名詩のふるさと
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名詩に詠まれた史跡を訪ねて見ましょう

詩跡地図

【中国詩編】
名詩のふるさと

黄河流域図長江流域図
黄河流域図(拡大)長江流域図(拡大)


詩跡説明

詩     跡詩   題作   者
蛾  眉  山
蛾眉山1
蛾眉山2
    白 帝 城 (ダム建設により離島となった)
白帝城
           白帝城正門
白帝城正門





























































































   蛾眉山月の歌
蛾眉山

  邦曲符合蛾眉山月半輪の秋・・・
【参照】
三河岳精会・中国吟行会(第7次)
詩文の解説 「か行」
















   早に白帝城を発す
邦曲符合朝に辞す白帝彩雲の間・・・
【参照】
三河岳精会・中国吟行会(第8次)
詩文の解説 「た行」
長江下り















































































































     李  白
李白
701 ~ 762年、中国盛唐の詩人。字は太白(たいはく)。号は青蓮居士。唐代のみならず中国詩歌史上において同時代の杜甫とともに最高の存在とされる。奔放で変幻自在な詩風から、後世「詩仙」と称される。李白の生母は太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ、名前と字はそれにちなんで名付けられたとされる。5歳頃から20年ほどの青少年期、蜀の青蓮郷を中心に活動した。この間、読書に励むとともに、剣術を好み、任侠の徒と交際した。25歳の頃、李白は蜀の地を離れ、以後10数年の間、長江中下流域を中心に、洛陽・太原・山東などの中国各地を放浪する。自然詩人孟浩然との交遊はこの時期とされ、名作「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」が作られている。32歳の時、安陸県(湖北省)の名家で、高宗の宰相であった許圉師の孫娘と結婚し、長女李平陽と長男李伯禽という2人の子が生まれている。長安に滞在して仕官を求め、友人元丹丘の尽力により、玄宗の妹で女道士となった玉真公主(持盈法師)の推薦を得て長安に上京した。玄宗への謁見を待つため紫極宮(老子廟)に滞在していた折り、当時の詩壇の長老である賀知章の来訪を受け、この時彼から名高い「謫仙人」の評価を得ている。このように宮廷で有力な影響力を持つ2人の推薦を得て、李白は宮廷の翰林供奉(天子側近の顧問役)として玄宗に仕えることになる。以後の3年間、李白は朝廷で詩歌を作り、詔勅の起草にもあたった。この時期、楊貴妃の美しさ牡丹の花にたとえた「清平調詞」三首などの作品が作られ、宮廷文人として大いに活躍している。だが、抜群の才能を発揮する一方で、杜甫が「李白一斗 詩百篇、長安市上 酒家に眠る。天子呼び来たれども 船に上らず、自ら称す 臣は是れ 酒中の仙と」(「飲中八仙歌」)と詠うように、礼法を無視した放埒な言動をつづけたことから宮廷人との摩擦を引き起こし、宦官高力士らの讒言を受けて長安を離れることとなった。長安を去った李白は、洛陽もしくは梁・宋(現河南省開封市・商丘市)で杜甫と出会って意気投合し、1年半ほどの間、高適を交えて山東・河南一帯を旅するなど彼らと親しく交遊した。また阿倍仲麻呂とも親交があり、仲麻呂が日本への帰国途中、遭難して死去したという知らせ(誤報)を聞き、「晁卿衡を哭す」を詠んでその死を悼んでいる。安史の乱の勃発後、李白は廬山(江西省)に隠棲していたが、玄宗の第16子、永王李璘の幕僚として招かれた。だが永王は異母兄の粛宗が玄宗に無断で皇帝に即位したのを認めず、粛宗の命令を無視して軍を動かしたことから反乱軍と見なされ、高適らの追討を受けて敗死した。李白も捕らえられ、尋陽(現江西省九江市)で数ヶ月獄に繋がれた後、夜郎(現貴州省北部)への流罪となった。配流の途上、白 帝城付近で罪を許され、もと来た道を帰還することになる。この時の詩が「早に白帝城を発す」である。赦免後の李白は、長江下流域の宣城(現安徽省宣城市)を拠点に、再び各地を放浪し、宣州当塗県の県令李陽冰の邸宅で62歳で病死した。有名な伝説では、船に乗っている時、酒に酔って水面に映る月を捉えようとして船から落ち、溺死したと言われる。




















           浣 花 渓(かんかけい)
浣花渓
    絶  句
湖畔の柳

 邦曲符合江碧にして鳥逾白く・・・
【参照】
三河岳精会・中国吟行会(第8次)
詩文の解説 「さ行」
杜 甫
杜甫
盛唐の詩人。李白とともに唐代最高の詩人。初唐の詩人・杜審言の孫で、洛陽に近い河南省鞏県の生れ、湖北省襄陽県の人。若い頃は諸国を遊歴し、李白・高適と交わり詩を賦したりしている。長安に出て科挙を受験したが及第せず困窮の生活を送った。安禄山の反乱軍に捕えられ長安に軟禁されて、「春望」を詠じたのが757年46歳の時である。翌々年(759)蜀道の険を越えて成都に到り浣花渓のほとりに草堂を建てて住んだ。
杜甫草堂
この時期が、杜甫の一生のうちで比較的平穏であり、竹木を植え酒を飲み詩を詠い、農民たちと往来した。蜀の地が乱れたため、また貧と病に苦しみながら各地を流浪し不遇のうちに生涯を終えた。
           国破れて山河在り
国破れて山河




     春  望夏草やつわものどもが夢の跡

 邦曲符合国破れて山河在り・・・
【参照】
三河岳精会・中国吟行会(第9次)
詩文の解説 「さ行」









               西  湖西湖
               香 山 寺香山寺


























      酒に対す酒に対す

 邦曲符合蝸牛角上何事をか争う
【参照】
三河岳精会・中国吟行会(第5次)
詩文の解説 「さ行」
     西湖地図西湖地図
    西湖地図(拡大)香山寺周辺図
  香山寺周辺図(拡大)

























  
白 居易
白居易
772~846、中唐の詩人。日本では「白楽天」の名でもよく知られいる。陝西省渭南県の人。聡明で生後5、6か月で、「之」「無」の字を覚えていたという(?)。5、6才で作詩を学び、15、6才で都に出て、大いに認められた。 しかし、44才の時讒言され、江州・司馬に左遷された。820年都に戻ったが政治向のことで再び上疏したが、聞き入れられず、自分から地方に出ることを願い出て杭州の刺史に任ぜられた。そこでは、西湖に「白堤」を増築して眺望をよくする一方州民の飲料水や灌漑用水の確保に努力した。西湖白堤55才のとき、病気のため洛陽へ帰り、閑職についたが842年退隠した。晩年は仏教に帰依し、香山寺の僧如満らと交わったが、75才で没した。白居易は、詩を作るたびに文盲の老婆にその詩を聞かせ、それが理解できるまで作り直したというエピソードがあるほどで、その詩は平易通俗、温厚和平と称された。そのため、多くの人に愛誦された。白居易は儒教的文学観に立って、政治の参考にするような諷論詩を重んじたが、世人は「長恨歌、琵琶行」など感傷的な詩をもてはやした。 白居易の詩文はわが国にも伝わり、平安以後の日本文学に最も大きな影響を与えた。「白氏文集」は平安貴族の教養でありベストセーだったようだ。しかし、白居易の詩は「唐詩選」には一句も載っていない。

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【日本詩編】
現代日本地図

古地図五街道


詩     跡詩   題作   者
       名古屋城
名古屋城

         福岡城福岡城








     名古屋城
金しゃちほこ
 邦曲符合金鱗(きんりん)燦爛(さんらん)高躉(こうぼう)耀(かがや)く・・・
【参照】
詩文の解説 「な行」

     名槍日本号 名槍日本号
 邦曲符合美酒元来吾が好む所・・・
 酒はのめのめのむならば・・(黒田節)
【参照】
詩文の解説 「ま行」



    松口月城
松口月城

 明治20年(1887)~昭和56年(1981)。名は栄太。月城と号す。福岡市に生まれる。幼少より秀才の誉れ高く、熊本医学専門学校を卒業、明治20年(1887)~昭和56年。18歳にして卒業して医者となり、世人を驚かせた。当時、久留米出身で熊本に住んでいた詩壇の重鎮・宮崎来城に漢詩を学び、以来この道を極め福岡に「月城吟社」を経営し、現代詩壇の雄として活躍、書画にも秀でていた。昭和56年95歳で没。「月城詩集」がある。我が「岳精会会詩」の作詩者でもある。



      安曇野(長野県)
安曇野






























   野の仏
野の仏
 邦曲符合紅おう色は褪せぬ路岐の仏・・
【参照】詩文の解説 「な行」




























     武田静山
 武田静山
大正1(1912)年~ 昭和58(1983)年 山形県東村山郡(現・山形県山家本町)に生れる。本名:昌俊。岩手医学専門学校(現・岩手医科大学)卒業後、軍医大尉として北支駐屯軍に勤務、戦後 山形市内に内科「静山堂」を開業し地域医療に尽力され、勲五等瑞宝章を受章、昭和50年頃より本格的な作詩活動を始められた(総数600首以上)。「岳精流吟魂碑除幕式を祝す」(続天34)など多くの作詩を通じ岳精流日本吟院にも貢献され、顧問も務められた。昭和58年(1983)2月15日 70歳で亡くなられた。
また弟の武田昌憲氏が昭和54年4月21日に村山市東沢公園内に岳精会第一の吟魂碑を建立された。第一吟魂碑


        靖国神社(東京)
靖国神社


















































































       九段(くだん)の桜
九段の桜
  邦曲符合至誠(しせい)烈烈(れつれつ)乾坤(けんこん)を貫く・・・
【参照】詩文の解説 「か行」








































































       本宮三香(もとみやさんこう)
本宮三香
明治11年(1878)~昭和29年(1954)。明治・大正・昭和三代に亘る漢詩人。千葉県佐原市津宮に生まれ、幼少より漢学を渡辺存軒に、漢詩を依田学海に学んだ。日露戦争に従軍し金鵄勲章を賜った。凱旋後、専ら晴耕雨読詩作の日々を送り、乃木将軍を訪ね詩話を楽しんでいる。大正2年水郷の詩人八木方山らと共に「江南吟社」を創立、昭和11年「水郷吟詠会」を組織し会長に推された。故木村岳風の日本詩吟学院講師を委嘱されるなど、作詞・詩吟の普及に力を傾けた。後年靖国神社から祭典献詠詩集の功績を称えて感謝状を贈られた。作詞実に一万余首、酒を好み花晨月夕風雅を事としたが、昭和29年77歳で病没した。
























































     川中島古戦場(長野県)
川中島古戦場

川中島古戦場地図


















































































  不識庵(ふしきあん)機山(きざん)を撃つの図に題す
川中島合戦
  川中島合戦銅像(八幡原史跡公園)
川中島古戦場記念像
武田信玄 上杉謙信
武田信玄(機山)  上杉謙信(不識庵) 
  邦曲符合鞭声(べんせい)粛粛(しゅくしゅく)夜河を過る・・・
【参照】
三河岳精会・国内吟行会(信濃路)
詩文の解説 「は行」















































































         頼 山陽(らい さんよう)
 頼 山陽
安永9年12月27日(1781年1月21日)~天保3年9月23日(1832年10月16日))は、江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。幼名は久太郎(ひさたろう)、名は襄(のぼる)、字は子成。山陽、三十六峯外史と号した。主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。父の頼春水は若くして詩文や書に秀で、大坂へ遊学し尾藤二洲や古賀精里らとともに朱子学の研究を進め、大坂江戸堀北(現・大阪市西区江戸堀)に私塾「青山社」を開いた。山陽はこの頃の安永9年(1781年)に誕生した。母は飯岡義斎の長女で梅颸の雅号を持つ文人であり、その妹は尾藤二洲に嫁いでいる。天明元年(1781年)12月、父が広島藩の学問所創設にあたり儒学者に登用されたため転居し、城下の袋町(現・広島市中区袋町)で育った。父と同じく幼少時より詩文の才があり、また歴史に深い興味を示した。春水が江戸在勤となったため叔父の頼杏坪に学び、寛政9年(1797年)には江戸に遊学し、父の学友・尾藤二洲に師事した。帰国後の寛政12年(1800年)9月、突如脱藩を企て上洛するも、追跡してきた杏坪によって京都で発見され、広島へ連れ戻され廃嫡のうえ自宅へ幽閉される。これがかえって山陽を学問に専念させることとなり、3年間は著述に明け暮れた。なお、『日本外史』の初稿が完成したのもこのときといわれる。謹慎を解かれたのち、文化6年(1809年)に父の友人であった儒学者の菅茶山より招聘を受け廉塾の都講(塾頭)に就任した。ところが、その境遇にも満足できず学者としての名声を天下に轟かせたいとの思いから、文化8年(1811年)に京都へ出奔し、洛中に居を構え開塾する。文化13年(1816年)、父・春水が死去するとその遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓。翌々年(1818年)には九州旅行へ出向き、広瀬淡窓らの知遇を得ている。文政5年(1822年)上京区三本木に東山を眺望できる屋敷を構え「水西荘」と名付けた。この居宅にて営々と著述を続け、文政9年(1826年)には代表作となる『日本外史』が完成し、文政10年(1827年)には江戸幕府老中・松平定信に献上された。文政11年(1828年)には文房を造営し以前の屋敷の名前をとって「山紫水明処」とした。山陽の周辺には、京坂の文人が集まり、一種のサロンを形成した。その主要メンバーは、父・春水とも関係があった木村蒹葭堂と交友した人々の子であることが多く、大阪の儒者篠崎三島の養子・小竹、京都の蘭医小石元俊の子・元瑞、大阪の南画家岡田米山人の子・半江、京都の浦上玉堂の子・春琴が挙げられる。さらに僧雲華、仙台出身で長崎帰りの文人画家・菅井梅関・尾張出身の南画家・中林竹洞、やや年長の先輩格として陶工・青木木米、そして遠く九州から文人画家・田能村竹田も加わり、彼らは盛んに詩文書画を制作した。また、その後も文筆業にたずさわり『日本政記』『通議』などの完成を急いだが、天保年間に入った51歳ごろから健康を害し喀血を見るなどした。容態が悪化する中でも著作に専念したが、天保3年(1832年)に死去。享年53。山田風太郎著『人間臨終図鑑』によれば山陽は最後まで仕事場を離れず、手から筆を離したのは実に息を引き取る数分前であり死顔には眼鏡がかかったままであったという。また、遺稿とされる「南北朝正閏論」(『日本政記』所収)の自序にはこれを書く決意をしたのは9月12日の夜であったことを記している。京都円山公園・長楽寺に葬られた。安政の大獄で処刑された頼三樹三郎は三男。子孫の1人に中国文学者の頼惟勤がいる;

























奥の細道(松尾芭蕉)

   奥の細道行程図(拡大)           衣川館(ころもがわのやかた)(高館義経堂)      芭蕉句碑夏草や つわものどもが 夢の跡
奥の細道行程図衣川館芭蕉句碑
   【参考】全行脚図(詳細)

芭蕉行脚図

【松尾芭蕉】 正保元(一六四四)年~元禄七(一六九四)年。伊賀上野生まれ。本名松尾宗房。俳人。下級武士の家に生まれ十三歳で父を亡くし、十九歳ごろには藤堂家の嗣子良忠に仕えた。良忠が京都の貞門派俳人の北村季吟の指導を受けていたた、芭蕉も貞門俳諧に親しむ。良忠の没後藤堂家を辞し、京都へ出奔し季吟に師事。郷里に戻った後、江戸に下向し俳号を桃青として、談林派の俳人と親交を深めた。談林俳諧は形式にとらわれない軽妙闊達さを特徴とし、西山宗因を中心に大阪で隆盛を誇っていた。新風にふれて貞門から談林へと転換していく。さらに、談林俳諧に限界を感じ漢詩文に傾倒し、独自の句境を見出そうと俳号も芭蕉と改める。江戸大火で類焼した深川芭蕉庵は再建されたが、俳諧を深化させるため「野ざらし紀行」の旅に出た。その途中名古屋で「冬の日」「春の日」を刊行し、蕉風の基礎を作って江戸に戻った。続いて「鹿島紀行」「笈の小文」「更科紀行」の旅に出て漂泊詩人としての意識に目覚めた。休む間もなく四十六歳のとき人生最大の「奥の細道」の旅に出発した。その後も漂泊の思い」はとどまらず、各地を転々として「曠野」「幻住庵記」「ひさご」「猿蓑」などを刊行した。いったん江戸」に戻った芭蕉は九州を目指すが、大坂で病に倒れ、多くの門人にみとられて、五十一歳の生涯を閉じた。旅に病んで夢は枯野をかけめぐる(辞世の句)連歌から派生した俳諧を、芸術の域にまで高めた芭蕉の功績は大きく、後に俳聖と仰がれ、その影響は今日にまで及ぶ。「奥の細道」の旅立ちの地(出発地)をめぐって論争があります。本文では「千住(せんじゅ)というところにて」とあるが、北岸なら足立区の北千住、南岸なら荒川区の南千住となり両区が言い争っています。足立区は「千住」という地名はほとんど足立区内にあり、千住=北千住と考えており素盞雄神社の句碑は北千住の碑を移したと主張。荒川区の言い分は本に出てくる別れの場面は、江戸の境界で両区を結ぶ江戸最古の千住大橋がぴったりで、南側から上がり北へ橋を渡りながら見送りの弟子たちと別れたのではと反論、地元の素盞雄神社には江戸時代の芭蕉句碑も建っている。さらに出発地は深川とすべきとの意見もある。ゴール(最終地点)は芭蕉が当初から計画しており知人宛の手紙にも書いているが、出発地に関しては資料が見つかっていない