謝している。
幼い頃に大やけどが手術で治ったことから医師を志したといわれる、医師資格の取得後アメリカ・ロックフェラー研究所に籍を置き寝食を惜しんで顕微鏡を覗き研究に没頭し「野口はいつ眠るのか!?」と驚かれたという、他の研究者と違ったのは類い稀な洞察力と粘り強さをもっていたことだろう。当初の研究は「梅毒」であったが、次に取り組んだのは「黄熱病」であった、ガーナでの研究のさなかに野口自身が黄熱病に感染し、51才で異国の地で生涯を閉じた。
終焉地ガーナには「野口記念医学研究所」が設立され、ロックフェラー大学にも胸像が置かれている。

  野口記念医学研究所  ロックフェラー大学にも胸像
    野口記念医学研究所   ロックフェラー大学胸像
【野口英世語録より】
自分のやりたいことを一所懸命にやり、それで人を助けることができれば幸せだ。
北里柴三郎
ニックネーム
ドンネル先生(雷親父)
破傷風
北里研究所
設立当初の北里研究所
北里大学
 北里大学
北里柴三郎(きたざとしばさぶろう) 日本細菌学の父
最大の功績は、抗毒素を発見して血清療法を生み出し世界の近代医療のあり方を変えたことである。現代も癌治療薬などの多くが抗体医薬であり、その偉大さがわかる。
幼少期には武士に憧れていたが両親が許さず、嫌がっていた医学校に入学させられた、熊本医学校から東京医学校を経て内務省衛生局に就職、ドイツ・ベルリン大学で細菌学の世界的権威・コッホに師事して破傷風の研究に取組んだ、破傷風は菌そのものでなく菌が生み出す毒に問題があると考え破傷風菌毒素の研究にとりかかり、予想は見事に的中した。その後血清療法をジフテリアに応用、ノーベル賞候補者に挙がった。
帰国後、ペスト菌の発見や私費を投じて北里研究所を設立したりした、野口英世・志賀潔・秦佐八郎・大村智といった偉大な後進たちが輩出されている。
2015(平成27)年には北里大学の大村智特別栄誉教授がノーベル賞を受賞した。
ノーベル賞を受賞
ノーベル生理学・医学賞を受賞
殉難将士慰霊碑
殉難将士慰霊碑
姉妹都市メルシンに同じ碑が建っている。
串本町とトルコ大使館共催の慰霊祭が五年ごとに行われており小さな村の人々の献身が日本とトルコの架け橋になっている。
オスマン帝国海軍「エルトゥールル号」
遭難船「エルトゥールル号」
座礁現場
座礁現場(船甲羅(ふなごうら)
串本の人々 トルコ軍艦「エルトゥールル号」海難事故の救助
トルコ人は、日本人だとわかると驚くほど親切にしてくれる。何故か?
それは和歌山県串本町(旧・大島村)の人々の献身によるところが大きい。1890(明治23)年、オスマン帝国(トルコの前身)の皇帝アブデュル・ハミト二世(左写真)は軍艦「エルトゥールル号」に親善使節団を乗せ日本にやってきた。明治天皇との拝謁を果たすと横浜港から帰国の途についたが、台風に遭い和歌山県沖の樫野崎灯台近くの岩礁に乗り上げ沈没した。この海難事故は587人もの死者を出す大惨事となったが、69人の乗組員は村人たちの懸命の尽力で助けられ日本軍艦でイスタンブールまで送り届けられた。
1985(昭和60)年、トルコの人々は思わぬかたちでエルトゥールル号海難事故の恩返しをしてくれた。イラン・イラク戦争が始まり、イラン在住の日本人を急遽脱出させるためにトルコ航空機が飛来した。100年以上たっても、トルコの人々は樫野崎での出来事を忘れていなかった。
変えた鈴木大拙英訳書・禅(ZEN)
英訳書・禅(ZEN)
大拙掛け軸
大拙掛け軸
鈴木大拙(すずきだいせつ)  世界に禅(ZEN)を普及
坐禅
只管打坐(しかんたざ)
日本に伝わる大乗仏教の一派「禅(禅宗)」は、東洋だけでなく「ZEN」として世界に広まっている。この普及に貢献した仏教者が釈宗演とともに鈴木大拙である。27才でアメリカに渡り、宗教学者・ポールケラスに師事して東洋哲学や仏教古典の英訳に携わる一方、「大乗起信論」の英訳・英文「大乗仏教概論」の刊行など多くの業績を挙げた。著書「禅と日本文化」(左図上)は独自の手法で、禅の世界を西洋人の感性に強く訴えた。もともと禅は坐禅などの修行を通して悟りを得ようとする教えで始祖達摩(だるま)大師は不立文字(ふりゅうもんじ)、つまり釈迦の真の教えは心から心へと直接伝えるもので、言語化できないと云われている。
しかし大拙は「普及には思想が必要」とし言葉を重視した。道元禅師にも匹敵すると称える学者もおり、その功績は偉大である。


間宮林蔵伊能忠敬 伊能忠敬間宮海峡宗谷岬
間宮林蔵の像
(日本最北端:稚内市宗谷岬)
間宮林蔵(まみやりんぞう) 「樺太は島」 江戸時代の探検家
世界地図上にただ一ヶ所だけ日本人名のついた場所がある、樺太(サハリン)とシベリアの間の間宮海峡。江戸時代末期まで、この辺りの地形は判らずヨーロッパの探検家が調査を試みたが、厳しい自然環境に遮られて断念せざるを得なかった。そうしたなか、彼は10年以上の歳月をかけ蝦夷地全域を探検・調査した。最初は松田伝十郎の従者として樺太探検に出て樺太がおおむね島であることを知ったが、翌年には単身で再探検に出向いた。過酷な調査を続け遂に、樺太北端のナニオーに到達して衝撃の光景を目にした。ナニオーから北は果てしない海が広がっており、樺太が島であることを確認・証明した瞬間だった。
彼の偉業は探検に止まらず、伊能忠敬(いのうただたか)から学んだ測量技術で地図を完成させた。
ロシアの探検家クルーゼンシュテルン提督は、間宮の「北蝦夷図説」を見て ”われ日本人に敗れたり” と脱帽したという。


浅野七之助救援物資
ララ物資ララ物資(新聞記事)
ララ物資(新聞記事)ララ物資
陛下に謁見する浅野氏
浅野七之助 ララ物資 祖国日本の窮状を救う
敗戦で荒廃した日本は衣食住が不足し困窮の極みにあった、とくに食料不足は深刻で栄養失調にあえいでいた。その極限状態を救ったのが、アメリカから届けられたララ物資だった。
ララ(LARA)とはLicensedAgencies for ReliefinAsia(アジア救援公認団体)の略称。この団体通じて昭和21年から52年まで、約400億円相当の物資が日本に届けられた。
このララ物資は、祖国の窮状を救おうと浅野七之助という在米邦人の呼びかけをきっかけで始まったものだったのである。
浅野は新聞記者としてアメリカに渡り日系人の権利擁護のため論陣を張り、戦時期は強制収容所送りにされるなど苦しい立場に追いやられた。終戦後の祖国の窮状に心を痛め、同胞を救おうと立ち上った、昭和21年「日本難民救済会」を設立し募金活動を開始、メディアを動かすことが必要と「日米時事」を発行し、南米の在外邦人にも募金を呼びかけた。こうした日系人の祖国への思いはララ物資として昭和21年12月に第一陣が日本に届けられ、学校給食がはじまった。配分は孤児院・福祉施設など68,057ヶ所14,176,085人に達し多くの日本人が救われた。
昭和61年に作家・上坂冬子によって浅野七之助とララ物資の存在が紹介され、アメリカではその功績が認められ昭和62年にサンフランシスコ市・カリフォルニヤ州より表彰され浅野七之助デーに制定されている。
驚かせた聖徳太子法隆寺
  法隆寺十七条憲法
十七条憲法
聖徳太子(しょうとくたいし) 和の先覚者
2011(平成23)年3月11日、東日本大震災により日本は未曽有の危機に陥った。しかしその後の日本人の振る舞いが、世界中で驚きと称賛で報じられた。それは「和」を重んじた聖徳太子に由来するのではないかとも云われた。十七条憲法には仏教のみならず神道・儒教・法家など当時の東アジアの学問の粋が盛り込められており、国際化が急速に進む現代において、文化・生活習慣・宗教などが異なる人々の存在を認め理解・尊重することが平和への道となる、太子の驚くべき先見性である。戦争放棄を宣言している日本国憲法九条にも通じる和の精神を、いま改めて見直すべきであろう。
新渡戸稲造英文著書「BUSHIDO」五千円紙幣新渡戸稲造(にとべいなぞう) 武士道精神を発揮した日本の顔
大きな功績は国際連盟事務次長などを歴任して国際親善に尽し、「東洋の野蛮な島国」という西洋人の日本・日本人観を変えた。幼少時から頭脳明晰で札幌農学校を経て東京帝大を自主退学してアメリカに留学、農政学・経済学を学びキリスト教に入信、メアリー婦人と結婚。帰国して札幌農学校・京都帝大・東京帝大の教授をへて東京女子大学の学長に就任、国際連盟事務次長に選出された。国連では「太平洋の架け橋」になることを願い、世界平和を唱えながら七年間働いた。新渡戸は日本人の根底にあるのは「」「」「」「」「」の武士の精神だと考え、著書「BUSHIDO」(左図)を刊行した。当時の米国大統領ルーズベルトも武士道の心酔者である。
堀越二郎ゼロ戦闘機
ゼロ戦
(A6M零式艦上戦闘機)YS-11
戦後国産初の旅客機
(YS-11型プロペラ機)


MRJ ⇒ MRJ
国産初の小型ジェット旅客機
堀越二郎(ほりこしじろう) 驚異の戦闘機「ZERO」を設計
太平洋戦争初期に活躍した日本海軍の零戦(れいせん)(ゼロ戦)は格闘性能に優れ航続距離も長い世界最強の戦闘機で、連合国軍は震え上がる一方で美しいフォルムに見とれたといわれる。これを設計したのが、ジブリ映画「風立ちぬ」の主人公・堀越二郎である。
東京帝大工学部航空学科を首席で卒業し三菱内燃機製造(現・三菱航空機)に入社、20台の若さで戦闘機開発の設計主務者となる。「七試艦上戦闘機」「九試単座戦闘機」「九六式艦上戦闘機」を設計、海軍は不可能としか思えない途方な戦闘機の設計を依頼してきた、常識では速力・航続力・格闘性能は矛盾するが、これを一気に大幅に引き上げろという要求である。
追い込まれた堀越は考えに考え、新素材アルミニューム合金ESDを用い徹底した軽量化などを行い昭和15年に完成にこぎつけた。戦争の中盤以降は連合国側も新戦法を開発してきたため零戦は弱点を露呈して苦戦を強いられ、特攻機として用いられたりもした。しかし戦後も零戦への評価は揺らぐことはなかった。
戦後、国産初の旅客機YS-11を手がけて引退した。
間もなく国産初のジェット小型旅客機MRJ(三菱航空機)が就航予定。
導いた上杉鷹山なせば成るなさねば成らぬ何事も
ならぬは人の なさぬなりけり

なせば成る
 上杉神社の記念碑
上杉鷹山(うえすぎようざん) 「なせば成る」
米沢九代藩主・上杉鷹山(治憲(はるのり))の有名な格言である。
上杉謙信を祖とする家柄だが、関ケ原戦で減封され領地も越後から米沢へ移封された。17才で家督を継いだ頃には藩財政は逼迫状態であったが、鷹山は藩政改革に打って出る。大倹約令を発布し農政改革や産業振興にも力を注ぎ、謙信と並ぶ名君として後世に語り継がれる。J・Fケネディ大統領は鷹山を尊敬しており、就任演説で「国が何をしてくれるかではなく、自分が国のために何ができるかだ」と引用したといわれる。平成26年には娘のキャロライン駐日大使が、これを明かし米沢市の「なせば成る秋まつり」で日本語でスピーチした。
中浜万次郎
1880(明治13)年 53才頃
万次郎漂流地
漂流地(伊豆諸島・鳥島)

使節団
日米修好通商条約批准書交換使節団
中浜万次郎 困難を乗り越えた人
ジョン万次郎は幕末、日本の鎖国時代に単身アメリカに渡り、後に帰国した唯一の人物。土佐の漁師の家に生まれ、9才で父を亡くし漁船にのり仕事をはじめたが14才の時、船が遭難し数日間の漂流ののち無人島(伊豆諸島・鳥島)に漂着した。143日目にアメリカ捕鯨船「ジョン・ホーランド号」に救出され、万次郎の懇願でアメリカへ渡ることになり、船名にちなんで「ジョン・マン」と呼ばれた。異国での生活に苦労しながら数学・航海術・測量術などを学んだ。
やがて成人し24才で死を覚悟の帰国を決意、商船で琉球(沖縄)に上陸し薩摩藩や長崎奉行所での尋問を経て帰国を許可されその後、激動の人生を歩む。
ペリー来航で風雲急下の幕府は、海外知識豊富な万次郎を直参旗本として召し抱えた。日米修好通商条約批准書交換使節団の一人として勝海舟・福沢諭吉らと共に臨海丸に乗り込んだ。
今村 均インドネシア
インドネシア国インドネシアの独立
インドネシアの独立

スカルノ マッカーサー
スカルノ  マッカーサー
今村 均(いまむら ひとし) インドネシアを独立させた聖将
インドネシアは長い間オランダの植民地支配を受け苦汁を舐めさせられていた。そのインドネシアをオランダから解放したのが日本の陸軍大将・今村 均である。
陸軍大学を首席で卒業、「聖書」「歎異抄(たんにしょう)」を携えて戦地に赴くほど信心深く人格者であった。オランダ領東インド(蘭印(らんいん)・現在のインドネシア)攻略軍司令官に就任、短期間でオランダ軍を降伏させ占領した。軍政は武力統治を嫌い穏やかな統治を行ない、政治犯として投獄されていたスカルノを開放し「あなたの政治的信念に従って行動して下さい」と話したという、行政諮問院を設けインドネシア側10人・日本側5人で行政を推し進めた。日本の敗戦後、戦犯として死刑を言い渡されそうになったが、インドネシア人の訴えで10年の実刑判決となりジャカルタ収容所から巣鴨拘置所に移された。
当時の部下が酷暑のマヌス島に収監されているのを知ると「自分もマヌス島に送ってくれ」と懇願し、GHQのマッカーサー司令官は「これこそ真の武士道だ」と感激、今村をマヌス島に移送した。
身内はもちろん外国人にも常に敬意を払い人道的に振る舞い続けた「聖将」の所以(ゆえん)である。
魅了した葛飾北斎
79歳頃の自画像
赤富士
凱風快晴(富嶽三十六景)富嶽
駿州江尻(富嶽三十六景)美人画
美人図
北斎漫画
北斎漫画の一部
葛飾北斎(かつしかほくさい) 「Cool Japan」の元祖
19世紀中頃から20世紀初頭にかけて、欧米で「ジャポニズム」と呼ばれるムーブメントが起こった。1867(慶応3)年のパリ万博をきっかけに日本の伝統美術や工芸が注目され、あらゆる分野のヨーロッパ芸術家に大きな影響を与えた、そのきっかけは江戸時代末の浮世絵師・葛飾北斎である。
19才で役者絵の勝川春草に弟子入りし、師が亡くなると「宗理」の名で町絵師として活動、3年後「北斎」を名乗りはじめ40代後半から売れっ子になる、50代で葛飾派を形成、60代では波乱の人生が続くが70代で浮世絵師として絶頂期を迎え富嶽三十六景は、この頃の作品である。
北斎が欧米で評価された大きな理由は、①典型的な日本を描いたこと ②構図や技法が斬新なこと である。欧米人が最初に出会ったのが北斎漫画という絵手本だった。影響を受けた有名画家はマネ・ゴッホ・ドガ・リビエールなど。

神奈川沖浪裏  星月夜
  北斎「神奈川沖浪裏」      ゴッホ「星月夜」


千利休

茶室



死の前日に作った遺偈(ゆいげ)
人生七十 力囲希咄
吾這寶剣 祖佛共殺
提ル我得具足の一ッ太刀
今此時ぞ天に抛
千利休(せんのりきゅう) 乱世の茶人
海外観光客より日本の「おもてなし」が脚光を浴びている。客人に対して心を込めて接することが、日本人の美徳の原点ともいわれる。
おもてなしの精神は、茶道と深く係っている。利休は若い頃から町衆の間で流行していた茶の湯に親しみ武野紹鷗に師事して茶を学び、今井宗久・津田宗及と共に天下三宗匠と称せられた。織田信長・豊臣秀吉に仕え、正親町(おおぎまち)天皇より「利休」の居士号を勅賜された。利休の茶の湯の特徴は人間関係や精神性を重視した「一期一会(いちごいちえ)」の精神である。秀吉の逆鱗に触れ切腹を命じられた。

利休が死の前日に作ったとされる遺偈が残っている。
   じんせいしちじゅう りきいきとつ
   わがこのほうけん そぶつともにころす
   ひっさぐルわがえぐそくのひとツたち
   いまこのときぞてんになげうつ
黒澤 明羅生門復元模型
復元模型(京都文化博物館)
------------------------------七人の侍

荒野の七人
------------------------------
用心棒
荒野の用心棒
黒澤 明(くろさわ あきら) 映画監督「世界のクロサワ」
幼少期から映画が好きだったが画家を志望しており18才のとき二科展入選を果たすものの、断念して「PCL映画製作所」の助監督募集に100倍の難関を突破して入社、主に山本嘉次郎監督の下で映画製作の基礎を学んだ。黒澤の名を一気に高めた作品が芥川龍之介原作羅生門である、難解な内容で国内より海外で大きな反響を呼びベネチュア国際映画祭でグランプリに輝いた。その後、「生きる」「七人の侍」「蜘蛛巣城」「隠し砦の三悪人」「用心棒」「天国と地獄」「赤ひげ」「デルス・ウザーラ」「影武者」などの名作を世に出しいくつもの賞を獲得、「羅生門」はアメリカ・アカデミー最優秀外国語映画賞も受賞し世界中が黒澤映画の虜になった。
世界中の映画監督に与えた影響も計り知れない、「七人の侍」⇒ アメリカ西部劇「荒野の七人」・「用心棒」⇒ イタリア西部劇「荒野の用心棒」など。
S・スピルバーグ監督は「その斬新な映像感覚、息もつかせぬストーリー展開の妙などで、さまざまな映画人にシェイクスピア的影響力を発揮している」と黒澤の魅力を語っている。













日本の名著

下記の内容は、「世界に愛され、評価される!日本の名著」(発行:三笠書房)より抜粋・要約し転載させていただきました。

書  名著  者あ ら す じ   内 容 要 約   解  説
枕草子(まくらのそうし)清少納言(せいしょうなごん)
清少納言
康保3年頃〈966年頃〉 - 万寿2年頃〈1025年頃〉)平安時代の女流作家、歌人。梨壺の五人の一にして著名歌人であった清原元輔(908年 - 990年)の晩年の娘。曽祖父(系譜によっては祖父)は『古今和歌集』の代表的歌人である清原深養父。兄弟姉妹に、雅楽頭為成・太宰少監致信・花山院殿上法師戒秀、および藤原理能(道綱母の兄弟)室となった女性がいる。「清少納言」は女房名で、「清」は清原姓に由来するとされているが、近い親族で少納言職を務めたものはおらず、「少納言」の由来は不明である。
【原文】(第一段)
はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほかにうち光て行くもをかし。雨など降るもをかし。
は夕暮れ。夕日の差して山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの
  連ねたるがいと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。

はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るもいとつきづきし。
  昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし。


【現代語訳】(口語訳)
は夜がほのぼのと明けようとする頃(が良い)。(日が昇るにつれて)だんだんと白んでいく、山際の辺りが少し明るくなって、紫がかっている雲が横に長く引いている様子(が良い)。
は夜(が良い)。月が出ている頃は言うまでもなく、(月が出ていない)闇夜もまた、蛍が多く飛び交っている(様子も良い)。また(たくさんではなくて)、ほんの一匹二匹が、ぼんやりと光って飛んでいくのも趣がある。雨が降るのも趣があって良い。
は夕暮れ(が良い)。夕日が差し込んで山の端にとても近くなっているときに、烏が寝床へ帰ろうとして、三羽四羽、二羽三羽と飛び急いでいる様子さえしみじみと心打たれる。ましてや雁などが隊列を組んで飛んでいるのが、(遠くに)大変小さく見えるのは、とても趣があって良い。すっかり日が落ちてから(聞こえてくる)、風の音や虫の鳴く音などは、言うまでもなく(すばらしい)。
は早朝(が良い)。雪が降った朝は言うまでもなく、(降りた)霜がとても白いときも、またそうでなくてもとても寒いときに、火などを急いでおこして、(部屋の炭びつまで)炭を運んでいくのも、たいそう(冬の朝に)ふさわしい。昼になって、生暖かく(寒さが)だんだんとやわらいでいくと、火桶に入った炭火も白い灰が多くなっているのは(見た目が)よくない。

【解説】
日本文学史上はじめて「随筆」というジャンルを拓いた画期的な作品。およそ段のなかに宮中の暮らし・自然・身の回りの物事などを記述、知的で明るく軽やかな「をかし」を全体テーマにしている。繊細な美意識・豊かな感性と表現力は、欧米の芸術家にインスピレーションを与え続けファンタジーの源泉ともいわれる。
源氏物語(げんじものがたり)紫式部(むらさきしきぶ)
紫式部
生没年不詳は、平安時代中期の女性作家、歌人。『源氏物語』の作者と考えられている。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。『小倉百人一首』にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選。屈指の学者、詩人である藤原為時の娘。藤原宣孝に嫁ぎ、一女(大弐三位)を産んだ。夫の死後、召し出されて一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えている間に、『源氏物語』を記した。他に「紫式部日記」「紫式部集」がある。
【原文】(第一部 1~33巻 光源氏の前半生:誕生~39歳)
いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。同じほど、それより下臈の更衣たちは、ましてやすからず。
【原文】(第二部 34~41巻 光源氏の後半生:39歳~52歳))
降嫁した女三の宮と柏木の密通により、若かりし頃の罪の因果応報に苦悩する光源氏の晩年を描く。
【原文】(第三部 42~54巻光源氏の死去後)
光源氏亡きあと、薫(かおる)と匂宮(におうのみや=今上帝と明石の中宮との第三皇子)を主軸にしたストーリー。世間では、薫もしくは匂宮を婿に望む親が多い。

【現代語訳】(第一部)
どの帝の御代であったか、女御や更衣が大勢お仕えなさっていたなかに、たいして高貴な身分ではない方で、きわだって御寵愛をあつめていらっしゃる方があった。最初から自分こそはと気位い高くいらっしゃった女御方は、失敬な者だと貶んだり嫉んだりなさる。同じ身分の者や、その方より下の更衣たちは、いっそう心穏やかでない。朝晩のお側仕えにつけても、他の妃方の気持ちを不愉快にばかりさせ、嫉妬を受けることが積もり積もったせいであろうか、とても病気がちになってゆき、何となく心細げに里に下がっていることが多いのを、ますますこの上なく不憫な方とおぼし召されて、誰の非難に対してもおさし控えあそばすことがおできになれず、後世の語り草にもなってしまいそうなお扱いぶりである。

【解説】
世界最古の長編小説で日本最高峰の傑作で全54巻(帖)300人以上の登場人物が帝四代・74年にわたる貴族社会を舞台にした壮大な物語。並外れた容姿と知性に恵まれた主人公・光源氏が、華やかな女性遍歴を繰り広げながらも苦悩・挫折を経て出世・栄華への道を歩む人間ドラマである。
源氏物語英訳本
海外ではほぼ全言語(英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語・スペイン語・オランダ語・ロシア語など)に翻訳されている。
方丈記(ほうじょうき)鴨長明(かものちょうめい)
鴨長明
賀茂御祖神社の神事を統率する禰宜の鴨長継の次男として京都で生まれた。高松院の愛護を受け、応保元年(1161年)従五位下に叙爵されたが、承安2年(1172年)頃に父・長継が没した後は、後ろ盾を失った。安元元年(1175年)長継の後を継いだ禰宜・鴨祐季と延暦寺との間で土地争いが発生して祐季が失脚したことから、長明は鴨祐兼とその後任を争うが、敗北してしまう。和歌を俊恵の門下として、琵琶を楽所預の中原有安に学ぶ。歌人として活躍し、歌林苑の会衆として賀茂重保撰の『月詣和歌集』に入撰し、『千載和歌集』にもよみ人知らずとして入集している。以降、石清水宮若宮社歌合、正治後度百首、新宮撰歌合、和歌所撰歌合、三体和歌、俊成卿九十賀宴、元久詩歌合などに出詠し、建仁元年(1201年)8月和歌所寄人に任命された。元久元年(1204年)かねてより望んでいた河合社(ただすのやしろ)の禰宜の職に欠員が生じたことから、長明は就任を望み後鳥羽院から推挙の内意も得る。しかし、賀茂御祖神社禰宜の鴨祐兼が長男の祐頼を推して強硬に反対したことから、長明の希望は叶わず、神職としての出世の道を閉ざされる。そのため、後鳥羽院のとりなしにも関わらず長明は出家し、東山次いで大原、のちに日野に閑居生活を行った。出家後は蓮胤(れんいん)を名乗ったが、一般には俗名を音読みした鴨長明かものちょうめい)として知られている。建暦元年(1211年)飛鳥井雅経の推挙を受けて、将軍・源実朝の和歌の師として鎌倉にも下向したが、受け入られず失敗している。
【原文】行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。

【現代語訳】河の流れは絶えることがなく、しかも、一度流れた河の水というのは、決して元と同じ水ではない。流れていない河の淀みに浮かんでいる水の泡(うたかた)も、瞬間で泡が消えたり、瞬間に泡が出来たりするが、長く同じ場所に泡が留まっている例などはない。世の中にある人間と住まいというものも、河の流れや泡の動きとまた同じようなもの(=絶えず移り変わっていく無常)である。

【解説】建暦2年(1212年)に成立した『方丈記』は和漢混淆文による文芸の祖、日本の三大随筆の一つである。他に同時期に書かれた歌論書の『無名抄』、説話の『発心集』(1216年以前成立)、歌集として『鴨長明集』(養和元年(1181年))といった作品がある。『千載和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に25首が入集している。
【方丈庵】庵の広さは方丈(約3m)四方の小さなものです。
方丈庵 
風姿花伝(ふうしかでん)世阿弥(ぜあみ)
世阿弥
世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年(1363年)? - 嘉吉3年8月8日(1443年9月1日)?)は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽(申楽とも。現在の能)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。幼名は鬼夜叉、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。正しくは「世阿彌」。
風姿花伝 (ふうしかでん、風姿華傳) は、世阿弥が記した能の理論書。世阿弥の残した21種の伝書のうち最初の作品。亡父観阿弥の教えを基に、能の修行法・心得・演技論・演出論・歴史・能の美学など世阿弥自身が会得した芸道の視点からの解釈を加えた著述になっている。成立は15世紀の初め頃。全七編あり、最初の三つが応永7年(1400年)に、残りがその後20年くらいかけて執筆・改訂されたと考えられている。「幽玄」「物真似」「花」といった芸の神髄を語る表現はここにその典拠がある。最古の能楽論の書であり、日本最古の演劇論とも言える。多くの人に読まれ始めたのは20世紀に入った明治42年(1909年)に吉田東伍が学会に発表してからで、それまでは一族の「秘伝書」として、その存在すらほとんど知られていなかった。『花伝書』の通称が用いられていた頃もあったが、後の研究の結果現在では誤称とされる。能の芸道論としても読める一方、日本の美学の古典ともいう。Kadensho、Flowering Spirit などの題名で何度か外国語訳もされ、日本国外でも評価されている。

【解説】
能(のう)は、日本の伝統芸能である能楽の一分野。江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治維新後のことである。能という語は、元々特定の芸能をさすものではなく、物真似や滑稽芸でない芸能でストーリーのあるもののことを全般に指す語であり、猿楽以外にもこれが用いられていたが、猿楽が盛んになるとともにほとんど猿楽の能の略称となった。そして1881年(明治14年)能楽社の設立を機に猿楽を能楽と改称したため能楽の能を指す語となったものであり、能楽のうち超自然的なものを題材とした歌舞劇のことで比較的高尚なものである。往々にして「能楽」と「能」を同義に用いたりする向きもあるが、誤りである。「能楽」については2008年にユネスコの無形文化遺産に登録された。
      厳島神社の能舞台            能(翁奉納) (春日神社 篠山市)
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陰影礼賛(いんえいらいさん)谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)
谷崎潤一郎

1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日)は東京生まれ、旧制第一高等学校から東京帝国大学国文科へ入学するも中退。明治43(1910)年、雑誌「新思潮」を創刊「刺青」「麒麟」などを発表し耽美的な作風で名を馳せる。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。現在においても近代日本文学を代表する小説家の一人として、評価は非常に高い。初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなどのスキャンダラスな文脈で語られることが少なくないが、その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷した。漢語や雅語から俗語や方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴。『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』『(まんじ)』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評高く、「文豪」「大谷崎(おおたにざき)」と称された。その一方、今日のミステリー・サスペンスの先駆的作品、活劇的な歴史小説、口伝・説話調の幻想譚、果てはグロテスクなブラックユーモアなど、娯楽的なジャンルにおいても多く佳作を残している。;
谷崎潤一郎の随筆。まだ電灯がなかった時代の今日と違った日本の美の感覚、生活と自然とが一体化し、真に風雅の骨髄を知っていた日本人の芸術的な感性について論じたもの。谷崎の代表的評論作品で、関西に移住した谷崎が日本の古典回帰に目覚めた時期の随筆である。西洋の文化では可能な限り部屋の隅々まで明るくし、i陰翳を消す事に執着したが、いにしえの日本ではむしろ陰翳を認め、それを利用することで陰翳の中でこそ生える芸術を作り上げたのであり、それこそが日本古来の美意識・美学の特徴だと主張する。こうした主張のもと、建築、照明、紙、食器、食べ物、化粧、能や歌舞伎の衣装の色彩など、多岐にわたって陰翳の考察がなされている。この随筆は、日本的なデザインを考える上で注目され[3]、国内だけでなく、戦後翻訳されて以降、海外の知識人や映画人にも影響を与えている。雑誌『経済往来』の1933年(昭和8年)12月号と1934年(昭和9年)1月号に連載された。単行本は1939年(昭和14年)6月に創元社より刊行された。
あらすじ
谷崎潤一郎は、1933年(昭和8年)当時の西洋近代化に邁進していた日本の生活形態の変化の中で失われていく日本人の美意識や趣味生活について以下のように語りながら、最後には文学論にも繋がる心情を綴っている。今日(明治の近代化以降)の日本では、純日本風の家屋を建てて住む場合、近代生活に必要な設備を斥けるわけにはいかず、座敷には不似合いな電線コードやスイッチを隠すのに苦慮し、扇風機の音響や電気ストーブを置くのにも調和を壊してしまう。そのため「私」(谷崎)は、高い費用をかけて、大きな囲炉裏を作り電気炭を仕込み、和風の調和を保つことに骨を折った。トイレや浴室に関しても、元々の日本の木造の風呂場や厠では、けばけばしい真っ白なタイルは合う筈もない。今も残る京都や奈良の寺院では、母屋から離れた植え込みの蔭に、掃除が行き届いた厠があり、自然の風光と一体化した風情の中で四季折々のもののあわれを感じ入りながら、朝の便通ができる。漱石先生もそうした厠で毎朝瞑想に耽ながら用を足すのを楽しみにしていた。我々日本人の祖先は、すべてのものを詩化し、不潔である場所をも却って風流で雅致のある場所に変貌させ、花鳥風月の懐かしみの連想へ誘い込むようにしていた。西洋人がそれを頭から不浄扱いに決めつけ、公衆の前で口にするのも忌むのに比べ、日本人は真に風雅の骨髄を知っていた。近代的なホテルの西洋便所など実に嫌なものである。照明や暖房器具、便器にしろ、近代文明の利器を取り入れるのにはむろん異論はないが、何故それをもう少し日本人の習慣や趣味生活に合致するように改良しないのか疑問である。行燈式の照明器具が流行るのは、我々日本人が忘れていた「紙」の温かみが再発見されたものである。もし東洋に独自の別個の科学文明や技術が発達していたならば、もっと我々の国民性に合致した物が生れ、今日の有様とは違っていたかもしれない。日本の漆器や金蒔絵の道具も、日本の「陰翳」のある家屋の中で映え、より一層の美しさを増す。我々の祖先が作った生活道具の装飾などは、そうした日本の自然の中で培ってきた美意識で成り立っており、実に精緻な考えに基づいている。日本人は陰翳の濃淡を利用し、その美を考慮に入れ建築設計していた。美は物体にあるのではなくて、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にある。日本が西洋文化の行く手に沿って歩み出した以上、日本人の趣味生活や美意識が軽んじられ薄れてゆくのは仕方がないことであるが、我々日本人に課せられた「損」は永久に背負って行くものと覚悟しなければならない。私は、日本人が既に失いつつある「陰翳の世界」を文学の領域に少しでも呼び返してみたい。壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押しこめ、無用の室内装飾を剥ぎ取り、試しに電灯を消したそんな家(文学)が一軒くらいあってもよかろうと「私」は思う。
谷崎潤一郎明  陰翳の濃淡
不安定な精神状態で放浪生活をしていた頃          陰影礼賛
金閣寺(きんかくじ)三島由紀夫(みしまゆきお)
三島由紀夫
本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)は、日本の小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者。戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたTV番組に初めて出演した日本人でもある。満年齢と昭和の年号が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い。代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『鹿鳴館』『近代能楽集』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。バルコニーでクーデターを促す演説をした後、割腹自殺を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与え、新右翼が生まれるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を及ぼした(三島事件)。また黛敏郎の作曲オペラ「金閣寺」・宮本亜門の舞台劇「金閣寺」・市川崑の映画「炎上」などがある。
金閣寺 金閣寺雪景色
鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺(きんかくじ)として知られる。相国寺の山外塔頭寺院である。寺名は開基(創設者)である室町幕府3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ。山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐。義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、昭和25年(1950年)に放火により焼失し、昭和30年(1955年)に再建された。平成6年(1994年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。
あらすじ
日本海へ突き出た成生岬の辺鄙な貧しい寺に生まれた溝口(「私」)は、僧侶である父から、金閣ほど美しいものはこの世にないと聞かされて育った。父から繰り返し聞く金閣寺の話は、常に完璧な美としての金閣であり、溝口は金閣を夢想しながら地上最高の美として思い描いていた。体も弱く、生来の吃音のため自己の意思や感情の表現がうまくできない溝口は、皆にからかわれ、極度の引っ込み思案となり、人に親しまれず、内攻したコンプレックスのために、海軍機関学校に行った先輩が持っていた美しい短剣の鞘に醜い傷をつけたこともあった。また、官能的で美しい娘・有為子に嘲られ、軽蔑されたこともあり、女と自分とのあいだに精神的な高い壁を感じ、青春期らしい明るさも恋愛もなく生きていた。やがて溝口は、病弱であった父の勧めで、父の修業時代の知人が住職を務める金閣寺に入り、修行生活を始めることとなった。金閣をまだ見ていなかった時は、金閣の美を恣に想像していたが、実物を目の前にして見てみると心象の金閣ほど美しくはなかった。しかし戦況が激化する中、金閣も自分も共に空襲で焼け死ぬかもしれない同じ運命に思いを馳せると、金閣は悲劇的な美に輝いた。溝口は、室町時代から続く金閣寺が永劫的と見られながらも、実はいつ破壊されるとも限らない、完璧で永遠の儚い美として捉え、その観念は自己の不遇と孤独の中で実際の金閣よりも遙かに強力な精神的な美として象徴化され、固定化されていた。一方、病み衰えていた父が死んでから母は、一生懸命勉強して金閣寺の住職になれと溝口に野望の火を焚きつけようとする。母はかつて、溝口が13の時のある夜、同じ蚊帳の中で父と子も寝ているそばで、親戚の男と交わっていた。目が覚めた息子の目を、父は後ろから手で目隠しをした。同じ徒弟生活で出会った同学の鶴川は、溝口と対照的な明るい青年だった。彼は溝口の吃音を馬鹿にしない唯一の友であり、溝口の心の陰画を陽画に変えてしまう存在でもあった。戦争末期のある日、二人は南禅寺の天授庵の茶室で、一人の美しい女が軍服の若い陸軍士官に茶を供しているのを見た。女は男に促され、自身の乳房から乳を鶯色の茶に注いだ。溝口はその女に有為子を重ねた。やがて、戦争が終わり、金閣と「私」(溝口)とが同じ世界に住んでいるという夢想も崩れた。金閣寺のまわりには娼婦を乗せた米兵のジープなど俗世のみだらな風俗が群がるにいたった。溝口は住職の老師の計らいで入学した大谷大学(仏教系大学)で、両足に内反足の障害をもち、ぬかるみの中を一歩一歩進むような不自由な歩行で移動し、いつも裏庭で一人離れて弁当を食べている級友・柏木と出会う。一見した柏木の障害に自分の吃音を重ね合わせ、僅かな友人を求めるべく話しかけた溝口だったが、柏木は女を扱うことにかけては詐欺師的な巧みさを持ち、障害を逆手にして高い階層の女も籠絡している男であった。障害を斜に構えつつも克服し、確信犯的に他人への心の揺さぶりを重ねることでふてぶてしく生きる柏木を、一旦感銘しながらも不自然で刺々しい生き方だと溝口は思ったが、精神的な距離を置きつつ友人となった。柏木の批評はいつも辛辣で、溝口の心の揺れや卑怯も鋭く指摘した。溝口は、そんな柏木から女を紹介されるが、女を抱こうとした時、目の前に金閣の幻影が立ち現れ、失敗に終わった。もう一人の友人の鶴川が死んだ。「事故」ということだった。溝口の孤独な生活が又はじまった。しかしそんな中でも、柏木から禅問答「南泉斬猫」を巡る彼の持論解釈を聞いたり、尺八を教えて貰うことで、まがりなりにも若い自分の人生の1ページを刻み、「外界」との通路を持つ柏木から学ぶことで「人生」を生きようとしていた。そして再び、柏木の計らいで、女を抱く機会を与えられる。その女はいつか天授庵の茶室で見たあの女だった。しかし、またしても女の乳房の前に金閣が出現し、溝口は不能に終わる。溝口は金閣に対し憎しみを抱くようになる。溝口が女の美を目の前にすると、いつも金閣が現れていたが、溝口はある日、菊の花と戯れる蜂を見ている時、自分が蜂の目になって、菊(女、官能の対象)を見るように空想する。その時、ふと、自分が蜂でなく人間の目に還ると、それはただの「菊」に変貌した。その蜂の目を離れた時こそ、自分が金閣の目をわがものにしてしまい、生(女)と自分の間に金閣が現れ、性的な自己の存在を無価値化してしまうという構造に行きつく。このように金閣(虚無)の目で見、変貌した世界では、金閣だけが形態を保持し、美を占領し、この余のものを砂塵に帰してしまうことを溝口はおぼろげながら確信してゆく。正月のある日、溝口は雑踏の中で、女(芸妓)を連れて歩く老師に偶然、行き会った。尾行されたと誤解した老師は溝口を叱咤した。しかし翌日に呼び出しもなく、溝口には釈明の機会もなかった。その後も無言の放任が続き、溝口を苦しませた。以前、溝口が米兵に命令され娼婦を踏みつけ、後で女からゆすられた時も老師はなぜか溝口を不問に附していた。溝口は老師を試そうと、愛人の芸妓の写真を、老師が読む朝刊にはさみ、憎しみを誘うことで老師との対峙を待った。自ら、後継住職になる望みを永久に失うことになるようなことをし、その一方、溝口は人間同士が理解し合う劇的な熱情の場面も夢想し、老師からゆるされ和解した自分が鶴川のような明るい感情になることさえ夢みていた。だが写真は無言で溝口の机の抽斗に戻された。これらのわだかまりが累積し、次第に溝口は学業の成績も落ち、大学も休みがちになっていった。溝口は自ら決定的に将来の望みを断ち切ってゆく。学校からの注意が老師にもいった。寺に修行に来た当初は父の縁故で老師に引き立てられ、ゆくゆくは後継にと目されていた溝口だったが、ついに老師から、もう後継にする心づもりはないとはっきり宣告された。老師は溝口に、芸妓の一件のことについても、「知っておるのがどうした」と開き直った。溝口は柏木から金を借り、寺から家出した。舞鶴湾に向かい由良川から裏日本海の荒れる海を眺め、溝口はそこで、「金閣を焼かねばならぬ」という想念の啓示に搏たれる。由良の宿で不審に思われた溝口は警官に連れられ金閣寺に戻された。息子が金閣寺住職になることに強い期待を抱いていた母は、必死に住職に謝ることで息子の将来をつなごうとあがいていた。醜く歪んだ母の顔に、溝口は「不治の希望」の醜さを見る。孤独を増す溝口に、柏木は破滅的なものを感じ、鶴川から死の直前に届いた手紙を見せる。溝口には柏木との交友を非難しながらも、鶴川は、自殺の前に柏木のみに本心を打ち明けていたのだった。鶴川は翳りのない心を持っていると認識し、信じていた溝口にそれは少なからず衝撃であった。柏木は溝口に、「この世界を変貌させるの認識だ」と説く。しかし、これに対し溝口は、「世界を変貌させるのは行為なんだ」と反駁する。溝口は、老師が訓戒を垂れる代わりに施した金で五番町の遊廓に女を買いに行った。金閣を焼こうという決心は死の準備に似ていた。万一のときのためカルチモン(催眠薬)と小刀も買った。その日が来た。その夜は、寺に福井県龍法寺の禅海和尚が来訪していた。溝口は和尚に「私を見抜いてください」と言うが、和尚は「見抜く必要はない。みんなお前の面上にあらわれておる」と答える。溝口はその言葉に、初めて空白になり、「隈なく理解された」と感じ行動の勇気が湧く。溝口は、金閣寺放火の行為の一歩手前にいた。そのとき眺めた金閣寺は、燦然ときらめく幻の金閣と、闇の中の現実の金閣が一致し、たぐいない虚無の美しさにかがやいていた。溝口は金閣寺に火を点けた。燃え盛る金閣の中で溝口は突然、究竟頂で死のうとするが扉はどうしても開かなかった。拒まれていると確実に意識した溝口は、戸外に飛び出し山の方へ駆けた。火の粉の舞う夜空を、膝を組んで眺めた溝口は煙草を喫み、ひと仕事を終え一服する人がよくそう思うように、「生きよう」と思った。
人間失格(にんげんしっかく)太宰 治(だざいおさむ)
太宰 治
1909年(明治42年)6月19日 - 1948年(昭和23年)6月13日)は、日本の小説家である。本名、津島 修治(つしま しゅうじ)。自殺未遂や薬物中毒を克服し戦前から戦後にかけて多くの作品を発表。没落した華族の女性を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称された。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』がある。
人間失格(英訳版)
GGQによる占領統治下の昭和23(1948)年、雑誌「展望」に連載された。著者・太宰 治と物語の主人公がよく似ていることに加え、最終回掲載の直前に太宰が恋人と入水自殺したおともあって大きな衝撃を与えた。日本文学研究者ドナルド・キーンの翻訳による英語版『NO LONGER HUMAN(もはや人間ではない)』が出版された。
あらすじ
『人間失格』は、語り手である小説家の男が3枚の写真を紹介する「はしがき」から始まります。写真には「見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせる」男が写っています。
第一の手記
手記の筆者である「私(=葉蔵)」の幼年期が語られます。葉蔵は、空腹という感覚がわからずに、それでいて、家に帰れば使用人たちから、おやつを勧められていました。葉蔵は、お腹が空いていないにもかかわらず、おべっかを使って「おなかが空いた」とつぶやきながらおやつを食べていました。葉蔵の中で、空腹など世の中にあるという感覚が自分自身でわからないことが、他人が何をどのように感じているのかわからないことにつながります。自分一人が何もわかっていないという恐怖におそわれ、葉蔵は、恐怖をごまかすため「道化」を演じるようになりました。葉蔵は、「内心、狂うほどの恐怖を感じ」ていましたが「何でもいいから、笑わせておれば」、自分一人が世の中の人たちからはぐれている(と感じる)ことを気にせずともよいと考えました。嫌なことも嫌と言えず、いつも内心ではおどおどして過ごしていました。しかし、東京へ行く父親からおみやげに何がほしいと聞かれた葉蔵は、いったんは「道化」を演じることをしませんでしたが、父親の不機嫌さを感じ取って、夜にこっそり父親のノートに父親がそれを自分に買い与えたがっている獅子舞の文字を記入して、「道化」を演じました。葉蔵は、父親や家族を含めた他者との関係性を放棄するようになりました。
第二の手記
家を出て中学校に通ったころと、東京で学生となって無理心中をはかり、自分だけ生き残ったことが語られます。中学でも「道化」を演じた葉蔵は、人気者になる一方で、内心ではいつ自分の「道化」がばれるのではないかとびくびくしていました。同級生の竹一が、葉蔵の「道化」に気がつきました。葉蔵が竹一を手なずけようと親切に接するという関係が生まれました。竹一が持ち込んだ画家の自画像を見て感動した葉蔵は、自画像の制作にとりかかりました。葉蔵は美術学校へ進学したかったのですが、父親の決めた官吏の道に口答えすることができずに、東京の高等学校(今でいう大学)に進学しました。葉蔵は学校へはあまり行かず、洋画家の画塾に通い、そこで堀木と知り合いました。堀木に誘われて遊び回るうちに、共産主義運動の会合に出席するようになります。カフェ(今でいるキャバクラのようなもの)の、夫が刑務所に入っている広島出身で2歳年上のツネ子と情死事件を起こしました。
第三の手記
転落が語られます。学校から追放された葉蔵は、父からつけられた男の家の二階に居候します。唯一、話ができる人間であった堀木を頼って堀木の家へ行き、そこで、甲州生まれで5つになる娘と高円寺のアパートに暮らしている雑誌社のシズ子(28歳、夫と死別して3年)と知り合い、シズ子の家に居候を始めました。葉蔵はマンガを書くようになり、シゲ子(娘)をあやすようになります。ある日、母娘の姿を垣間見た葉蔵は、「幸福なんだ、この人たちは」と思い、アパートを出ました。アパートを出て、京橋のスタンドバアのマダムの家に泊まり込むようになりました。たばこ屋の17、8歳になるヨシ子と知り合い、アパートを借りて2人で暮らし始めました。夏の夜に、葉蔵は堀木とアパートの屋上へ出て言葉遊びをしていましたが、階下ではヨシ子が編集者(?)の男に犯されていました。葉蔵は、その様子を見ましたが、助けることを忘れ、屋上へ逃げました。その日から、ヨシ子はおどおどするようになり、葉蔵はヨシ子が隠し持っていた催眠剤を飲みました。意識を取り戻した葉蔵は、モルヒネに頼りながらマンガを描いていました。薬屋の「奥さん」と関係を結ぶなどして、ついに、父親に自分の惨状を告白する長い手紙を書きました。葉蔵は、精神施設に入所します。初夏のころ、長兄が葉蔵を引き取りにきて、葉蔵は父が胃潰瘍のため死んだことを知りました。長兄のはからいで、療養生活を始めました。
五輪書(ごりんしょ)宮本武蔵(みやもとむさし)
宮本武蔵
天正12年(1584年)? - 正保2年5月19日(1645年6月13日))は、江戸時代初期の剣術家、兵法家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。また、重要文化財指定の水墨画や工芸品を残している。本姓は藤原、名字は宮本、または新免、通称は武蔵、諱は玄信(はるのぶ)である。幼名は辨助(べんのすけ)、号は二天、また二天道楽。著書『五輪書』の中では新免武蔵守・藤原玄信と名乗っている。
播磨(兵庫県)あるいは美作(岡山県)の有力豪族・新免家の家老の家にうまれたとされる。前半生は定かでないが諸国を巡って剣の鍛錬を積み「二天一流」という二刀流剣法を編み出した。巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名。晩年は熊本藩主細川家に仕え、寛永21(1644)年頃から霊巌洞にこもって五輪書を執筆した。
宮本武蔵の著した兵法書。武蔵の代表的な著作であり、剣術の奥義をまとめたといわれる。寛永20年(1643年)から死の直前の正保2年(1645年)にかけて、熊本県熊本市近郊の金峰山にある霊巌洞で執筆されたとされる。自筆本である原本は焼失したと伝えられる。写本は細川家本を始め、楠家旧蔵本・九州大学本・丸岡家本・狩野文庫本、底本不明の『劍道祕要』収録などがある。自筆本が現存せず写本間での相違も多いことや、武蔵の時代よりも後の価値観に基づく記述が多いこと、さらに同時代の文献に武蔵が五輪書を書いたと傍証できるものがないことなどから、武蔵の死後に弟子が創作したという説もある。

書名の由来は密教の五輪(五大)からで、それになぞらえて「地・水・火・風・空」の五巻に分かれる。
地の巻:兵法の道に対する基本姿勢(二天一流)
 1.よこしまになき事をおもう所
 2.道の鍛錬する所
 3.諸芸さはる所
 4.諸識の道を知事
 5.物事の損得をわきまゆる事
 6.諸事目利を仕覚る事
 7.目に見えぬをさとってしる事
 8.わづかなる事にも気を付る事
 9.役にたたぬ事をせざる事
水の巻:二天一流の極意
火の巻:立ち会い勝負の極意
風の巻:他
の流派の批評、二天一流との比較
空の巻:結論
【参考】米ハーバード大学でのテキストの他、経営哲学書としてロングセラー
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宮本武蔵(みやもとむさし)吉川英治(よしかわえいじ)
吉川英治
1892年(明治25年)8月11日 - 1962年(昭和37年)9月7日)は、日本の小説家。本名、英次(ひでつぐ)。神奈川県生まれ。様々な職についたのち作家活動に入り、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年(昭和10年)より連載が始まった『宮本武蔵』は広範囲な読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。幅広い読者層を獲得し、「国民文学作家」といわれる。
『風と共に去りぬ』と並び称されるサムライ小説巨編
剣豪・武蔵の少年期から青年期を描いた時代小説。武蔵の足跡を示す史料が少なく、とくに50代を迎えるまでの詳細は不明の部分が多い。吉川はストイックに剣の修業をなし、あらゆる困難に立ち向かう求道者像をつくりあげ、爆発的な人気を呼んだ。朝日新聞に連載されたこの作品は、1935年の8月23日から、4年後の1939年7月11日まで続いた。二天一流の開祖でもある剣豪・宮本武蔵の剣士として自己を確立するに至るまでの成長を描く。時に、彼を取り巻く武芸者たちの人生も描かれている。剣禅一如を目指す求道者・宮本武蔵を描いたこの作品は、太平洋戦争下の人心に呼応し、新聞小説史上かつてないほどの人気を得た、大衆小説の代表作である。
内 容
(一)二刀流・宮本武蔵
     二天一流剣法の宮本武蔵
(一)どうなるものか、この天地の大きな動きが、ええもう人間の個々の振舞いなどは秋風の中の一片の木の葉でしかない。なるようになってしまえ。武蔵は、そう思った。屍と屍のあいだにあって、彼も一個の屍かのように横たわったまま、そう観念していたのである。
(二)地の巻(二)沢庵のはからいにより、書を読み人の道を学びはじめた武蔵は、宮本武蔵と名を改め、剣の修業に専念する決意をし京都で道場破りを繰り返した。しかし奈良の宝蔵院では敗北感を、柳生の庄では手痛い挫折を味わう。
(三)水の巻(三)自省と克己に励む手負いの武蔵。その行く手には、過去の因縁から深い怨嗟を秘め抱く鎖鎌使いの宍戸梅軒、一門の名を賭けて復讐を誓う吉岡清十郎、そして吉岡一門きっての荒くれ者・伝七郎ら難敵が、次々に立ちはだかる!孤独に戦う武蔵をめぐる、お通と朱美の恋の行方は――。他方、小次郎になりすました又八は本物の小次郎と対決!?
(四)火の巻(四)蓮華王院三十三間堂。兄の仇と一門の汚名返上に奮い立つ伝七郎に対峙した武蔵は、一太刀であたりの雪を赤く染め上げた。これにより吉岡方の恨みは頂点に! 次なる舞台は、総勢七十余名の待ち受ける一乗寺下り松。圧倒的不利の状況で次々と挑みくる敵を無心に斬り続け、武蔵の肉体が限界を迎えたその時、遂に二刀流が生まれた――。
(五)風の巻(五)富士の前に、人間は小さい。ならば小さいなりに立派に生きたい! 吉岡一門との大死闘を切り抜けた武蔵。起死回生の勝利の酔いから醒め、敵将とは言え年若い少年を斬り捨てた記憶に胸を痛める。いっそ修行などやめ、愛する女と暮らせたら……とさえ思う。だが猛る恋心をぶつけたお通には、逃げられてしまう。剣の道と人の道との相剋に身を削る武蔵が、飽くなき自問の果てに捉えた閃きとは――。願いは交錯し、隘路へ誘う。
(六)空の巻(六)富士の前に、人間は小さい。ならば小さいなりに立派に生きたい! 吉岡一門との大死闘を切り抜けた武蔵。起死回生の勝利の酔いから醒め、敵将とは言え年若い少年を斬り捨てた記憶に胸を痛める。いっそ修行などやめ、愛する女と暮らせたら……とさえ思う。だが猛る恋心をぶつけたお通には、逃げられてしまう。剣の道と人の道との相剋に身を削る武蔵が、飽くなき自問の果てに捉えた閃きとは――。願いは交錯し、隘路へ誘う。
(七)二天の巻(七)荒野でめぐりあった少年・伊織。今朝、父親を亡くし一人になった彼を弟子に迎えた武蔵は、伊織の住まいであった藁屋を焼き、新たな小屋を建てる。さらに、剣を置いて鍬を持ち、痩せ土との闘いをはじめるが……。そこに秘められた武蔵の狙いとは? 自然を相手に、征服ではなく理解こそが必要だと識(し)った時、人の道も同じだと彼は悟った――。
(八)円明の巻(八)生涯に唯ひとりの最高の敵と出会った――。出世欲に揺れ、女に惑いながらも己の剣の道を必死に磨き続けてきた武蔵の半生。憎まれ、救われ、教わり、愛した数多の記憶を胸に、お通と思いを確かめ合ったのは因縁の相手・佐々木小次郎との決戦間際だった。向かう先に待ち受けるは勝利か、死の府か――。人々の祈りを乗せていざ、船島へ! 思索と感動に満ちた圧巻の結末がここに。
葉隠(はがくれ)山本 常朝(やまもと じょうちょう)
山本 常朝
万治2年6月11日(1659年7月30日) - 享保4年10月10日(1719年11月21日)佐賀第二代藩主・鍋島光茂の側近。主君の死後、殉死が禁じられていたために出家し隠棲する。その草庵を同じ佐賀藩の若侍・田代陣基が訪ね、常朝の語りを筆記して11巻にまとめたのが「葉隠」である。常朝は焼却を命じたが田代が密かに取り置き、いつしか佐賀藩士のあいだに広まって重んじられるようになったという。
【原文】(聞書一)
武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死方(しぬかた)に片付くばかりなり。別に仔細(しさい)なし。胸すわつて進むなり。図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風(かみがたふう)の打ち上がりたる武道(ぶどう)なるべし。

【現代語訳】(口語訳)(聞書一)
武士道とは、死ぬ事だと見いだしました。生きるか死ぬかいずれかの場面では、早く死ぬほうを選択することだ。それよりほかに仔細などない。覚悟を決めて進むのみである。目的が遂げられず死ぬのは犬死だなどというのは、上方風の思い上がった武士道である。

【解説】
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という冒頭の一節はインパクトがあまりにも強く、武道界・ビジネス界・芸術界さらには広く一般の人々までを長年にわたり魅了し続けている
  第1~2巻:常朝自らの教訓・武士としての心構え、本書の中心
  第3~5巻:佐賀藩主の言行
  第6~9巻:佐賀藩主の言行と史跡伝説
  第10巻:他藩の武士の言行その他
  第11巻:補足
日本人にとっても神秘的なイメージがあり、サムライに興味を抱く海外の人々にとっては、なおのことである。
武士道(ぶしどう)新渡戸稲造(にとべいなぞう)
新渡戸稲造
1862年9月1日(文久2年8月8日) - 1933年(昭和8年)10月15日)は、日本の教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行っていた。国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(東京文化短期大学・現:新渡戸文化短期大学)初代校長。
日本独自の精神性・倫理観を世界に伝えるため『BUSHIDO:THE SOUL of JAPAN(武士道:日本の魂)』を英語で著し、明治32(1899)年にアメリカで出版したところ大きな注目を集めることとなった。19世紀後半、日本は「西洋に追いつけ追い越せ」を合言葉に近代化を進めていたが、生麦事件などで野蛮な民族との評が伝わっていた。ところが日清戦争の勝利で世界を驚かせ、日本とはどんな国なのかを知るための参考書として広く読まれた。
ルーズベルト大統領
『武士道』に感銘を受けた人物として米国セオドア・ルーズベルト大統領が日露戦争の仲介を引き受けたのも、日本びいきになり米国は中立の立場をとっていたが、日本に有利に働くよう水面下で協力したといわれる。
欧米人が「武士道=サムライ」と口にするのも、本書が読み継がれているからこそだろう。

現在の我々にとって本書の内容はかなり封建的ではあるが、DNA(遺伝子)は間違いなく受け継がれている。
内                         容
第一章:道徳体系としての武士道著書

画像の説明
)武士が職業・生活で守るべき道・掟。名誉と特権とともに責任も重く行動規範が必要。
第二章:武士道の源泉)仏教・神道・儒学があり、瞑想により原理を悟り愛国心・忠誠心を身につける
第三章:義)あるいは正義について)サムライの掟の中で最も厳しい教え、無骨で不調法でも儀があることが武士たる資格。
第四章:勇気)勇敢と忍耐の精神)勇気は正義・美徳であり、勇敢な心は何事にも惑わされず落ち着いている。
第五章:仁)惻隠の心)統治者に不可欠な要件で、正義に配慮した慈悲と弱者・敗者に対する仁。
第六章:)他人の気持ちへの思いやり、苦難に耐え親切で誇らず・おごらず・非礼せず・憤らず・慢心しない。
第七章:信と誠)社会的地位が高く「武士の一言」は真実の保証。
第八章:名誉)人生最高の善として富・知識より貴く生命さえ安い。
第九章:忠義)親への孝より主君への忠義であり、個人は国家・主君のために生き死なねばならない。
第十章:武士の教育)思慮・知識・弁舌は軽視され、武士道の骨組みを支えるのは叡智・仁愛・勇気。
第十一章:克己十一)最も厳しい試練に直面しても、浮かべた笑みは乱れた心の平衡・回復をする。
第十二章:切腹と敵討ちの制度十二)魂と愛情が宿る腹を切るは気高い行為であり、日本人は主君の仇討に美を見る。
第十三章:刀) 武士の魂十三)刀への侮辱は持主への侮辱で、濫用を戒め必要なく振るうのは卑怯・虚勢である。
第十四章:女性の教育と地位十四)家の名誉と体面を保つために奉仕し、自らを犠牲にする。
第十五章:武士道の影響十五)国民の花・天の恵みは武士を通じもたらされた、民衆に道徳基準を示し模範となる。
第十六章:武士道はまだ生きているか十六)民衆の礼儀正しさは武士道の遺産で、忍耐強さ・不撓不屈精神の根源である。
第十七章:武士道の未来十七)倫理の掟とし消えるかもしれないが、その力が地上から消え去ることはないであろう。


代表的日本人内村鑑三(うちむらかんぞう)
内村鑑三
明治41(1908)年に英文で刊行された『Representative Men of Japan(代表的日本人)』で『武士道(新渡戸稲造)』『茶の本(岡倉天心)』と併せて「三大日本人論」といれ、西洋から未開国・野蛮民族と蔑視されていた時代に、西洋の偉人に勝るとも劣らない日本人がいたことを示そうとした。
人  物略    歴・業    績
西郷隆盛(さいごうたかもり)(新日本の創設者)
西郷隆盛
明治維新を牽引し新しい日本をつくった。
西郷は真に必要に迫られない限り自ら動かない、ひたすら待つ人だった。「敬天愛人」を座右銘とし「天はあらゆる人を同一に愛する、ゆえに我々も自分を愛するように人を愛さなければならない」と語っていた。
キリスト教的な感情はは陽明学からきている。
忠犬八公
上杉鷹山(うえすぎようざん)(封建領主)
上杉鷹山
明和4(1767)年17歳で米澤藩主となった。名将・上杉謙信を祖とするが外様大名として減封が続き、財政危機に陥っていた。藩財政の建て直しのため倹約令を発布し自ら粗衣粗食にに切り替え、真っ先に変わることで大改革を成功させた。
このような藩政を年にわたり継続し人々の暮らしは向上、東北地方が大飢饉に襲われたときも餓死者が出なかった。米澤藩は「民の声は天の声」との姿勢を貫いて築かれた。
なせば成る
二宮尊徳(にのみやそんとく)(農民聖者)
二宮尊徳
仁愛と勤勉・自助の徳を徹底することで貧村を再生した。単純な金銭的援助は怠惰を助長するとして、誠意をもって人々と向き合い勤勉と自助力を引き出した。
ピューリタン的精神で大勢の人々を助け貧困からの脱出と大規模な公共事業を成功させた。
二宮金次郎
中江藤樹(なかえとうじゅ)(村の先生)
中江藤樹
近江聖人といわれた儒学者。
両親への「孝」とくに母親への孝を立身出世より重視した、弟子に対しては学問と知識を得るより徳と人格を重んじるよう教育した。
中江藤樹
日蓮上人(にちれんしょうにん)(仏僧)
日蓮上人
生活は簡素で、鎌倉に草庵を定め30年たっても同じような暮らしをしていた。
若い頃にさまざまな仏典を読むなかで「依法不依人(えほうふえひん)」の経文と出合って開眼。「ほけきょう法華経」に殉ずる生き方を貫き通した。
日蓮上人
茶の本岡倉天心(おかくらてんしん)
岡倉天心
1863年2月14日(文久2年12月26日) - 1913年(大正2年)9月2日)は、日本の思想家、文人。本名は岡倉覚三(かくぞう)。幼名は岡倉角蔵。横浜の本町5丁目(現・本町1丁目、横浜開港記念会館付近)に生まれる。福井藩出身の武家で、1871年に家族で東京に移転。東京美術学校(現・東京藝術大学の前身の一つ)の設立に大きく貢献し、のち日本美術院を創設した。近代日本における美術史学研究の開拓者で、英文による著作での美術史家、美術評論家としての活動、美術家の養成、ボストン美術館中国・日本美術部長といった多岐に亘る啓蒙活動を行い、明治以降における日本美術概念の成立に寄与した。「天心」は岡倉が詩作などの際に用いた号であるが、生前には「岡倉天心」と呼ばれることはほとんどなく、本人はアメリカでも本名の岡倉覚三 (Okakura Kakuzo) で通していた。
著   書内      容
画像の説明人情の碗
画像の説明
第一章
茶は薬用から飲み物として世界に広まり、日本はこれを茶道にまで高めた。武士道が「死の術」ならば茶道は「生の術」である。
茶の流派
裏千家茶 表千家茶
   薄茶         濃茶
メジャーといわれている三千家というのは「裏千家(うらせんけ)」、「表千家(おもてせんけ)」「武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)」と呼ばれ千利休の孫である千宗旦(せんのそうたん)の子どもたちが作ったもの。
第二章
茶道の歴史は鎌倉時代から始まっており長い歴史の流れともに、「茶道」「茶の湯」という言葉を軸にさまざまな形がうまれ500以上も種類がある。
茶の進化は、およそ三時期に分かれ
唐:煮る「団茶」、詩人・陸羽は「茶経」を書き茶道の始祖
宋:かき回す「抺茶」
明:淹す「淹茶」
現代は最後の流派に属する。
道教と禅
茶道禅
道教の教義を取込んだ禅宗は茶の儀式を組立て日本の茶の湯となった。
第三章
老子は物の本当に肝要なところは「虚」にのみ存在すると主張。己を虚にして他が自由に入ってくるようにできる人は成功する、既成概念にとらわれず本質的なものと直接向き合う。
茶室
茶室茶室間取
茶室間取(拡大)
詩趣を宿す仮の住み家「()き家」で、美的必要外の装飾を欠く「()き家」・不完全崇拝の「数奇家(すきや)
第四章
欧米の室内装飾は対称的にするが、茶道では中心を外し色・形・素材・模様などの反復を避け調和を考える。
芸術鑑賞
茶室道具
茶室と道具(拡大)
茶碗
茶碗(拡大)
第五章
先入観をもたず虚心坦懐に相対する。

花
一見役立たないものに有用性を見出し不断の友とする
第六章
宗匠は宗教的な尊敬をもって花を見、一枝一条もみだりに切らない。
茶の宗匠
画像の説明
千利休系図
千利休系図(拡大)
利休の「最後の茶の湯」は悲壮の極
第七章
人・物に対し調和・敬愛の心をもち平和を乱さない。物に接するときは丁重に身も心も清潔・簡潔に整える。

|奥の細道|松尾芭蕉(まつおばしょう)
松尾芭蕉
寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日)江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身。幼名は金作、通称は甚七郎、甚四郎、名は忠右衛門宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。俳諧(連句)の芸術的完成者であり蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ。芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『おくのほそ道』という書物が有名。句集に「俳諧七部集」紀行に「野ざらし紀行」「更科紀行」」「笈の小文」などがある。

『HAIU(俳句)』海外版|西行500回忌に当たる元禄2年(1689年)の3月27日、弟子の曾良を伴い芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出た。下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前など、彼にとって未知の国々を巡る旅は、西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれた。
芭蕉と曾良行程図
    芭蕉と曾良                      行     程      図
海外版
       海外版


月日(つきひ)百代(はくたい)過客(かかく)にして、()きかふ年もまた旅人(たびびと)なり。舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、
馬の口とらえて(おい)をむかふるものは、日々(ひび)旅にして旅を(すみか)とす。
古人(こじん)も多く旅に死せるあり。

漂泊の思いにかられ、旅支度をして庵を人に譲り、3月27日の明け方、親しい者に送られて千住を発った。4月1日には日光の東照宮に参詣する。
  あらたうと 青葉若葉の 日の光
  日光東照宮
  夏草や 兵どもが 夢の跡
  衣川
美濃国大垣の庄に入り、曾良と落ち合う。五ヶ月の行脚が終わる。
伊勢神宮に舟で旅立った。
  蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ
  ふたみにわかれ
旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る (辞世の句 大津にて)|



舞姫(まいひめ)森 鴎外(もり おうがい)
森 鴎外
1862年2月17日(文久2年1月19日) - 1922年(大正11年)7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級・医学博士・文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。東京大学医学部[注 1]卒業。大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後日清戦争出征や小倉転勤などにより、一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」等も執筆した。晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任した。
森鴎外の短編小説。1890年(明治23年)、民友社社長の徳富蘇峰の依頼を受け執筆し『国民之友』に発表。森鴎外が1884年から4年間ドイツへ医学を学ぶために留学した時に執筆された。主人公の手記の形をとり、その体験を綴る。高雅な文体と浪漫的な内容で、初期の代表作。本作『舞姫』、『うたかたの記』、『文づかひ』の三作品を独逸三部作あるいは浪漫三部 作と呼ぶことがある。詩・随筆・日記・遺言書まで翻訳され、「舞姫」は最も早くドイツ語に翻訳されベルリンの出版社から刊行された。またゲーテ「ファウスト」を日本語に翻訳するなど翻訳家としても活躍していた。「舞姫」のモデル論争が長く続いたが真相はいまだ不明。

あらすじ
太田豊太郎は、父を早く失い、母の心の慰みである一人っ子。秀才の誉れ高く、若くして大学法学部を首席で卒業後、某省に入る。官長の覚えよく、ベルリンに留学を命ぜられる。1、2ヶ月でプロシャ役人との公務打ち合わせを済ませ、法学者の講義を聴くことになる。3年は夢のように過ぎ去る。25歳の豊太郎は、自由な大学の空気を吸って近代的自我に目覚め、単なる機械的な人間として生きてゆくことに疑問を抱く。官長への批判的精神も生まれ、法科の講義をよそに、歴史文学に心を寄せるようになる。その頃、ふとしたことで、踊り子エリスが父の葬式費用に窮しているのを救ったことから、彼女と親しくなる。二人の関係は清廉潔白であるが、留学生仲間の中傷を受け、免職となる。息子の出世を唯一の生き甲斐とする母の諌死もあり、異国で孤独となった豊太郎はエリスとの同棲生活に入る。生活は、親友相沢のはからいで某新聞社の通信員の仕事を得てなんとか凌いでいる。突然、相沢が天方(あまがた)大臣に随行してベルリンにやってくる。相沢のお陰で、豊太郎は天方大臣のためにドイツ語文書の翻訳を担当する。また、大臣がペテルブルグに出掛ける際には、随行して得意なフランス語を駆使して交渉に大きな役割を果たす。その間、相沢は豊太郎とエリスとの仲を引き離しにかかる。学識才能ある者が一少女の情にかかずらって目的の無い生活を続けてどうするのだと説得され、豊太郎ははずみで相沢にエリスとの関係を絶つと約束する。後で豊太郎は軽率さを悔やむことになる。ロシアの旅からベルリンに戻ると、エリスは嬉しそうに子を身ごもったことを豊太郎に告げる。その数日後、大臣から呼び出しを受け、ロシア行きの労をねぎらわれた後、自分と一緒に日本に帰る気持ちはないかと尋ねられる。ドイツ滞留が長いから、こちらに様々な係累がいるかと懸念していたが、相沢からそんなことは一切ないと聞いて安心していると大臣は言葉を続ける。さすがに相沢の言を否定することもできず、もしこのチャンスを逃せば「本国をも失ひ、名誉を挽(ひ)きかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧州大都の人の海に葬られんかと思ふ念」が心頭を衝いて起こり、みさおなく承諾してしまう。帰途、罪悪感から豊太郎は錯乱状態となり、服を泥まみれにして、エリスの許に辿り着く。数週間、人事不省の状態が続く。正気づくと、ベッド脇にいるエリスの様子がすっかり変わっている。後で知るのだが、エリスは相沢から豊太郎が帰国を承諾した一切の事情を聞かされ、「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」と叫び、その場に倒れ、暫くして目覚めたときは狂人となっている。エリスの生ける屍(かばね)を抱いて豊太郎は幾度涙を流しただろう。大臣に従い帰国の途に着くとき、相沢に相談し、エリスの母に生計を営むに足る金銭を渡し、哀れな狂女の胎内から子が産まれる折のことも頼む。そして、「嗚呼(ああ)、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡(のうり)に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり。
と結ばれる。
画像の説明
高野聖(こうやひじり)泉 鏡花(いずみ きょうか)
泉 鏡花
1873年(明治6年)11月4日 - 1939年(昭和14年)9月7日)は、日本の小説家。明治後期から昭和初期にかけて活躍した。小説の他に戯曲や俳句も手がけた。本名、鏡太郎(きょうたろう)。金沢市下新町生れ。尾崎紅葉に師事した。『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家になる。江戸文芸の影響を深くうけた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで知られる。また近代における幻想文学の先駆者としても評価される。他の主要作品に『照葉狂言』『婦系図』『歌行燈』などがある。
謎めいていてエロティックな女性、跋扈する魑魅魍魎・・・。そうした美しくも妖しい幻想的な世界観が多くの人々を惹きつける。作品に登場する女性像は、鏡花が歳のときに他界した母親に関係しているといわれ、母への強い思慕の情が表現されているというのである。
本 高名な画家が装画や挿絵を描き多色刷木版画の口絵が入っている
あらすじ
旅僧は敦賀に行きの汽車の中で上人と出会った。上人は敦賀で知り合いの宿に一泊するらしく、旅僧も敦賀で一泊しなければならなかったので同行することにした。その宿での夜、夜更けまで眠れない旅僧は上人に行脚中の面白い話をしてもらうことにした。僧侶は飛騨の山麓の茶屋で薬売りの旅商人と出会った。嫌味な男だったので、茶屋を出た後も道が同じになったときには無視をした。しかし、その商人が今は使われていない危険な旧道の道をいったので連れ戻しに同じ道に入っていった。蛇におびえ、坂にも苦労をするがその道を進んでいく。その先では蛭の大群に襲われて狂ったように歩き続けた。すると、林を抜けた所に一軒家を見つけて、そこに宿を借りることにする。その家に住むのは婦人と白痴、親仁であった。その婦人は蝙蝠や猿、蟇に好かれる美女であり、婦人
は男を獣に変える妖女だということを親仁から聞く…。
出家(しゅっけ)とその弟子倉田百三(くらた ひゃくぞう)
倉田百三
1891年(明治24年)2月23日 - 1943年(昭和18年)2月12日)は、大正、昭和初期に活躍した日本の劇作家、評論家。広島県庄原市には、倉田百三文学館がある。
親鸞
親鸞上人

歎異抄
歎異抄第三条(拡大)
結核の療養生活をおくりながら25歳のときに書き上げ大正6(1917)年に発表した。浄土真宗の開祖・親鸞『歎異抄』の「仏は悪人をも救う」という思想を表現したもので、倉田自身の病・急逝した姉たちへの思い・聖と性の葛藤苦悩が浮かび上がる。ノーベル文学賞受賞作家・ロマン・ローランが大絶賛。

親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 )は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる。法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)』)が完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。
歎異抄』(たんにしょう)は、鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書である。作者は、親鸞に師事した唯円とされる。書名は、その内容が親鸞滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった異義・異端を嘆いたものである。『歎異鈔』とも。
あらすじ
序曲:死ぬるもの
死ぬには罪があるあらで、人間はみな罪人だ
第一幕:日野左衛門の屋敷
雪の夜、お兼と病弱の子松若を抱える一徹な浪人左衛門は、親鸞と二人の弟子の宿泊を断る。しかし、夢を見て考えなおし、明け方に三人を迎え入れ、許しを乞う。
第二幕:西の洞院御坊
15年後、京都で法然忌が行われ、ごった返していた。松若は唯円と名乗り、親鸞に可愛がられていた。偽善の大罪や恋のことが問題になった後、親鸞は往生の要義を聞きに来た3人に、人間は本来罪深いものと認識し、救われるために「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と説く。他力本願思想やどんな悪人も救われると言う考えはキリスト教にも相通ずる。
第三幕:三条木屋町・松の家の一室
円は遊女と遊蕩にふける親鸞の勘当された子善鸞を尋ね、なんとか親鸞に合わせようとするが失敗。唯円、親鸞、善鸞、それぞれの立場と気持ちがよく分かる劇である。特に満たされぬ唯円の苦しみが寂しい。
第四幕:黒谷墓地
唯円と遊女かえでのあまい恋。善鸞と別れて寂しい浅香とせっかんされてもなお恋の喜びと望みに夢中のかえでが対照的に描かれる。
第五幕:親鸞聖人居間
唯円に対し他の僧が弾劾するが唯円は聞かない。親鸞のもとに問題が持ち込まれるが、親鸞は他僧にゆるすことをもとめ、唯円には恋と罪は絡まったものと教え、何事も慈悲深い仏様にまかせて奉れと説く。この親鸞の解決方法にはびっくりした。そして親鸞の基本的な考え方が一番はっきりあらわれている。
第六幕:親鸞聖人病室
親鸞聖人親鸞の入滅で、唯円はすでにかえでを妻とし、二人の娘までもうけていた。善鸞は最後に駆けつけるがそれでも仏様を信じることが出来ない。「おまえは仏様を信じられるか。」とせまられ、善鸞が「決められません、わかりません。」と答え、親鸞が「それでよいのじゃ、みんな助かっているのじゃ。」と言い、親鸞の魂は天に返った。
こころ夏目漱石(なつめそうせき)
夏目漱石
1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。
大正3(1914)年に朝日新聞に連載された長編小説である。近代を迎えた日本人が直面した自我・エゴイズムの問題を掘り下げる一方、友情と恋愛・裏切りと死・罪の意識といった普遍的なテーマを描き、時代や国を超えて広く読み継がれている。14ヶ国語にも翻訳されている。
本
あらすじ
(上) 先生と私
語り手は「私」。時は明治末期。夏休みに鎌倉由比ヶ浜に海水浴に来ていた「私」は、同じく来ていた「先生」と出会い、交流を始め、東京に帰った後も先生の家に出入りするようになる。先生は奥さんと静かに暮らしていた。毎月、雑司ヶ谷にある友達の墓に墓参りする。先生は私に何度も謎めいた、そして教訓めいたことを言う。私は、父の病気の経過がよくないという手紙を受け取り、冬休み前に帰省する。正月すぎに東京に戻った私は、先生に過去を打ち明けるように迫る。先生は来るべき時に過去を話すことを約束した。大学を卒業した私は先生の家でご馳走になったあと、帰省する。
(中) 両親と私
語り手は「私」。腎臓病が重かった父親は、ますます健康を損ない、私は東京へ帰る日を延ばした。実家に親類が集まり、父の容態がいよいよ危なくなってきたところへ、先生から分厚い手紙が届く。手紙が先生の遺書だと気づいた私は、東京行きの汽車に飛び乗った。
(下) 先生と遺書
「先生」の手紙。「先生」の手紙には謎に包まれた彼の過去が綴られていた。「K」や「お嬢さん」らとの関係とその顛末、「先生」が「私」に語った謎めいた言葉たちの真相が明かされる。
羅生門(らしょうもん)芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)
芥川龍之介
1892年(明治25年)3月1日 - 1927年(昭和2年)7月24日)は、日本の小説家。本名同じ、号は澄江堂 主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼。その作品の多くは短編である。また、「芋粥」「藪の中」「地獄変」など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。「蜘蛛の糸」「杜子春」といった児童向けの作品も書いている。
東京帝国大学英文科在学中に菊池寛らと「新思潮」を創刊、短編「鼻」が夏目漱石に認められて注目を集め、大正文壇の代表作家として不動の地位を築いた。しかし将来に対する「ぼんやりした不安」により36歳の若さで薬物自殺した。
大正4(1915)年 東京帝大在学中の芥川龍之介が機関紙「帝国文学」に発表した。芥川の初期作品には古典に材を得たものが多いが「羅生門」も『今昔物語集』の説話を下敷きにしている。追い詰められれば生きるために悪を行なうエゴイズム、状況しだいで正義にも悪にも振れる不安定な人間心理が強い印象を残す。世界40ヶ国以上で1,000点に迫る翻訳版が出ている。昭和25(1950)年に公開された黒澤明監督の同名映画の影響が大きい。この映画は芥川の「藪の中」をベースにしつつ「羅生門」を一部取り込んだもので、ベエネチュア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞した。
羅生門 画像の説明 
あらすじ
ある日の暮方の事である。一人の下人げにんが、羅生門らしょうもんの下で雨やみを待っていた。広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗にぬりの剥はげた、大きな円柱まるばしらに、蟋蟀きりぎりすが一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路すざくおおじにある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠いちめがさや揉烏帽子もみえぼしが、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風つじかぜとか火事とか饑饉とか云う災わざわいがつづいて起った。そこで洛中らくちゅうのさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹にがついたり、金銀の箔はくがついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪たきぎの料しろに売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸こりが棲すむ。盗人ぬすびとが棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。その代りまた鴉からすがどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾しびのまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻ごまをまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄ついばみに来るのである。――もっとも今日は、刻限こくげんが遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞ふんが、点々と白くこびりついているのが見える。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖あおの尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰にきびを気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微すいびしていた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申さるの刻こく下さがりからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、下人は、何をおいても差当り明日あすの暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍いらかの先に、重たくうす暗い雲を支えている。どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑いとまはない。選んでいれば、築土ついじの下か、道ばたの土の上で、饑死うえじにをするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊ていかいした揚句あげくに、やっとこの局所へ逢着ほうちゃくした。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人ぬすびとになるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。下人は、大きな嚔くさめをして、それから、大儀たいぎそうに立上った。夕冷えのする京都は、もう火桶ひおけが欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗にぬりの柱にとまっていた蟋蟀きりぎりすも、もうどこかへ行ってしまった。下人は、頸くびをちぢめながら、山吹やまぶきの汗袗かざみに重ねた、紺の襖あおの肩を高くして門のまわりを見まわした。雨風の患うれえのない、人目にかかる惧おそれのない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯子はしごが眼についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰にさげた聖柄ひじりづかの太刀たちが鞘走さやばしらないように気をつけながら、藁草履わらぞうりをはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子ようすを窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿うみを持った面皰にきびのある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括くくっていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火をそこここと動かしているらしい。これは、その濁った、黄いろい光が、隅々に蜘蛛くもの巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。下人は、守宮やもりのように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして体を出来るだけ、平たいらにしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗のぞいて見た。見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸しがいが、無造作に棄ててあるが、火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とがあるという事である。勿論、中には女も男もまじっているらしい。そうして、その死骸は皆、それが、かつて、生きていた人間だと云う事実さえ疑われるほど、土を捏こねて造った人形のように、口を開あいたり手を延ばしたりして、ごろごろ床の上にころがっていた。しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりした火の光をうけて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、永久に唖おしの如く黙っていた。下人げにんは、それらの死骸の腐爛ふらんした臭気に思わず、鼻を掩おおった。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。下人の眼は、その時、はじめてその死骸の中に蹲うずくまっている人間を見た。檜皮色ひわだいろの着物を着た、背の低い、痩やせた、白髪頭しらがあたまの、猿のような老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松の木片きぎれを持って、その死骸の一つの顔を覗きこむように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸であろう。下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時ざんじは呼吸いきをするのさえ忘れていた。旧記の記者の語を借りれば、「頭身とうしんの毛も太る」ように感じたのである。すると老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱しらみをとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。髪は手に従って抜けるらしい。その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊ごへいがあるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、饑死うえじにをするか盗人ぬすびとになるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片きぎれのように、勢いよく燃え上り出していたのである。下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、下人は、さっきまで自分が、盗人になる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上った。そうして聖柄ひじりづかの太刀に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩みよった。老婆が驚いたのは云うまでもない。老婆は、一目下人を見ると、まるで弩いしゆみにでも弾はじかれたように、飛び上った。「おのれ、どこへ行く。」下人は、老婆が死骸につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞ふさいで、こう罵ののしった。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。下人はまた、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は死骸の中で、しばらく、無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は、はじめからわかっている。下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへ※(「てへん+丑」、第4水準2-12-93)ねじ倒した。丁度、鶏にわとりの脚のような、骨と皮ばかりの腕である。「何をしていた。云え。云わぬと、これだぞよ。」下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘さやを払って、白い鋼はがねの色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球めだまが※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたの外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗しゅうねく黙っている。これを見ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。後あとに残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。「己おれは検非違使けびいしの庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄なわをかけて、どうしようと云うような事はない。ただ、今時分この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話しさえすればいいのだ。」すると、老婆は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたの赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。それから、皺で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏のどぼとけの動いているのが見える。その時、その喉から、鴉からすの啼くような声が、喘あえぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘かずらにしようと思うたのじゃ。」下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑ぶべつと一しょに、心の中へはいって来た。すると、その気色けしきが、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇ひきのつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。「成程な、死人しびとの髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸しすんばかりずつに切って干したのを、干魚ほしうおだと云うて、太刀帯たてわきの陣へ売りに往いんだわ。疫病えやみにかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料さいりように買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」老婆は、大体こんな意味の事を云った。下人は、太刀を鞘さやにおさめて、その太刀の柄つかを左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰にきびを気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。「きっと、そうか。」老婆の話が完おわると、下人は嘲あざけるような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰にきびから離して、老婆の襟上えりがみをつかみながら、噛みつくようにこう云った。「では、己おれが引剥ひはぎをしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色ひわだいろの着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪しらがを倒さかさまにして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々こくとうとうたる夜があるばかりである。下人の行方ゆくえは、誰も知らない。


ちょっと一休みしながら小説「羅生門」の朗読を聴いてみましょう。(約10分)


蟹工船(かにこうせん)小林多喜二(こばやしたきじ)
小林多喜二
1903年(明治36年)12月1日[注釈 1] - 1933年(昭和8年)2月20日)は、日本のプロレタリア文学の代表的な作家、小説家である。秋田県生まれ、小樽高等商業学校(小樽商科大学)卒業後 北海道拓殖銀行に勤務。共産主義に傾倒し労働運動を開始、権力に抵抗する労働者を描くプロレタリア作家として歳で「蟹工船」などを発表。銀行を解雇され上京して執筆を続けた。特別高等警察(特高)が反体制活動家を共産主義者を激しく弾圧し雑誌「戦旗」などが発売禁止処分を受け、治安維持法違反で逮捕され、29歳の若さで拷問により悲惨な最期を迎えた。
戦前の過酷な労働実態を描き、プロレタリア文学の代表作として国際的に知られた名著である。ロシア語・中国語・スペイン語などによる翻訳・出版が続き、さらに韓国語・フランス語にも新訳された。格差の拡大・ワーキングプアの問題が日本を揺るがせた平成20(2008)年「蟹工船」のリバイバル・ブームが巻き起こり、平成24(2012)年には多喜二の母校である小樽商科大学で国際シンポジュームが行なわれた。21世紀においても多喜二に向けられる視線は熱い。
あらすじ
この小説には特定の主人公がおらず、蟹工船にて酷使される貧しい労働者達が群像として描かれている点が特徴的である。蟹工船「博光丸」のモデルになった船は実際に北洋工船蟹漁に従事していた博愛丸(元病院船)である。
博愛丸

蟹工船とは、戦前にオホーツク海のカムチャツカ半島沖海域で行われた北洋漁業で使用される、漁獲物の加工設備を備えた大型船である。搭載した小型船でたらば蟹を漁獲し、ただちに母船で蟹を缶詰に加工する。その母船の一隻である「博光丸」が本作の舞台である。蟹工船は「工船」であって「航船」ではない。だから航海法は適用されず、危険な老朽船が改造して投入された。また工場でもないので、労働法規も適用されなかった [3]。 そのため蟹工船は法規の真空部分であり、海上の閉鎖空間である船内では、東北一円の貧困層から募集した出稼ぎ労働者に対する資本側の非人道的酷使がまかり通っていた。また北洋漁業振興の国策から、政府も資本側と結託して事態を黙認する姿勢であった。さらに現場の監督は利潤を確保するするために代議士になろうと目論んでいる。情け知らずの監督である浅川は労働者たちを人間扱いせず、彼らは劣悪で過酷な労働環境の中、暴力・虐待・過労や病気で次々と倒れてゆく。転覆した蟹工船をロシア人が救出したことがきっかけで異国の人も同じ人間と感じ、中国人の通訳も通じ、「プロレタリアートこそ最も尊い存在」と知らされるが、船長がそれを「赤化」とみなす。学生の一人は現場の環境に比べれば、ドストエフスキーの「死の家の記録」の流刑場はましなほうという。当初は無自覚だった労働者たちはやがて権利意識に覚醒し、指導者のもとストライキ闘争に踏み切る。会社側は海軍に無線で鎮圧を要請し、接舷してきた駆逐艦から乗り込んできた水兵にスト指導者たちは逮捕され、最初のストライキは失敗に終わった。労働者たちは作戦を練り直し、再度のストライキに踏み切る。
(冒頭の一節)
「おい地獄さ行えぐんだで!」二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛かたつむりが背のびをしたように延びて、海を抱かかえ込んでいる函館はこだての街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草たばこを唾つばと一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹サイドをすれずれに落ちて行った。彼は身体からだ一杯酒臭かった・・・・・・・
雪国(ゆきぐに)川端康成(かわばたやすなり)
川端康成
1899年(明治32年)6月14日 - 1972年(昭和47年)4月16日)は、日本の小説家、文芸評論家。大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。大阪府出身。東京帝国大学国文学科卒業。大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角を現した後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。西欧の前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、詩的、抒情的作品、浅草物、心霊・神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名を持った。その後は、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界、幽玄、妖美な世界観を確立させ、人間の醜や悪も、非情や孤独も絶望も知り尽くした上で、美や愛への転換を探求した数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺し、日本文学の最高峰として不動の地位を築いた。日本人として初のノーベル文学賞も受賞し、受賞講演で日本人の死生観や美意識を世界に紹介した。代表作は、『伊豆の踊子』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。初期の小説や自伝的作品は、川端本人が登場人物や事物などについて、随想でやや饒舌に記述している。そのため、多少の脚色はあるものの、純然たる創作(架空のできごと)というより実体験を元にした作品として具体的実名や背景が判明され、研究・追跡調査されている。川端は新人発掘の名人としても知られ、ハンセン病の青年・北條民雄の作品を世に送り出し、佐左木俊郎、武田麟太郎、藤沢恒夫、少年少女の文章、山川彌千枝、豊田正子、岡本かの子、中里恒子、三島由紀夫などを後援し、数多くの新しい才能を育て自立に導いたことも特記できる。また、その鋭い審美眼で数々の茶器や陶器、仏像や埴輪、俳画や日本画などの古美術品の蒐集家としても有名で、そのコレクションは美術的価値が高い。多くの名誉ある文学賞を受賞し、日本ペンクラブや国際ペンクラブ大会で尽力したが、多忙の中、1972年(昭和47年)4月16日夜、葉山のマンションでガス自殺した(72歳 なお遺書はなかった)。
昭和43(1968)年 日本人としてはじめてンーベル文学賞を受賞。世界的作家とのお墨付き得て欧米を中心に多数の読者を獲得した。最初に翻訳された作品は「伊豆の踊子」続いて「雪国」「千羽鶴」で、翻訳は「源氏物語」で知られるエドワード・サイデンステッカーである。川端の文体は主語などの省略が多く、翻訳は不可能に近いといわれるほど困難であった。昭和10(1935)年「文藝春秋」に掲載された「夕景色の鏡」が原型で続編に継ぐ続編で、二年後に七編にまとめて「雪国」という題名の単行本として出版された。作品には土地の名称は出てこないが逗留して執筆した越後湯沢温泉宿(「高半」)と思われる。
【有名な冒頭の一節】
長いトンネル 越後湯沢温泉
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。
300 x 200(かいだん)小泉八雲
小泉八雲
探訪記者、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者。東洋と西洋の両方に生きたとも言われる。 出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。アイルランドの守護聖人・聖パトリックにちなんだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが広まり、当人もそのように呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの。ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある。HearnもしくはO'Hearnはアイルランド南部では比較的多い姓である。1896年(明治29年)に日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗る。「八雲」は、一時期島根県の松江市に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因むとされる。 日本の怪談話を英語でまとめた『怪談』を出版した。2016年11月、愛知学院大学の教授によって1896年(明治29年)当時の英国領事の書簡を元にした研究論文が発表され、小泉八雲がイギリスと日本の二重国籍だった可能性が高いことが示唆されている。
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『怪談』(海外版)
『怪談』(かいだん、くわいだん、英: Kwaidan)は、小泉八雲が著した怪奇文学作品集。1904年に出版された。八雲の妻である節子から聞いた日本各地に伝わる伝説、幽霊話などを再話し、独自の解釈を加えて情緒豊かな文学作品としてよみがえらせた。17編の怪談を収めた『怪談』と3編のエッセイを収めた『虫界』の2部からなる。英語によるタイトルの綴りがKaidanではなくKwaidanなのは、「怪」の字音仮名遣である「クワイ」のローマ字転写による。また、節子の出身地である出雲地方の方言・出雲弁では「か」を「くゎ」と発音し分ける場合がある(例:火事(くゎじ)、家事(かじ))。

赤間神社内 芳一堂
赤間神宮内 芳一堂
耳なし芳一
安徳天皇や平家一門を祀った阿弥陀寺(現在の赤間神宮、山口県下関市)を舞台とした物語、怪談。小泉八雲の『怪談』にも取り上げられ、広く知られるようになる。八雲が典拠としたのは、一夕散人(いっせきさんじん)著『臥遊奇談』第二巻「琵琶秘曲泣幽霊(びわのひきょくゆうれいをなかしむ)」(1782年)であると指摘される。『臥遊奇談』でも琵琶師の名は芳一であり、背景舞台は長州の赤間関、阿弥陀寺とある。これは現今の下関市、赤間神社のことと特定できる。
あらすじ琵琶法師
阿弥陀寺に芳一という盲目の琵琶法師が住んでいた。芳一は平家物語の弾き語りが得意で、特に壇ノ浦の段は「鬼神も涙を流す」と言われるほどの名手であった。ある夜、和尚の留守の時に、突然一人の武士が現われる。芳一はその武士に請われて「高貴なお方」の屋敷に琵琶を弾きに行く。盲目の芳一にはよく分からなかったが、そこには多くの貴人たちが集っているようであった。壇ノ浦の戦いのくだりをと所望され、芳一が演奏を始めると皆熱心に聴き入り、芳一の芸の巧みさを誉めそやす。しかし、語りが佳境になるにつれて皆声を上げてすすり泣き、激しく感動している様子で、芳一は自分の演奏への反響の大きさに内心驚く。芳一は七日七晩の演奏を頼まれ、夜ごと出かけるようになる。和尚は、目の悪い芳一が毎夜一人で出かけていく事に気付いて不審に思い、寺男たちに後を着けさせた。すると芳一は一人、平家一門の墓地の中におり、平家が推戴していた安徳天皇の墓前で無数の鬼火に囲まれて琵琶を弾き語っていた。寺の者たちは慌てて芳一を連れ帰り、和尚に問い詰められた芳一はとうとう事情を打ち明けた。和尚は怨霊たちが単に芳一の琵琶を聞くことだけでは満足せずに、芳一に危害を加えることを恐れ、このままでは芳一が平家の怨霊に殺されてしまうと案じた。和尚は自分がそばにいれば芳一を守ってやれると考えたが、生憎夜は法事で芳一のそばについていてやることが出来ない。かといって寺男や小僧では力不足である。芳一を法事の席に連れていっては、大勢の怨霊をもその席に連れて行ってしまうことになり、これでは檀家に迷惑をかけかねない。そこで和尚は芳一を一人にするが、怨霊とは接触させない方法をとることで芳一を守ることにした。和尚は、怨霊の「お経が書かれている身体部分は透明に映り視認できない」という性質を知っていたので、怨霊が芳一を認識できないように、法事寺の小僧と共に芳一の全身に般若心経を写した。ただしこのとき耳に写経し忘れたことに気が付かなかった。また声によって相手に居場所を知られないよう、芳一に怨霊に声をかけられても絶対に無視するよう堅く言い含めた。その夜、芳一が一人で座っていると、いつものように武士(平家の怨霊)が芳一を迎えに来た。しかし経文の書かれた芳一の体は、怨霊である武士には見えない。呼ばれても芳一が返事をしないでいると怨霊は当惑し、「返事がない。琵琶があるが、芳一はおらん。これはいかん。どこにいるのか見てやらねば…」という独り言が聞こえる。しかし怨霊には、写経し忘れた耳のみが暗闇の中で見え、「よかろう。返事をする口がないのだ。両耳の他、琵琶師の体は何も残っておらん。ならば、出来る限り上様の仰せられた通りにした証として、この耳を持ち帰る他あるまい。」と言い、耳だけ持ち帰ることが、結果的に芳一をどのような目に合わせるのかを考えもせずに、頭から耳だけをもぎ取ってそのまま去って行った。 朝になり帰って来た和尚は、両耳をもぎ取られて血だらけになり意識のない芳一の様子に驚き、昨夜の一部始終を聞いた後、初めて、芳一の身体に般若心経を写経した際に、小僧が経文を耳にだけ書き漏らしてしまったことに気付き、芳一に、そのことを見落としてしまった自らの非を詫びた。その後、芳一の耳の傷も無事に癒え、この不思議な出来事が世間に広まり、彼は「耳なし芳一」と呼ばれるようになった。やがて琵琶の腕前も評判になり、その後は何不自由なく暮らしたという。結果的に芳一に降りかかった禍は、反対に彼の名声を高めることになった。また『生き神』では、多くの村人たちが庄屋の機転で高台に避難し津波から身を守った実話「tunami(ツナミ)」という日本語を世界に広めた。
雨月物語(うげつものがたり)上田秋成(うえだあきなり)
上田秋成
享保19年6月25日(1734年7月25日) - 文化6年6月27日(1809年8月8日))は、江戸時代後期の読本作者、歌人、茶人、国学者、俳人。怪異小説『雨月物語』の作者として特に知られる
大坂の遊女の子として生まれ4歳意のとき紙油商の養子となり俳諧や国学などを修めた。38歳のときに破産すると医学を学んで開業そのかたわら『雨月物語』を刊行、国学をめぐり本居宣長と論争を展開した。他に「春雨物語」「癇癖談」随筆「胆大小心録」歌文集「藤簍冊子」などがある。
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『雨月物語』(海外版)
江戸中期の明和5(1768)年に成立した怪異小説集。幽霊や鬼が登場するオカルトもので、中国や日本の説話集・謡曲などを元にしている。現代小説の源流にあたり最高傑作として知られており滝沢馬琴・泉鏡花・芥川龍之介から激賞されている。上田秋成は国学者としても知られ、古典の深い知識を背景に怨念や復讐にあふれる壮絶な人間ドラマを芸術性豊かに描き、たんなる化け物の話に終わらずグローバルに読者を獲得した。
あらすじ
各篇の並び順は以下の通りであるが、これは深い考えがあってのものだ、という説を高田衛は提唱している。つまり、前の作品の一部要素が、次の作品の内容と結びついていて、円環をなしている、ということである。
白峯(しらみね)
西行が讃岐国にある在俗時代の主崇徳院の陵墓、白峯陵に参拝したおり、崇徳上皇の亡霊と対面し、論争する。
菊花の約(きつかのちぎり)
契りを交わした(衆道)義兄弟との再会の約束を守るため、約束の日の夜、自刃した男が幽霊となって現れる。
浅茅が宿(あさぢがやど)
戦乱の世、一旗挙げるため妻と別れて故郷を立ち京に行った男が、7年後に幽霊となった妻と再会する。
夢応の鯉魚(むおうのりぎよ)
昏睡状態にある僧侶が夢の中で鯉になって泳ぎまわる。
仏法僧(ぶつぽふそう)
旅の親子が高野山で、怨霊となった豊臣秀次の一行の宴に遭い、怖い思いをする。
吉備津の釜(きびつのかま)
色好みの夫に浮気され、裏切られた妻が、夫を祟り殺す。
蛇性の婬(じやせいのいん)
男が蛇の化身である女につきまとわれるが、最後は道成寺の僧侶に退治される。
青頭巾(あをづきん)
稚児に迷い鬼と化した僧侶を、旅の僧である快庵禅師が解脱へと導く。
貧福論(ひんぷくろん)
金を大事にする武士、岡左内の寝床に金銭の精が小人の翁となって現れ、金とそれを使う主人との関係を説く。

|曽根崎心中(そねざきしんじゅう)|近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)
近松門左衛門
   (自筆画)
承応2年〈1653年〉 - 享保9年11月22日〈1725年1月6日〉)とは、江戸時代の浄瑠璃及び歌舞伎の作者。本名は杉森 信盛(すぎもり のぶもり)。平安堂、巣林子(そうりんし)、不移山人(ふいさんじん)と号す。 家紋は「丸に一文字」。現在近松の作と確定されている浄瑠璃は110あまりで、そのうち24の作が世話物である。歌舞伎の作では30あまりが認められている。世話物とは町人社会の義理や人情をテーマとした作品であるが、当時人気があったのは時代物であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。同時期に紀海音も門左衛門と同じ題材に基づいた心中浄瑠璃を書いており、当時これに触発されて心中が流行したのは事実であるが、世話物中心に近松の浄瑠璃を捉えるのは近代以後の風潮に過ぎない。ちなみに享保8年(1723年)、幕府は心中物の上演を一切禁止している。「虚実皮膜論」という芸術論を持ち、芸の面白さは虚と実との皮膜にあると唱えたといわれるが、これは穂積以貫著の『難波土産』に近松の語として記されているだけであり、近松自身が書き残したとされる芸能論はない。ほかには箕面市の瀧安寺に近松が同寺に寄進した大般若経、尼崎の広済寺に自筆とされる養生訓などが伝わっている。|元禄16(1703)年に大坂梅田の曽根崎天神の森で、醬油屋の手代と堂島新地の遊女が心中した事件に触発されて書いた浄瑠璃作品で、一ヶ月後に大坂竹本座で上演されている。それまでの浄瑠璃は歴史上の人物を題材としていたが、近松は町人に着目し「世話物」と呼ばれる新ジャンルを開拓した。実社会でも情死事件が続発、江戸幕府は心中物の上演を禁止した。
昭和36(1961)年ドナルド・キーンが英訳本で世界に紹介した。
画像の説明 ドナルド・キーン
江戸後期の「文楽座」が浄瑠璃の通称となりユネスコ無形文化遺産に登録された。三味線に合わせて太夫が語り、人形遣いが人形を動かす浄瑠璃=文楽は「三業一体の総合芸術」といわれ、音楽と語りが一体化した人形劇は世界的にも珍しい。
あらすじ
上の巻
大坂(「大阪」の表記は後代のもの)の醤油屋「平野屋」の手代(てだい:商家の使用人で、丁稚と番頭の中間の階級。現代で言う係長~課長クラス)「徳兵衛」は、色茶屋『天満屋』の遊女「お初」の馴染客であり、二人もまた客と遊女の関係を超え、相思相愛の関係となっていた。

中の巻br;徳兵衛はお初をいずれ身請けし、自身の妻に迎えようと考えていたが、徳兵衛の叔父である平野屋の主人は二人の関係と徳兵衛の気持ちを知りつつも、徳兵衛の力を見込むあまり、妻の姪と祝言を上げさせ、自身の跡取りにすることを画策。徳兵衛の継母に金を握らせ、話を強引に進める。
強引な主人に対し、お初への想いと己の矜持を踏みにじられた徳兵衛は猛反発。それに対し主人は「ならば金を返せ。二度と大坂の地は踏ませぬ」と嚇怒。徳兵衛も意地になって継母から金を取り返し、主人につき返そうとする。

道行
フシ此の世の名残なごり。夜も名残なごり。死に行く身を譬たとふれば。 スヱテあだしが原の道の霜。一足づゝに消えて行く。夢の夢こそ フシあはれなれ。

下の巻
ワキあれ数かぞふれば暁あかつきの。七つの時が六つなりて残る一つが今生こんじやうの。鐘の響ひゞきの聞納きゝおさめ。 太夫寂滅為楽二人ハルと響ひゞくなり。そんな中、友人の油屋「九平次」に借金の無心をされた徳兵衛。継母より取り返した金を(※)貸してやったのだが、期日になっても返済が無い。返済を迫る徳兵衛に九平次は「一文も借りた覚えが無い」としらを切るばかりか、「証文の印は以前無くして無効届けをお上に出していたもので、俺に押せるわけが無い。お前が印を拾って勝手に押したのだろう。それで俺を強請るとは、偽判遣い以上の大罪人だ」と公衆の面前で罵倒、詐欺師扱いでさんざ辱めた挙句、五人がかりで徳兵衛をフルボッコにしてしまう。その夜、天満屋を訪れた徳兵衛は、お初に「もはや主人に金を返すこともできず、濡れ衣を着せられ世間から悪人と罵倒される屈辱にも耐え難い。自ら命を絶って雪辱を果たす以外に無い」と打ち明ける。徳兵衛に同情したお初とともに曾根崎の森に向かい、そこで二人心中を遂げるのであった。
母・イチ(旧姓・宮澤)|

銀河鉄道の夜宮沢賢治(みやざわけんじ)
宮沢賢治
正字: 宮澤 賢治、1896年8月27日 - 1933年9月21日)は、日本の詩人、童話作家。仏教(法華経)信仰と農民生活に根ざした創作を行い、創作作品中に登場する架空の理想郷に、岩手をモチーフとしてイーハトーブ(Ihatov、イーハトヴあるいはイーハトーヴォ (Ihatovo) 等とも)と名付けたことで知られる。生前彼の作品はほとんど一般には知られず無名に近かったが、没後草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていった。岩手県花町生まれ、盛岡高等農林学校卒業。東京で下宿生活をしながら法華宗(日蓮宗)の活動に勤しんだが、妹の看病のために帰郷する。花巻では農学校教師として働きながら科学や天文学の知識を深め、東北の自然と暮らしをテーマにした詩や童話など独自の宇宙観で著した。
銀河鉄道の夜』(ぎんがてつどうのよる)は、宮沢賢治の童話作品。孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする物語で、宮沢賢治童話の代表作のひとつとされている。作者逝去のため未定稿のまま遺されたこと、多くの造語が使われていることなどもあって、研究家の間でも様々な解釈が行われている。この作品から生まれた派生作品は数多く、これまで数度にわたり映画化やアニメーション化、演劇化された他、プネタリウム番組が作られている。小説の舞台は、宮沢賢治の故郷にあった岩手軽便鉄道沿線風景をモデルにしたとされる。
岩手軽便鉄道
あらすじ
【天の川】(7月22日)
一、午后の授業
銀河系の仕組みについての授業。天の川について先生に質問されたジョバンニは、答えを知りつつ気もそぞろに答えることができない。次に指されたカムパネルラも、答えない。
二、活版所
放課後、ジョバンニは活版所で活字拾いのアルバイトをする。仕事を終えたジョバンニは、パンと角砂糖を買って家へ急ぐ。
三、家
家に帰ると牛乳が未だ配達されていない。病気の母親と、ラッコ漁に出たきり帰ってこない父のことやカムパネルラのことなどを話す。ジョバンニは、銀河のお祭り(烏瓜のあかりを川へ流す)を見に行く、tと言って家を出る。
四、ケンタウル祭の夜
ケンタウル祭の夜
牛乳屋(牧場)に行くが、出てきた老婆は要領を得ず、牛乳をもらえない。途中で、同級生のザネリたちに会い、からかわれる。一緒にいたカムパネルラは気の毒そうに黙って少し笑っている。銀河の祭りに行くザネリたちと反対に、ジョバンニは一人町外れの丘へ向かう。
五、天気輪の柱
天気輪の柱の丘でジョバンニは一人寂しく孤独を噛み締め、星空へ思いを馳せる。
六、銀河ステーション
銀河ステーション
突然、耳に「銀河ステーション」というアナウンスが響き、目の前が強い光に包まれ、気がつくと銀河鉄道に乗っている。見るとカムパネルラも乗っていた。
七、北十字とプリオシン海岸
北十字の前を通った後、白鳥の停車場で20分停車する。二人はその間にプリオシン海岸へ行き、クルミの化石を拾う。大学士が牛の祖先の化石を発掘している現場を見る。
八、鳥を捕る人
気のいい鳥捕りが乗車してくる。彼は、鳥を捕まえて売る商売をしている。ジョバンニとカムパネルラは鳥捕りに雁を分けてもらい食べるが、お菓子としか思えない。突然鳥捕りが車内から消え、川原でさぎを捕り、また車内に戻ってくる。
九、ジョバンニの切符
(以下、全体のおよそ半分にわたり章立てはない)
アルビレオの観測所の近くで検札があり、ジョバンニは自分の切符だけが天上でもどこまででも行ける特別の切符であると知る。
鷲の停車場のあたりで、鳥捕りが消え、青年と姉弟が現れる。彼らは、乗っていた客船が氷山に衝突して沈み、気がつくとここへ来ていたのだという。かおる子(姉の少女)とは長い会話を交わす。
蠍(さそり)の火を眺めながら、かおる子は「やけて死んださそりの火」のエピソードを話しはじめ、ジョバンニたちは、黙ってそれを聞く。その後列車はケンタウルの村を通過する。少女たちと別れ際に、「たった一人の本当の神様について」宗教的な議論が交わされる。
天上と言われるサウザンクロス(南十字)で、大半の乗客たちは降りてゆき、ジョバンニとカムパネルラが残される。二人は「ほんとうのみんなのさいわい」のために共に歩もうと誓いを交わす。その直後、車窓に現れた石炭袋を見たふたりは、非常な恐怖に襲われる。ジョバンニはカムパネルラをはげますが、カムパネルラは気の乗らない返事をしたのち、「あすこにいるの僕のお母さんだよ」といい残し、いつの間にかいなくなってしまう。一人丘の上で目覚めたジョバンニは町へ向かう。今度は牧場で牛乳をもらい、川の方へ向かうと「こどもが水へ落ちた」と知る。同級生から、カムパネルラは川に落ちたザネリを救った後、溺れて行方不明になったと聞かされる。カムパネルラの父(博士)は既にあきらめていた。博士は、ジョバンニの父から手紙が来た、もう着く頃だとジョバンニに告げる。ジョバンニは胸がいっぱいになって、牛乳と父の知らせを持って母の元に帰る。宮澤家の始祖は京都から花巻に移り住んだ藤井将監という人物とされる。子孫は明治の初めに姓を宮澤に改める。子孫の一人初代宮澤右八長昌は花巻に呉服屋「宮右」を繁盛させた。その子の二代目右八の代ではますます盛んになり、京都大阪からも仕入れをしていたという。右八の三男が賢治の祖父の喜助である。喜助は真面目で仕事熱心だったが、分家するときほとんど財産を分けてもらえず、店頭に古着を並べ質屋をはじめた。喜助の長男政次郎は15歳のころから家業を手伝いはじめ、17歳の時から鉄道で関西・四国に出向き、古着や流行おくれになった新古品を大量に仕入れ、店で売るだけでなく卸売りもしていた。また株式投資でも成功し、近隣に多くの小作地を有するようになる。


風たちぬ堀辰夫(ほりたつお)
画像の説明
1904年(明治37年)12月28日 - 1953年(昭和28年)5月28日)は、日本の小説家。それまで私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、意識的にフィクションによる「作りもの」としてのロマン(西洋流の小説)という文学形式を確立しようとした[1]。フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、日本の古典や王朝女流文学にも新しい生命を見出し、それらを融合させることによって独自の文学世界を創造した。肺結核を病み、軽井沢に療養することも度々あり、そこを舞台にした作品を多く残した。戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の立原道造、中村真一郎、福永武彦、丸岡明などから支持され、彼らは堀の弟子のような存在として知られている。戦争末期からは結核の症状が悪化し、戦後はほとんど作品の発表もできず、闘病生活を送ったが48歳で死去した。



|北斎漫画|葛飾北斎(かつしか ほくさい)
葛飾北斎
|宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)は江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出していた。しかし、北斎の絵師としての地位は「富嶽三十六景」の発表により、不動のものとなっただけでなく、風景画にも新生面を開いた。北斎の業績は、浮世絵の中でまさに巨大な高峰であったが、達者な描写力、速筆は『北斎漫画』の中にも見ることが可能である。さらに、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したこと、毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところ大であった。葛飾派の祖となり、後には、フィンセント・ファン・ゴッホなどの印象派画壇の芸術家を始め、工芸家[2]や音楽家にも影響を与えている。シーボルト事件では摘発されそうになったが、川原慶賀が身代わりとなり、難を逃れている。ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵も研究、試みたようである。また、油絵に対しても関心が強かったが、長いその生涯においても、遂に果たせなかった。1999年には、アメリカ合衆国の雑誌『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインした。門人の数は極めて多く、孫弟子も含めて200人に近いといわれる。
北斎漫画(訳本)
葛飾北斎が絵手本として発行したスケッチ画集である。|『北斎漫画』(ほくさいまんが)は、葛飾北斎が絵手本として発行したスケッチ画集である。初編の序文によると、1812年秋頃、後援者で門人の牧墨僊(1775年 - 1824年)宅に半年ほど逗留し300余りの下絵を描いた。これをまとめ1814年(文化11年)、北斎55歳のとき、名古屋の版元永楽屋東四郎(永楽堂)から初編が発行され好評であった。その後1878年(明治11年)までに全十五編が発行された。人物、風俗、動植物、妖怪変化まで約4000図が描かれている。北斎はこの絵のことを「気の向くままに漫然と描いた画」とよんだ。ただし、絵手本集という企画自体も北尾政美の『略画式』から着想を得ている。この絵手本は国内で好評を博しただけでなく、1830年代ヨーロッパに磁器、陶器の輸出の際、緩衝材として浮世絵と共に偶然に渡り、フランスの印象派の画家クロード・モネ、ゴッホ、ゴーギャンなどに影響を与えたとされる。

人物
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女性
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相撲
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すずめ踊り
すずめ踊り(拡大)


画像の説明


代表作『神奈川沖浪裏』(冨嶽三十六景)|

日本が好きな親日国

以下の内容は、『「あの国」は なぜ日本が好きなのか』(発行:三笠書房)より抜粋・転載させていただきました。

好きな理由国名
国旗
好    き    な    内    容
感謝の念台湾
台湾国旗
台湾には日本好きを公言する人が非常に多い。実際、現在の台湾には「日本」が溢れている、親日の台湾人の年齢層は高齢者と若者(哈日族(ハーリーズー))が多いようである。親日家が多い理由は、日本統治地時代に遡る必要がある。
後藤新平 八田與一
後藤新平   八田與一  
台湾総督府は、後藤新平(ごとうしんぺい)を中心として台湾経営の基礎を固めていった。まずは交通インフラの整備で軍隊を動員して約10ヵ月で440kmの道路を通し、その後30年かけて17,000km以上の公道を整備した。マラリアや赤痢などの蔓延する台湾に、下水道の整備や病院の増設・住民への衛生観念の徹底、さらに経済力の強化のため砂糖・樟脳・塩・煙草・米・茶などの増産や原生林の開発を実施した。こうした後藤の施策により台湾はしだいに近代化していく。当初、日本への反発も強かったが、こうした急速な発展ぶりを実感し、日本と日本人への理解が深まっていった。
台湾総督府の土木技術者として尽力した八田與一(はったよいち)も大きな尊敬を集め親日化に貢献した。烏山頭(うさんとう)ダムを造り灌漑施設を整備して、広大な穀倉地帯を現出させた。烏山頭ダムは約1億5,000万トンを貯水し水路全長16,000kmで当時世界最大級であった。戦後、蒋介石らの反日があったが日中国交正常化に伴い日中統治地時代を懐かしむ声が聞かれるようになった。
平成23年3月の東日本大震災の際には200億円もの義捐金を送ってくれた。
感謝の念ポーランド
ポーランド国旗
ポーランド
ロシアとドイツの間に位置する東欧の国であるが、日本での存在感はあまり大きくない。ポーランドが日本びいきになったのは、20世紀前半に日本が度々援助してきたからだと考えられている。ポーランドはロシア・ドイツ・オーストリアといった強国に囲まれ、その圧力に翻弄され続けてきた歴史があり、18世紀後半には列強に分割され国家消滅という事態に陥ったほどである。そうしたなか日本は日露戦争でロシアに勝利、極東の小国が大国ロシアを打ち負かしたと、ポーランド人は歓喜に沸いたという。日露戦争では数千人のポーランド兵がロシア軍に召集されていたが、日本は彼らを捕虜としたあと手厚く保護し祖国へと帰還させている。この措置により日本の好感度がさらに高まった。
感謝の念イラン
イラン国旗
巨大タンカー「日章丸」 ←巨大タンカー「日章丸」
昭和28(1953)年 出光興産(出光佐三)による危険を顧みない果敢なイラン石油の買付けがイランを救った。イランは原油埋量世界4位・天然ガス世界1位の資源大国であり英国資本による開発を進めてが、1951年石油施設の国有化を表明した。これに激怒した英国はペルシャ湾の海上封鎖や国際石油企業と協力して、イラン石油を国際市場から締め出したためにイラン経済は多大なダメージをこうむった。その後昭和54(1979)年イラン革命でアメリカはイランと国交断絶したが、日本は追随せず石油輸入を続けたため日本への信頼はますます深まった。
感謝の念パラオ
パラオ国旗
パラオ位置パラオ風景 パラオ南洋神社
                                パラオの風景    南洋神社
日本から約3,200km離れていて決して近くはないが、親日度は非常に高い。大正8(1919)年から太平洋戦争終結まで日本の委任統治下にあり、日本は交通インフラ・教育・医療などの整備を実施した。現地では「デンワ」「デンキ」「ダイジョウブ」などの日本語や「スギヤマ」「タロー」「ジロー」「タロー」といった日本風の名前を耳にする。国旗は海を表す青地に黄色い月と、色違いではあるが基本的なデザインは日章旗と同じである。日本統治時代の古きよき思い出が、現在のパラオの親日の背景になっている。はじめて訪れる日本人は、その猛烈な親日ぶりにきっと驚かされるに違いない。
感謝の念フィンランド
フィンランド国旗
連合艦「三笠」 ←連合艦「三笠」
スカンジナビア半島に位置するこの国はオーロラやサウナで知られ、またムーミンやサンタクロースがうまれたのもこの国で歴史的にも深い関係にあった。帝政ロシアの支配下で圧制に苦しんでいたが、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎(とうごうへいはちろう)提督を英雄として賞賛し,「トーゴービール」なる伝説もある。日露戦争での日本の勝利により、フィンランドは大正6(1917)年にロシアから独立を果たした。
新渡戸稲造 ←新渡戸稲造
さらに独立後の領土問題での日本人の活躍も日本のイメージアップに大きく影響している。国際連盟事務次長・新渡戸稲造(にとべいなぞう)は世界平和の実現に向けて奔走しており世界注目の中、絶妙な解決方法を提示した。「オーランド諸島の主権はフィンランドに与えるが、公用語や文化習慣はスウェーデン式に」という現実に即した調停案を両国とも受入れ、一滴の血も流さずに平和解決した。この大岡裁きにフィンランド人の日本人観はさらによくなったといわれる。
感謝の念チリ
チリ国旗
モアイ像贈呈記念式典 モアイ像
岩手県南三陸町には南米チリのイースター島で造られた本物のモアイ像が建っている。イースター島は日本から見ると地球」の裏側」になる。このモアイ像はチリ人の親日感情の表れともいえるものである。チリは日本と同じく地震災害が多い国で、昭和35(1960)年5月にはM9.5という観測史上最大の超巨大地震が発生し数千人の死傷者が出、さらに平成22(2010)年2月の大地震でも800人以上が亡くなっている。日本は長年にわたり政府や企業が復興・防災支援を行ってきた。こうした活動はチリの親日感情の醸成につながり、東日本大震災の折には「秩序と思いやりを忘れない日本人を讃える集い」が開催され、参加した多くの人々が日本にエールを送った。マナ(霊力)をもつモアイ像があれば被災者が元気を取り戻せるだろうと貴重なモアイ像を寄贈してくれた。まさかの時の友こそ真の友である。
感謝の念タジキスタン
タジキスタン
タジキスタン地図 タジキスタン山岳地帯
国土のが高地で「世界一の山岳国」であるが、その首都ドゥシャンベには一人の日本人を偲ぶ慰霊碑が建てられている。筑波大学の国際政治学者だった秋野豊(あきのゆたか)博士がタジキスタンと日本をつなぐ架け橋となった。平成3(1991)年に旧ソ連から独立したが、政府と反政府勢力の内戦が勃発し5年にわたる激戦は国土と国民をすっかり疲弊させた。このとき紛争解決と平和に向けて協力を申し出たのが日本だった。危険地域まで入り和平交渉に尽力したのが「ラスト・サムライ」であった。
日本文化フランス
フランス国旗

葛飾北斎(かつしかほくさい)神奈川沖浪裏(富嶽三十六景)」   歌川広重(うたがわひろしげ)大はしあたけの夕立(名所江戸百景)」
神奈川沖浪裏 大はしあたけの夕立
ヨーロッパ屈指の親日国で芸術大国らしく、日本の文化に魅せられ年季のはいった親日国になった。葛飾北斎の浮世絵がヨーロッパで発見された最初とされている。この日本ブームは「ジャポニズム」と呼ばれヨーロッパ美術の流れを変えるほどに浸透した。とくにマネ・モネ・ルノワール・ドガ・ゴッホなど主に印象派画家への影響が大きい。また日本食・茶道・華道・書道・折り紙さらに柔道・空手・合気道といった伝統的な武道などの日本文化が親日度をますます高めている。
日本文化ロシア
ロシア国旗
画像の説明 ←プーチンと山下泰裕
ロシアの親日度には違和感をもつが、しかし実際には日本を心から嫌っているロシア人はあまりいなく、それどこらか親日感情をもつ人が意外に多い。プーチン大統領は親日家の代表であり、また家電など日本製品に憧れるロシア人も目立つ。
米ソ対立時代にアメリカ嫌いが徹底していたロシア人は日本を応援するような心情になっていたといわれる。20世紀以降ロシア人の対日感情が極端に悪くなったことはない、日本人の多くはわだかまりをもっているが、ロシアは親日であり続けている。
日本文化マレーシア
マレーシア国旗

                                 マハティール「Look Eeast」政策マレーシア地図 マハティール首相
マレーシア人を惹きつけてやまないのは、日本の伝統文化(着物・浴衣・茶道・祭・温泉・相撲)や日本の四季である。マレーシアを親日国に変えたのは、昭和56(1981)年にマハティール首相が提唱した「ルック・イースト」政策(東を見よ⇒日本を見習え)だといわれている。アジア通貨危機のおり、日本は早々に支援を表明し資金提供を決めた。これによりマレーシアは危機を脱出し日本評価が高まいり、親日派が主流になった。
日本文化タイ
タイ国旗

                                     山田長政(やまだながまさ)タイ国 山田長政
東南アジアには親日国が多いが、なかでも極端に親日度が高い。日本の自動車メーカーが数多く進出し、乗用車の90%が日本車が占めている。
アユタヤ王朝が君臨していたころ交易に携わる日本人が多数渡航し日本人町を築いたが山田長政が頭目となって活躍し、王女と結婚が認められほど出世した。江戸幕府の鎖国政策で国交は途絶えたが、昭和27(1952)年の国交回復・日本の高度経済成長以降、タイは急速に、親日度を高めていく。タイの教科書には、日本を「アジアを侵略した国」よりも「戦後に急速な経済発展を遂げた国」の方に力点を置いて書いている、日本を大事なビジネスパートナーとみなしている。
日本文化ペルー
ペルー
 日系大統領アルベルト・フジモリ         女子バレー「東洋の魔女」
画像の説明 画像の説明
山岳都市マチュピアやナスカの地上絵で知られたペルーは、日本が南米で始めて国交を結んだ国で、南米最初の日本人移民受入れ国でもある。日本人への信頼が厚いのは、上下水道整備の資金援助・遺跡の発掘保存活動への協力など日本のペルーへの貢献がある。親日感情を呼び起こすきっかけはバレーボール指導者・加藤明氏だとされている。1968年メキシコオリンピックで四位、1982年の世界選手権では日本を破って銀メダルを獲得した。ペルー人が日系人や日本を信頼しているのは「ペルーの恩人」と呼ばれている加藤明氏のお蔭でもある。
歴史的功績インド
インド
    パール判事の顕彰碑(靖国神社)        インディラ(上野動物園)
画像の説明 画像の説明
昭和21(1946)年から昭和23(1948)年にかけて行われた極東軍事裁判(東京裁判)で米・英・仏・ソ連など11人の判事は、東条英機元首相ら人の級戦犯全員に有罪を宣告した。しかしインドのラダビノード・パール判事はただ一人、裁判の不当性を訴え日本人被告全員の無罪を主張した。彼は法律理論で無罪の理由を説明したが、心の奥底には親日感情があったといわれている。また年にはネルー首相が敗戦で打ちひしがれた日本の子供たちへ象をプレゼントしてくれた。さらに昭和天皇崩御の際には異例の「国喪」を宣言したり、インド国会では原爆投下日に黙祷を捧げるなど、インドの好意は他国と一線を画するものだった。これらの親日感情はインドの独立運動を助けたことにあるといわれる。インド独立運動家ビハリ・ボースは指名手配から逃れ日本に亡命してきて東京のパン屋「新宿中村屋」に逃げ込み匿ってもらう。その後日本国籍を取得。苦戦を経て1947年ついに独立を果たすが、親日感情は変わることなく今に至る。
歴史的功績ミャンマー
ミャンマー

   アウン・サン将軍            アウン・サン・スーチー女史
画像の説明 画像の説明
ビルマ独立運動の指導者・アウン・サン将軍は30人の仲間とともに中国・海南島で日本軍から軍事教練を受けており、通常2年かかるものを3ヶ月で叩き込むという壮絶なものであった。結局、日本はビルマ独立の支援はしたが、ときに味方・ときに敵という複雑な関係の国だった。それでもビルマ独立のきっかけをもたらしたことに間違いはなく、戦後も同国で反日教育は行われなかった。これはアジアではビルマだけとされる。ミャンマーが親日なのはこうした歴史が影響している、日本は「独立を助けてくれた国」という認識を多くのミャンマー人が共有している。アウン・サン・スーチー女史ミャンマーにおける非暴力民主化運動の指導者、政治家。現在、国民民主連盟中央執行委員会議長。2016年3月30日にティンチョーを大統領とする新政権が発足したことにともない、外相、大統領府相を兼任(当初は教育相と電力エネルギー相も兼任していた)、さらに新設の国家顧問にも就いた。ビルマの独立運動を主導し、その達成を目前にして暗殺された「ビルマ建国の父」ことアウン・サン将軍の娘である。敬虔なテーラワーダ仏教徒とされる。
歴史的功績ベトナム
ベトナム国旗

   ファン・ボイ・チャウ「東遊運動」拠点          残留日本兵
画像の説明 残留日本兵
ベトナムの親日度が高い理由は
●日本からのODA(政府開発援助)への感謝
日本の歴史への関心⇒「黄色民族の長兄」
●国民総生産・工業生産高⇒「日本の奇跡」
チャウの「東遊運動」を支援した日本人医師・浅羽左喜太郎の功績は大きい。また日本のポツダム宣言を拒否してベトナムに残った兵士も相当数いた。その後ベトナムの南北分裂・ベトナム戦争に発展したが、日本兵の助力がベトナム独立を容易にしたことは間違いない。
日本を目標ブータン
ブータン国旗

   ブータン国王夫妻の来日                   ブータンの稲作地帯
ブータン国王夫妻 ブータン稲作
日本を目標ハンガリー
ハンガリー国旗

                       よく似てるね~!?画像の説明
ハンガリー人と日本人には意外なほど多くの共通点がある。
●姓名の書き順:「ファーストネーム・ファミリーネーム」⇒「姓・名」
●言語:名詞+助詞  動詞+使役語
●挨拶:お辞儀
日本を目標パラグアイ
パラグアイ国旗

                    アルフレッド・ストロエスネル大統領       明治天皇
パラグアイ地図 ストロエスネル大統領 明治天皇
日本から飛行機で約36時間も離れているが超親日国である。農業分野を中心としたODA支援・インフラ整備・保健医療・教育などの協力で、貢献度の高さが評価されている。さらに日本文化とグアラニ(先住民族)文化や言語の共通点・日系移民の存在が親近感につながっている。トロエスネル大統領は自分を明治天皇の生まれ変わりだと信じるまでになり、誕生日(11月3日)が同じだったからとされるが、昭和天皇が崩御された際には8日間の服喪を公布した。
友好関係トルコ
トルコ国旗

      トルコ軍艦「エルトゥールル号」           遭難事故犠牲者慰霊碑(和歌山県串本町)   画像の説明 画像の説明
オスマン帝国の時代にトルコの親日化を決定づける重大事件が発生した。明治天皇に親書や勲章を献上した使節団はイスタンブールへの帰路の途中、熊野灘で台風に遭遇・岩場に座礁し午後9時30分頃に沈没した。地元住民の必死の人命救助で約500人は犠牲になったが69人は救われた。明治天皇は生存者と遺品を日本軍艦で送還させ義援金も届けた。日露戦争での勝利とともに日本に尊敬の眼差しを向けるトルコ人が増え、世界に類を見ない親日国となっていった。またトルコ150年の夢「ボスポラス海峡横断トンネル」の成功は新たな友好の架け橋になった。
友好関係スペイン
スペイン国旗

画像の説明画像の説明
「武」と「名誉」を重視する点で日本人とスペイン人は似ているという。この町には「ハポン(日本)」という姓のスペイン人が600人以上暮らしており、日本武士の末裔だと信じている。仙台藩主・伊達政宗が派遣した支倉常長(はせくらつねなが)を大使とする慶長遣欧使節団200人がスペインを訪れた。スペイン国王・ローマ法王に謁見し帰国したが、数名の日本人が現地(コリア・デル・リオの町)に残った。コリアの人々の熱烈な親日感情の根拠である。
友好関係オランダ
オランダ国旗

    長崎平戸のオランダ商館              商館付医官シーボルト(ドイツ人)
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江戸幕府鎖国後も唯一の交流国となり、蘭学・西洋文化・治水・灌漑技術などの恩恵を受けオランダ語由来の日本語も多い(ビール・コーヒー・カバン・ランドセル・オルゴール・おてんば(ontembaar)など)。日本とオランダとの関係は幾多の変遷を経たが、皇室外交がオランダの国民感情を好転させた。
友好関係キルギス
キルギス国旗

                                          キルギス人
キルギス地図 画像の説明
中央アジアの北東部の天津山脈の麓にあり、遊牧民が暮らす自然豊な国。日本人にとってはあまり馴染みがない国であるが、親日度は非常に高い。現地のキルギス人が日本人を見かけると「きょうだい!」と歓迎してくれるという。彼らに会うとすぐわかるが、キルギス人の容姿・所作・精神性などが日本人と似ており、さらに風景も日本の田舎に似ており懐かしさすら感じる。いろいろな同祖説があり真偽は定かでないが、キルギスの人々が日本に好感を抱いてのは疑いようのない事実である。
日本が頼りモンゴル
モンゴル国旗

          モンゴル相撲                  横綱の土俵入り
モンゴル相撲 横綱の土俵入り
日本の相撲界ではモンゴル出身力士が大活躍している。彼らはみな日本語がうまく、ほぼ完全に日本社会に溶け込んでおり、まごうことなき親日国である。モンゴルが親日になった背景には、ODAによる日本の支援が大きく影響している。経済成長を続けるモンゴルの豊富な地下資源(ウラン・レアメタル・石炭・金・銅など)はほぼ未開発のままで、開発が進めば経済は一気に発展するだろう。日本がモンゴルから受ける恩恵は莫大なものになると予想されている。
日本が頼りパキスタン
パキスタン国旗
                                 玄奘(三蔵法師)が辿った路
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世界最古文明の一つであるインダス文明が栄え、BC4世紀には大帝国の建設を進めるマケドニアのアレクサンドロス大王が、7世紀には経典を求める唐の玄奘(三蔵法師)が訪れた。ほとんどイスラム教徒が占め経済成長のポテンシャルはあるものの治安の悪さが足かせになっている。パキスタンの親日ぶりは街にでればすぐわかる。「タクシー=スズキ」「粉ミルク=メイジ・ベビー」など日本製品に対する信頼の高さがうかがえる。また親日度が高い理由として日本人に尊敬の念を抱いているからというのもある。日本は敗戦後ゼロから復興に尽力し真面目に働き高品質製品を世界に供給し続け経済大国に成長、しかも独自の伝統文化をいまなお保持している。こうした日本人の姿に憧れ、自らの発展の手本にしたいいと考えている。
フィリピン
フィリピン国旗

     ドゥテルテ大統領                       出稼ぎ国
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米トランプ大統領のような破天荒な言動(麻薬犯罪撲滅のために射殺奨励・中国への擦り寄り・米オバマ大統領への侮辱的発言など)で世界の注目を集めたが、日本では事あるごとに親日ぶりを見せつけ「日本は長年の信頼できる友人」と述べた。背景には日本の投資とODA資金援助や日本企業の積極進出がある。海外での出稼ぎを国策としており、日本への出稼ぎはとくに人気が高い。また出稼ぎにきた若いフィリピン女性が日本人男性と結婚して日本に定住するケースも珍しくない。
日本が頼りバングラデシュ
バングラデシュ国旗

  ジルル・ラーマン初代大統領             アジアの最貧国
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国旗は緑地(豊な自然)に赤丸(独立戦争時の血)で日章旗とそっくりだが、昭和46(1971)年の独立時にラーマン初代大統領が敬愛する日本国旗から採り入れたものとされる。「アジアの最貧国」とされるバングラデシュに対し積極的なODA・円借款・無償資金協力さらに海外青年協力隊員の派遣・研修生の受入れなどを官民あげて行なってきた。

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【親日著名人】 パトリック・ラフカディオ・ハーン (小泉八雲)
       ドナルド・キーン (鬼怒鳴門)