中国の故事名言
詩文に引用される中国の故事名言についての解説
以下の内容は中国故事物語(河出文庫)より抜粋・引用させていただきました。

【教養の巻】

【詩句】

国破れて山河在り (杜甫「春望」)

山河在り

安禄山(あんろくざん)は18万を超える兵力を握り范陽にいたが、玄宗皇帝の不忠の臣を討つと称して兵を挙げた(安史の乱)。洛陽をおとし大燕皇帝と名乗り、長安に逃れた玄宗も都落ちのやむなき至った。杜甫も妻子をつれて転々としたが捕まり因人として長安に送られた。杜甫の官位は低く白髪の老人であったことから監視もゆるやかで、見る景もなく荒れ果てた都の姿を見た。唐朝の国は破れたのである。





春宵一刻値千金 (蘇軾「春夜」)

春夜

蘇軾をはじめ王安石・欧陽修・司馬光・程明道・程伊川など逸材が多く輩出した異彩ある一時期で、学問と文化の歴史上で新しい境地を現出した。これらの人物は、いずれも能吏・碩学・文豪であって特徴ある個性の持主ではあったが、その底には共通した考え方や感じ方が流れている。それは人間の存在・心の活動を宇宙のなかの一存在として客観的に見ようと努力したことであり哲学的で深い思索があった。
過ぎやすい春の夜の一刻一刻を千金の値あるものとして受止め、花の清香・月照月影・光を映す葉・なまめかしい空気など人間の営みは何ほどの価値があろう。楼台の歌も管弦も院落(庭)に立てば細く遠くから聞こえてくる、庭の鞦韆(ぶらんこ)は乗る乙女もなく垂れさがり、夜は沈々と更けていく。蘇軾の詩はさわやかで飄逸であり、行雲流水のごとく自然でたくらみがない。



春眠暁を覚えず (孟 浩然「春暁」)

春眠暁

唐朝は詩の時代といわれる。なかでも玄宗が位にあった開元・天宝(712。755)の盛唐といわれる時期には、唐朝の充実した力がおのずから外に溢れ出たような、内容豊かでのびのびとした力量の詩人たちが多く出ている。しかも多くの詩人たちが、それぞれ強い個性と相異なる性格や感受性を持ち合わせ、まさに百花椋乱の態であった。孟浩然(689’740)は、岑参や高適と対酵的な幽静派である。幽静派の雄は王維であったが、孟浩然はこの王維に才を認められた詩人であった。しかしかれは飾りけのない性格と、放縦と、生来の無欲がたたって良い地位につくことができず、五十二歳で貧窮のうちに病死した。幽静派の詩の傾向は「静」「幽」「清」「淡」という言葉で表現できよう。その対象は広大な動的な世界ではなく、小さく奥深く静かなのである。つまり繊細な感覚が自然の微妙を観照し、そこに写し出された世界がこの人たちの詩なのである。


天高く馬肥ゆ(杜審言)

万里の長城

昔の中国(中原)は、しばしば匈奴(きょうど)という北方民族に辺境を侵され、本土まで荒らされ歴代の王朝は防戦に悩まされ通しだった。この匈奴は蒙古民族あるいはトルコ族の一派といわれ、殷の初め頃に興り晋の初めごろに亡びたようだが、周・秦・漢・六朝と約2,000年にわたって中国の悩みの種となった剽悍な民族。秦の始皇帝のように侵入を防ぐために万里の長城を築いた帝もあれば、美人をその首領に贈って懐柔した弱腰王朝もあった。匈奴は乗馬と騎射が得意で、いつも集団を作って風のように襲いかかり矢の雨を降らせて人馬を殺傷し財物をかすめて、風のように去って行くのが常だった。彼らの住居は中国本土の北に広大な草原で放牧と狩猟が日常だった。春から夏にかけて草原で原いっぱい食べた馬は、秋には丸々と肥えた。
匈奴秋に至る 馬肥え弓勁し 即ち塞に入る(匈奴伝)
雲浄くして妖星落ち 秋高うして塞馬肥えたり(杜審言)
この塞馬は漢軍側の塞の馬を指している。 

年々歳々花相似たり (劉希夷「代悲白頭翁」)

この詩は詩吟の教本にはほとんど無く、ここでは詩文の内容を理解して下さい。
【作者】劉希夷:初唐の詩人。(651~678)。二十八歳という若さで、命を落とす。字は希夷、或いは廷芝。汝州(現・汝州市)の人。二十四歳で進士に合格するが、仕官せずに巴蜀、江南を遊覧する。その行より帰って後、洛陽の居にて、この作品や『故園置酒』を作った。
汝州(河南省汝州市)の出身。幼くして父を失い、母と共に外祖父のもとに身を寄せ20歳頃まで過ごした。容姿はすぐれており、物事にこだわらない性格なので素行が悪かった。酒と音楽を好み、琵琶の名手であった。675年(上元2年)進士となるが仕官せずに各地を遊覧した。
“年年歳歳花相似 歳歳年年人不同”で有名な詩「代悲白頭翁」が代表作。この詩を発表前に聞いた母方の親戚である宋之問は、非常に気にいって詩を譲るよう頼んだが、劉希夷はこれを断った。怒った宋之問は下僕に彼を殺させたという説がある。

年年歳歳花相似

【詩文】

 (白文)    (訓読)
洛陽城東桃李花, 洛陽城東 桃李の花,
飛來飛去落誰家。 飛び來り飛び去りて 誰が家にか落つる。
洛陽女兒惜顏色, 洛陽の女兒 顏色を惜しみ,
行逢落花長歎息。 (ゆくゆく)く落花に逢ひて 長歎息す。
今年花落顏色改, 今年 花落ちて 顏色改まり,
明年花開復誰在。 明年 花開きて 復た誰か在る。
已見松柏摧爲薪, '已に見る  松柏の(くだ)かれて 薪と爲るを,
更聞桑田變成海。 更に聞く桑田の變じて 海と成るを。
古人無復洛城東, 古人 ()た洛城の東に無く,
今人還對落花風。 今人 (なほ)も對す 落花の風。
年年歳歳花相似, 年年歳歳 花()ひ似たれども,
歳歳年年人不同。 歳歳年年 人同じからず。
寄言全盛紅顏子, 言を寄す 全盛の紅顏子,
應憐半死白頭翁。 應に憐むべし 半死の白頭の翁。
此翁白頭眞可憐, 此の翁 白頭  眞に憐む()し,
伊昔紅顏美少年。 ()れ 昔 紅顏の美少年。
公子王孫芳樹下, 公子王孫 芳樹の下,
清歌妙舞落花前。 清歌妙舞 落花の 前。
光祿池臺開錦繍, 光祿の池臺に 錦繍を開き,
將軍樓閣畫神仙。 將軍の樓閣に 神仙を(ゑが)く。
一朝臥病無人識, 一朝 病ひに臥して 人の識る無く,
三春行樂在誰邊。 三春の行樂 誰が邊にか在る。
宛轉蛾眉能幾時, 宛轉たる蛾眉 ()く幾時ぞ,
須臾鶴髮亂如絲。 須臾にして 鶴髮亂れて 絲の如し。
但看古來歌舞地, ()だ看る  古來歌舞の地,
惟有黄昏鳥雀悲。 ()だ黄昏に 鳥雀の悲しむ有るを。


【語釈】
洛陽城東桃李花:洛陽の街の東の桃李の花は。洛陽:唐代の東都。首都・西都たるべき長安とともに当時のみやこ。城:街。都市。桃李花:モモやスモモの花。春を代表する花。美しいものを指す
飛來飛去落誰家:(花びらは)ひらひらと風に舞い、どこらあたりに散ったのか。~來~去:(…して)行ったり来たり。動詞性の用言の後に附く。落誰家:どの辺りに落ちるのか。「家」は、必ずしも建物の「いえ」のみをいっていない。誰家:だれ。どこ。「家」字の意味は強くない。 
已見松柏摧爲薪:すでに、大変革(松やコノテガシワのような千年も長く繁茂する樹木も、一旦砕かれるとマキとなってしまうこと)が見受けられた。「松柏摧爲薪」:松やコノテガシワのような千年も長く繁茂する樹木も、一旦砕かれるとマキとなってしまう、ということの言。そこでの「松柏」の意は、墓場の木。墓場に故人を偲んで植えた松柏も、年月の経過とともに墓地が忘れ去られて、墓地も廃棄されて、やがては、そこの松柏も砕かれてマキとなってしまうこと。「柏」は、万代に亘って常緑・常青であり、悠久を表す「松柏」は、当然ながら常緑のものであって、「柏」とは、常緑樹「コノテガシワ」のこと。
一朝臥病無人識:ある日、病に臥してしまっては、交際する知りあいもいなくなり。
三春行樂在誰邊:春季の行楽はどの辺りで行われているのか。(病に臥せって、一人で家にいると知るよしもない。)三春:春の三ヶ月で、孟春(陰暦正月)、仲春(陰暦二月)、季春(陰暦三月)のこと。行樂:遊び楽しむ。外出旅行して遊ぶ。在誰邊:どこであるのか。
宛轉蛾眉能幾時:蛾の触角のようになめらかな弧を描いた眉の美女もその若さと美貌を誇れるのは、どれくらいの期間可能なのか。(あっという間に年月は過ぎ去ってしまうぞ)宛轉:眉の美しく曲がるさま。蛾眉:ガの触角のような(美しい形の)マユ(をひいた化粧)をしている(若くて美しい)女性。蛾の触角のようになめらかな弧を描いた眉で美女のことをいう。後に、白居易も『長恨歌』で「六軍不發無奈何,宛轉蛾眉馬前死。」として使った。能:よく。幾時:どれほど。
須臾鶴髮亂如絲:忽ちにして白髪になって糸のように乱れることだろう。須臾:忽ち。また、暫時。しばらく。すこしのひま。ここは、前者の意。鶴髮:白髪。ここでは動詞として、白髪になる、意で使っている。「須臾白髮亂如絲」ともする。
但看古來歌舞地:古来からの歌舞・遊興の地で繁華でもあった(ここも、現在では、)ただ……を見かけるだけだ。但:ただ…だけ。後出の「惟」と近義。惟有黄昏鳥雀悲:たそがれに、小鳥が悲しげに啼いている(姿が)あるだけである。 ・惟有:ただ…だけがある。=唯有。
【通尺】
「洛陽の町の東に咲く桃や李の花は 花チラシの風に誘われて飛び来たり、また飛び去ってはどこかの誰かの家におちる。洛陽の美少女は花を眺め、町を歩き落花に出会ってはため息をつく。今年も花の散りゆくように顔色も衰え変わってゆく。
明年も復た花は咲く春が来るも誰がこのように健在で花を見る人があろうか。…洛陽の町の東でこの落花を眺めた昔の人はもはやいない。
来る年ごとに花の姿は変わりないけれど、来る年ごとに見る人の姿は変わる。
花の盛りの紅顔の若者よ。今まさに老いぼれ死の淵に片足をかけたような白髪の老人を憐れみたまえ・・」 あれほど咲き誇った花は見る影もなく散ってしまう。
人もまた時々刻々老いゆきて、そして彼の黄泉の世界へと去ってゆく。一時一刻も
とぎれることのない大自然の動き、諸行無常は世の習い。花咲くも無常であり、花散るもまた無常で常に変化してやまないのがこの世の常なのだ。諸行無常の世の中に、常なるものは一つもなく明日のわが命さえ知れない。このはかない現世(うつしよ)なのに、いつまでもあるかのように迷夢に酔い痴れてお金に執着し、物にとらわれ名声、名誉を追い求め、限りなく欲望を募らせて争い奪い合い憎しみ合い、殺し合っての愚を繰り返しているのが私ども人間なのである。
【解説】
白頭吟:『代悲白頭翁』ともいう。『白頭吟』は、楽府題で、楽府。『代悲白頭翁』は「白頭を悲しむ老翁になり代」って作った、ということ。劉希夷の二つの代表作のうち、女性の一生を歌ったもの。なお、男性の一生を歌ったものは『公子行』「天津橋下陽春水,天津橋上繁華子」であり、ともに彼の代表作である。嘗て歌われていた。なお、この作品を宋之問の作『有所思』ともするが、劉希夷の方が強い。この詩は、時の移ろいの悲しみを歌っている。唐の杜秋娘『金縷曲』(勸君莫惜金縷衣)や、宋の朱熹『偶成詩』(少年易老學難成)のモチーフの元とも謂える。蛇足になるが、我が国でいえば、小野小町の「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに」にでもなろうか。ほぼ全篇、対句による構成である。なお、この原詩は日本流布バージョン『唐詩選』のものである。『楽府詩集』などのものとは微妙に出入りがある。楽府題『白頭吟』は、漢・卓文君の「皚如山上雪,皎若雲間月。聞君有兩意,故來相決絶。今日斗酒會,明旦溝水頭。」が有名である。
飛來飛去落誰家:(花びらは)ひらひらと風に舞い、どこらあたりに散ったのか。~來~去:(…して)行ったり来たり。動詞性の用言の後に附く。落誰家:どの辺りに落ちるのか。「家」は、必ずしも建物の「いえ」のみをいっていない。誰家:だれ。どこ。「家」字の意味は強くない。
洛陽女兒惜顏色:洛陽の少女は、色香を出し惜しみ。顏色:顔の色。色、というだけの意味もあるが、ここは前者。「洛陽女兒好顏色」ともする。その場合は、「洛陽の少女は、好しき顏色で」、となる。勿論、「洛陽の少女は、色を好み」等ではない。蛇足だが、「好色」は、日中同義だが…。
行逢落花長歎息:やがて、(人生の晩春の)落花の時節に出逢って、長いため息を吐(つ)く。婚期、好機を逸することをいう。行:やがて。まさに…しようとする。行将。近い将来のことを表す表現。「行逢」の用例は「出かけていって……に出逢う」というのが多いがそれは別義。例えば白居易の『自思益寺次楞伽寺作』の「行逢禪客多相問,坐倚漁舟一自思。」等のように。「坐見落花長歎息」ともする。その場合、「なんともできずにただ手を拱(こまね)いて、眺めているうちに(人生の晩春である)落花の時節に出逢って、長いため息を吐(つ)く。」。
今年花落顏色改:今年は、(もう)花が散り落ちて、花の色香が改まったが。 *後世、唐・岑參は『韋員外家花樹歌』で、「今年花似去年好,去年人到今年老。始知人老不如花,可惜落花君莫掃。君家兄弟不可當,列卿御史尚書郞。朝囘花底恆會客,花撲玉缸春酒香。」と、似た趣をうたう。
明年花開復誰在:明年、花が咲き開く時には、誰か(その女(ひと)は)まだ在(い)るだろうか。(もう、いまい)。
已見松柏摧爲薪:すでに、大変革(松やコノテガシワのような千年も長く繁茂する樹木も、一旦砕かれるとマキとなってしまうこと)が見受けられた。「松柏摧爲薪」:松やコノテガシワのような千年も長く繁茂する樹木も、一旦砕かれるとマキとなってしまう、ということの言。「松柏」の意は、墓場の木。墓場に故人を偲んで植えた松柏も、年月の経過とともに墓地が忘れ去られて、墓地も廃棄されて、やがては、そこの松柏も砕かれてマキとなってしまうこと。「柏」は、万代に亘って常緑・常青であり、悠久を表す「松柏」は、当然ながら常緑のものであって、「柏」とは、常緑樹「コノテガシワ」のこと。
更聞桑田變成海:更にその上、桑田が變じて海と成ることを聞く。「桑田變成海」は「滄桑之變」=「滄海桑田」=「滄桑」のこと。滄海が変じて桑畑になることで、世の中の変化の激しいことをいう。東海が三たび桑田となる変化があったという。
古人無復洛城東:昔の(あの知り合いの)人は、もう洛陽の東の郊外には住んではいなく。古人:古い知り合い。無復:もう居ない。二度とは居ない。再びは、いない。全然…ない。また…なし。「復」は語調を整え、強めるためでもある。語法上は、荊軻の『易水歌』「風蕭蕭兮易水寒,壯士一去兮不復還。」に同じ。
今人還對落花風:今、ここに残っている人は落花の無常の風に対面している。今人:前出「古人」に対応して使っている。還:なおも。なおもまた。對:…に対している。…に向かっている。落花風:花を散らし、(ふりゆく年月を暗示する)無常の風。
年年歳歳花相似:毎年、花は同じような色香のものを著けるが。この聯「年年歳歳花相似,歳歳年年人不同。」は、「花=自然界:営みは不変」と「人=人間界:営みは容易に変遷していく」ということを対比させて展開している。年年歳歳:毎年。「年年歳歳」と後出「歳歳年年」とは同義。※寄言全盛紅顏子:分かって下さい、今を盛りとする若者よ。言葉を与えますが、(悟ってください)今を盛りとする若者のみなさん。寄言:言葉を与えて人に悟らせる。言づてをする。ここは前者。全盛:今を盛りとする。紅顏子:若者。子:人。
應憐半死白頭翁:(この)半死の白髪の老人を憐れんでください。「須憐半死白頭翁」ともする。
此翁白頭眞可憐:この老人の白髪は、まことに憐れむべきようすで。
伊昔紅顏美少年:これ(白髪の老翁)は、昔は若々しい美少年であった。。 ・伊:これ。かれ。代詞。
公子王孫芳樹下:貴公子たちが香しい樹の下で。公子王孫:貴公子たち。
清歌妙舞落花前:麗しい歌やおどりを散りゆく花の下で行っている。清歌妙舞:の意は、「甲や乙」ということ。「『清歌』や『妙舞』」ということ。「『清歌』と『妙舞』」ということではない。
光祿池臺開錦繍:高官のお屋敷の庭の池の畔の高台では麗しい情景が展開され。光祿:光祿勳(光禄勲)のことで、ここでは、前漢時、光禄勲であった王根のこと。高官の意で使われている。光祿勲は前漢の官制で、九卿の一。宮殿の掖門を警護する役目で、武帝の武帝の太初元年に名称を「郎中令」から「光祿勳」と改められて、設置される。錦繍:にしきと縫い取りで、美しいものの喩え。「光祿池臺文錦繍」ともする。
將軍樓閣畫神仙:後漢の権臣である大將軍・梁冀が楼閣に神仙の像を描かせた(ように勢威がある状態ではあっても)。
この詩は劉希夷(劉廷芝)の作ではなく舅の宋之問の作であるという説があり、どこまで信憑性があるか疑わしい。宋之問の作では「洛陽」⇒「幽閨」「行く行く見る」⇒「坐して見る」など数ヶ所にわたって字句の異同がある。

花発きて風雨多し (于 武陵「酒を勧む」)


柳は暗く花は明らか (陸游「遊山西村」)

陸游

【作者】陸 游(りく ゆう)(1125年11月13日(宣和7年10月17日) - 1210年1月26日(嘉定2年12月29日))は、南宋の政治家・詩人。字は務観。号は放翁。通常は「陸放翁」の名で呼ばれる。越州山陰(現在の浙江省紹興市)出身。
南宋の代表的詩人で、范成大・尤袤・楊万里とともに南宋四大家のひとり。とくに范成大とは「范陸」と並称された。現存する詩は約9200首を数える。
金への抵抗を主張して和平派から排斥され、隆興の通判職を辞めさせられた、悲憤やる方なく旅装をととのえ長年住み慣れた隆興を去り、故郷の山陰に戻った。

その詩風には、愛国的な詩と閑適の日々を詠じた詩の二つの側面がある。強硬な対金主戦論者であり、それを直言するので官界では不遇であったが、そのことが独特の詩風を生んだ。




【詩文】

柳暗花明


(白文)七言律詩   (訓読)

遊山西村     山西の村に遊ぶ
莫笑農家臘酒渾, 笑ふ莫れ 農家の臘酒は(にご)れると,
豐年留客足鷄豚。 豐年なれば 客を留むるに 鷄豚足る。
山重水複疑無路, 山重水複 疑ふらくは、路無きかと,
柳暗花明又一村。 柳暗花明 (また)一村。
簫鼓追隨春社近, 簫鼓追隨して 春社近く,
衣冠簡朴古風存。 衣冠簡朴にして  古風存す。
從今若許閒乘月, 今 ()り ()し (ひま)に月に乘ずるを許さるれば,
拄杖無時夜叩門。 杖を ()き 時 無く夜門を叩かん。


【語釈】
遊山西村:作者が閑居していた浙江省の郷里の山陰。山西の村は、固有名詞ではなかろう。紹興西部の鑑湖附近。秋瑾の故郷でもある。作者はそこで、道に迷い、行き詰まったものの、急に道が開けて、昔ぶりを残している村里に迷い入ってしまった。恰も晉の太元年間に、武陵の漁人が溪流に縁って行き、やがて路に迷い、桃花の林に至った故事を想い起こしている。

臘酒

莫笑農家臘酒渾:農家の臘月仕込みの酒は濁っていると、お笑いなさるな。莫笑:わらうなかれ。臘酒:臘月(旧暦十二月)に仕込んだ酒。前年に仕込んだ酒を詠うものに『詩經・國風・風』「六月食鬱及,七月亨葵及菽,八月剥棗,十月穫稻。爲此春酒,以介眉壽。」がある。渾:濁る。≒混。
豐年留客足鷄豚:豊年だったので(家畜のえさも充分にできたので、)お客さん(であるわたし)への鷄や豚などのごちそう(食肉)も充分にある。留客:よそ者(客)をもてなす。ここでは、「客」は、農村に行った陸游自身のことになる。「主」は、その地の農家、作者が泊まった家の人になる。足:充分である。充足できている。鷄豚:鷄や豚などの食用の家畜。ごちそう。第一聯の意は、「農家の酒は、それなりになかなかよく、ごちそうもたいしたものだ。」と、作者の味覚上の満足感を述べ、やがて、自然描写へ移っていく。
山重水複疑無路:山は重なり、川の流れは幾重にもなって、道が無くなったかとも疑える状況になったが。「山 重なり 水 複して 疑ふらくは 路 無きかと」。「山重水複疑無路,柳暗花明又一村。」という聯は「山窮水盡疑無路,柳暗花明又一村。」としても使い、「窮しても途は開ける」の意として、現代語でも常用される。『桃花源記』でいう「忘路之遠近」ということ。山重山々が重なる。水複:川の流れが幾重もあるさま。疑無路:路が途切れたみたいだ。いきずまったようだ疑:疑う。疑うらくは。無路:路が途切れる。
柳暗花明又一村:(途が行き詰まってもうだめかと思っていたが、不意に)ヤナギがこんもりと茂り、花がぱっと明るく咲いている村落が現れた。「柳 暗く 花 明るくして 又 一村」。柳暗:ヤナギがこんもりと茂る。花明:花がぱっと華やかに明るくなって(咲き乱れて)。桃の花が、ぱっとそこだけ明るく、幻想的に咲いて。(桃源の入り口「縁溪行,忘路之遠近,忽逢桃花林。」のようで)。又一村:(行き詰まってもうだめかと思っていたが、路の向こうから)またも一つの村落が現れた。蛇足になるが、山東省の徳州市に「又一村」という白酒の醸造メーカーがあるが、この詩句と関係があるのだろうか…。
簫鼓追隨春社近:笛や太鼓の音が相前後して聞こえるが、春祭りが近づいている(ことがわかる風情で)。簫鼓:笛や太鼓。簫:ハーモニカ状に横一列になったふえ。追隨:(簫と鼓の音が、)片方がもう一方に従うように。相前後して。春社:豊年を祈っての春祭り。豊年を祈願して土地神を祭る。立春後の五度目の戊の日がそれにあたる。
衣冠簡朴古風存:身なりは簡素で、昔風の趣が残り伝えられている。ここのくだりは、陶淵明の『桃花源詩』「俎豆猶古法,衣裳無新製。」、『桃花源記』「男女衣著,悉如外人。」を意識していよう。作者は、この地を、恰も桃源郷のようであると言いたい。そして、自分はそこへ迷い込んだ武陵の漁人になぞらえていよう。衣冠:身なり。正式な服装。簡朴:簡素、質朴である。古風:昔風。存:残っている。
從今若許閒乘月:今後、もし許して頂ければ、暇に任せて月下を散策して。從今:今よりは。若:もし。もしも。仮定の表現。許:ゆるす。閒:暇に任せて。「閒」字は、「間」字「閑」字の双方に通じた使い方をされている。そのため「間」の義で使われる場合は、「間」字と同音で読み、「閑」の義で使われる場合は、「閑」字と同音で読む。ここは、後者の意で使われている。乘月:月下の散歩をする。
拄杖無時夜叩門:杖をついて、いつとはなく随時に、月夜に(この桃源の郷を)訪問したいものだ。拄杖:杖をつく。無時:いつとはなく。随時に。折々に。夜叩門:夜に訪問する。夜に門を叩く。
【通釈】
農家の年の瀬にしこんだ酒が濁っていると笑わないでください
豊作でお客さんをもてなすには鶏も豚もたくさんあります(といって村に招かれた)。
(この村までの道のりでは)山や川が幾重にも重なりあい、道が行き止まりかと思っていると
柳の葉が道を暗くし花が明るく咲いているところに、もう1つ村があった。
笛や太鼓の音が私の後を追うように伝わってくる。春の祭りも近いことがわかる。
(村人たちの祭りの)衣装は素朴で昔風さが残っている。
これから先も、暇にまかせて月明かりにをたよりに出かけてきてもよいというならば 杖をついて時を定めず夜に(あなたの家の)門をたたくとしましょう。
【解説】
第一句と第二句は、村人が作者にかけた言葉
莫笑農家臘酒 豐年留客足鷄   (太字は押韻)
第三句と第四句は作者が村に着くまでの道について説明したもの(対句)
山重水複疑無路 柳暗花明又一
第五句と第六句は村の情景を説明したもの(対句)
簫鼓追隨春社近 衣冠簡朴古風
第七句と第八句は作者が村人に対してかけた言葉となります。
從今若許閒乘月 拄杖無時夜叩 

濁酒三杯豪気発す (朱熹・朱子「酔うて祝融峰を下る」)

朱熹

【作者】朱熹(しゅき):南宋の儒学者。名は熹。字は元晦、仲晦。号して晦庵、晦翁、雲谷老人など。尊称として朱子と呼ばれる。宋学の大成者。南剣州の尤渓(現・福建省尤渓)の人。その学は、宋の周敦頤、程明道、程伊川、羅予章、李延平らの学と道、仏の学を総合大成し、儒教の体系化を図った中興の祖であり、朱子学の創始者である。1130年(建炎四年)~1200年(慶元六年)。





祝融峰
祝融峰場所

【語釈】
祝融峰=中国湖南省衡山(こうざん)の最高峰・標高1290m。 長風=遠くから吹いてくる風 酔下=酔いくだる 駕=牛や馬に引かせる・古来の乗り物・転じて乗る。 駕長風=長風に乗って長風に吹かれて。 壑=谷 絶壑=切り立った谷。 層雲=何重にもかさなった雲。 許=注目の漢字で説明 盪=揺れ動く 豪気=豪快な気分 発=発散 朗吟=詩吟を謳(うた)う・吟ずる。濁酒=濁った酒




【通釈】
酔い下る祝融峰 我れ来たり とても遠くから 長風に吹かれて 切り立った谷に湧く雲を見ると、 これこのように胸がウキウキしてくる。濁酒を三杯ガブリと飲んで 大声で詩を吟じながら飛びくだる祝融峰
【解説】
なかなか雄大な詩で、濁酒数杯も飲めば天下こわいものなしとなるのは、誰もが経験するところ。「三杯」は複数を表し単なる三ではない。

落花の時節、また君に逢う (杜甫「江南にて李亀年に逢う」)

画像の説明

李亀年(り きねん):生没年不詳、唐代玄宗朝の音楽家。玄宗の朝廷において宮廷音楽の代表的な楽人となった。安史の乱において、地方に流浪した。他の同時代の楽人とともに、「隋唐演義」や「長生殿」などのこの時代を舞台にした文芸作品に度々、登場している。
【詩意】
都・長安の岐王の御殿でしばしばお目にかかったことことがあり、崔九郎邸のお座敷の前庭でも何回か、あなたの歌をお聞きしたものです。しかし、ここは長安を遠く離れた美しい江南の地で花の散るよい季節に、またお会いしようとは・・・・
詩の作者・杜甫は当時59才で死去する直前で、長安に帰りたい気持ち抱いて湖北・湖南を転々としており、両者とも過去の栄光と幸福の思い出に生きる落魄の身であった。思わぬ時に思いがけない人と、しかも周囲の美しい風景とはうらはらに、いずれもおちぶれて出逢った感慨と詠嘆とが惻々として詠む者の胸を打つ。

古来征戦幾人か還る(王翰)

涼州詞
夜光杯

←夜光杯
叛服常ない異民族を抑えて行くために、唐は常に多くの軍隊を西北辺の地に駐屯させておかなければならず、相次ぐ戦いで犠牲者もまた少なくなかった。兵士たちは、砂漠や草原の厳しい気候、荒涼たる風物、剽悍な敵との戦いの明け暮れに、緑したたる南方の故郷をしのんでは涙した。うまい葡萄酒でも飲み琵琶でもかき鳴らしして憂さを晴らそう。酔った勢いで戦場に向い討ち死にしても、笑うて下さるな。どうせ生きて帰れるかどうか判らぬ身じゃないか・・・・。兵士の厭戦気分とヤケ気味な心がよく表現されている。漢詩には王翰「涼州詞」の他に「出塞」(王之渙)・「磧中作」(岑参)・「塞下曲」(常建)・「夜受降城に上って笛を聞く」(李益)などがある。この感懐は第二次世界大戦後われわれも、しみじみ味わったものである。日本にも「凱旋」(乃木希典)の漢詩がある。


䔥䔥(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し (駱 賓王「易水送別」);

易水送別

春秋戦田の時代には、敵国の王侯を刺殺するために、一本のにヒ首(短剣)にすべてをかけて敵地に入りこむ、いわゆる刺客が、ことに多かった。そのもっとも著名なのが荊軻(けいか)である。荊軻は衛の生まれだったが祖国に用いられず国々を遍歴して(えん)に行き、そこで巷間に人望の高かっか任侠の士・田光の知遇を得ていた。かれはまた筑(琴に似た竹製の楽器)の名手の高漸離と意気投合し、傍若無人にふるまっていたが、巷に酔いしれているかと思えば独属して書を読ふ、また剣をみがくこともおこたらなかった。(しん)が着々と天下統一の歩を進めているころであった。韓をはろぼし趙をほろぼした秦は、趙と燕との国境を流れる易水に臨んでまさに燕に攻め入る態勢をととのえていた。燕の太子の丹がそのとき秦王政(のちの始皇帝)を刺すべき刺客として選んだのは、田光であった。だが田光は自分の老齢を考えて荊軻をすすめると、その決意をはげますために、みすがらは首をはねて死んだ。太子丹をはじめ、事を知っている少数の者は服を喪服にかえて荊軻たちを易水のほとりまで送っていった。いよいよ別れの時である。高漸離は筑を奏し荊軻はそれに和して歌った。易水の風は冷たく人びとの肌を刺しご高漸離の筑と荊軻の歌声とは悲壮に人びとの心をふるわせた。秦へ行けばおそらく生きては帰れないであろう。これが荊軻を見る最後かと思うと高漸離は暗然と涙ぐみ、涙をぬぐいながら筑をかき鳴らして友を送った。荊軻はそれに和して歌った。
              風蕭蕭として易水寒し、壮士ひとたび去ってまた還らず
その声は人びとの肺腑をえぐった。人びとはみな眼を怒らして秦の方を睨み、髪逆立って冠を突くばかりであった。すでにして荊軻は去り、ついにふりむくこともなくその姿は遠くなっていった。

豆を煮るに(まめがら)を焼く

七歩詩

三国時代の英傑・曹操(そうそう)は文学を好み、文才のある者を招いて建安文学の隆盛をもたらしたが、その子・曹植(そうしょく)も若くして文才優れ、豪雄武技をもよくした。曹操は曹植の異才をことのほか愛し、兄・曹丕(そうひ)にかえ太子に立てようとしたが、直情径行の曹植はあまりにも粗暴な振舞いが多く、あきらめて曹丕に後を譲った。曹丕は魏の文帝と称したが、弟・曹植とは幼いときから肌合いが合わず曹植は事々に兄・曹丕の憎しみを受ける身となった。あるとき文帝は曹植を呼び即席に詩を賦することを命じた。「七歩を歩むうちに詩が成らぬときは、勅命に背くものとして重罪に処する!」と曹植を痛めつきょうとしたが兄・文帝の声に応じて立つと、たちどころに詩をつくった。父母を同じくする真の兄弟が本来ならば共に手をとりあって祖業を継ぐべきなのに、何故このように弟の私を責めさいなむのですか、という切ない気持ちを「七歩の才」「七歩の詩」(後述)に託したのである。

白髪三千丈(はくはつさんぜんじょう) (李白「秋浦(しゅうほ)の歌」)

白髪三千丈

数多い乍自のパのなかで、もっともポピラーな詩句。老いの身の悲しさを歌ったものとして、そしてまた大げさな中国式表現である。結局は、鏡にうつる白髪を見て、この霜のごとく白いものはどこから来たものか、自分の髪はこんなに白いはずはないのに、とあやしみいぶかり驚き嘆いているのである。
秋浦とは地名、安徽省の蕪湖(ぶこ)であろうという。いずれも技巧を弄せず、淡淡としてさりげない筆致であるが、李白の晩年の孤独を彷彿たらしめる佳作である。この詩もその例にもれず淡々としてさりげない。「白髪三千丈」なる詩句はたしかに大げさであ。しかし鏡を見たとたん突如として李山の口からとびだした言葉、童心と老心かとがひとっにとけたような心からころがり出た諧謔である。ユーモラスであることはまた淋しいことである。
またこの詩全般を通じて平易で口語体に近い表し方がされている。ということは、あくまでも自然でさりげなく詠われているという二とてある。大げさな表現ぱ、この場合、静かな水面をたたいて起こさせた波立ちといってよい。その波立ちは驚きと悲しみと微笑と一瞬である。李自はたしかに淋しく狐独であった

笑って答えず

山中問答

どんなつもりで山奥に住んでいるのかと人は尋ねるが、私はただ笑っているばかりで、敢えて答えない、けれども心の中は何とも云えず清々しい。桃の花びらは無心に水面を流れ去り、ここは人里離れた別天地である。
この文句はよく利用され、人に何かを訊ねられ答えたくない時、あるいは都合の悪い時は返答の代用にする場合が多い、「ご想像にお任せします」と同意





去る者は日に以て疎し

去る者は

【詩文】

(白文)   (訓読文)       
去者日以疎  去る者は日々に以ってうとく
來者日以親  きたる者は日々に以って親し
出郭門直視  かくもんをいでて直視すれば
但見丘與墳  ただ きゅうとふんとを見るのみ
古墓犁爲田  こぼは すかれて田となり
松柏摧爲薪  しょうはくは くだかれて薪となる
白楊多悲風  はくように ひふう多く
蕭蕭愁殺人  しょうしょうとして人をしゅうさつす
思還故里閭  こりのりょに還らんと思い
欲歸道無因  帰らんと欲するも 道よる無し


【訳詩】
死んで去りゆく者は、日々に疎(うと)くなってゆき
新たに生を受け訪問してきた者は、日々に親しくなる(のが この世の常である)。
城門を出て、その先をまっすぐに見ると墳墓のある丘と墓地とが見えるだけである。
古い墓は鍬ですかれて田畑となってしまい、
(葬った人を記念して植える木である)松と柏は伐採されて薪となってしまう。
はこやなぎには もの悲しい風が吹きすさび、
そのショウショウと鳴る音は 人(私)を限りない愁いに沈ませる。
故郷の村に帰りたいと思うのだが、帰ろうにも その道がわからなくなってしまった。

【解説】
この古詩は『文選』(雑詩)の十九首の第十四首の冒頭にある(作者不詳)
古詩十九首のうち男女相思の情を詠んだ十二首を除いた他の六首は、すべて人生の苦痛・無常を詠ったものである。

【学問】

曲学阿世(きょがくあせい) (出典:「史記」)

曲学阿世

曲学阿世とは、学問の真理を曲げて、世間や権力者に気に入られるような説を唱え、こびへつらうこと。
「曲学」とは、学問の真理を曲げること。「阿世」とは、世に阿る(おもねる)こと。
漢の時代、漢の武帝に召し出された轅固生(えんこせい)が、儒学者の公孫子(こうそんし)に言ったことばが由来とされる。『史記・儒林列伝』に「公孫子、正学を務めて以て言え、曲学以て世に阿る無かれ(公孫子よ、正しい学問に励んで、はばかることなくありのままを言いなさい。学問を曲げて、世にへつらうべきではない)」とある。「学を曲げて世に阿る」とも。
【注意】 学問の世界以外で使うのは誤り。(誤用例 :「曲学阿世がまかり通る政治界」)

推敲(すいこう)

推敲

中唐の詩人・賈島(かとう)は驢馬の背にゆられながら詩句を考えており、「僧は敲く月下の門」で「敲く」にしようか「推す」にした方がよいか迷っており、京尹(副知事)・韓愈(かんゆ)の行列に突っ込んでしまい衛兵に捕えられ韓愈の前に引き立てられた。韓愈は馬を止め考えていたが、「それは君、『敲く』とした方がいいな」と言った。これが縁で韓愈は賈島の無二の詩友となり庇護者となった。
「推敲」の逸話で詩文の文句を練ることを云う。賈島の詩は、あまり字句の表現に凝りすぎて意味の通じないものがあるとも非難されている。

泰山北斗(たいざんほくと)

泰山

李白(太白)・杜甫(子美)・白居易(楽天)とならんで唐代四大詩人といわれた韓愈の詩。
2歳で孤児となり辛苦勉励して唐九代徳宗のとき25歳で進士に挙げられ、さらに吏部の大臣となった。この間しばしば皇帝に諫言をしては左遷されたが、十代憲宗帝が仏骨を迎え宮中に三日間留めてのち諸寺に送ったことを厳しくいましめ仏教は邪教であり仏骨などは水火に投ずべきであると痛論した「仏骨を論ずるの表」を奉ったため、帝の逆鱗にふれ左遷された時の詩
【原文】
左遷せられて藍關に至り姪孫湘に示す
一封朝に奏す九重の天 夕に潮州に貶せらる路八千
聖明の爲に弊事を除かんと欲す 肯えて衰朽を將って殘年を惜まんや
雲は秦嶺に横たはりて家何くにか 在る 雪は藍關を擁して馬は前まず
知る汝の遠く來る應に意有るべし 好し吾が骨を收めよ瘴江の邊に

【意訳】
一通の上奏文を朝に皇帝に奏上した
夕べには、八千里離れた潮州へ飛ばされた
陛下のためにまがごとを取り除こうとした。そのために『論佛骨表』という上表文を表した
あえて、老いさらばえた身で余命を惜しもうか、惜しくない
雲は、秦嶺に横わって、人を寄せ付けない厳しさを見せ、人家などもありそうにない
雪は藍田関を包み込んで、馬は進もうとしない
あなたが遠いところをやって来た、その気持ちはよく分かった。
わたしの遺骨は(南方の)瘴気の漂う川べりとなろうが、ちゃんと拾ってくれよ。
十一代穆宗のとき、再び召し戻されて国子祭酒に任ぜられ、兵部侍郎・吏部侍郎を歴任して退官、57歳で死亡した。礼部尚書を贈り文とおくり名された。中国古今を通じて屈指の名文章家とされている。
泰山は中国五岳(東岳泰山・南岳衡山・中岳嵩山・西岳華山・北岳恒山)の一つで、日本人が富士山を仰ぐように古来から名山として敬われている。北斗(北辰)は北極星のことで、星の中心として仰がれている。泰山北斗とは、それぞれの道で人々から尊敬されている人物で、泰斗と略されている。

蛍雪の功

蛍雪の功

晋の車胤は、家が貧しく灯油が買えなかったので蛍をたくさん集め、その光で勉強をした。(『晋書』より。「夏月則練嚢盛数十蛍火、以照書、以夜継日」)
また、孫康も家が貧しく灯油が買えず、窓辺に雪を集めて、その明かりで書物を読んだ。(『蒙求』より。「康家貧無油、常映雪読書」)
こうした努力の結果、後にこの二人とも出世したという故事に基づく。
卒業式の祝辞の常套句であり、「蛍の光、窓の雪……」という歌詞もこの故事からきている。
多くは「蛍雪の功」の形で使う。蛍雪の功とは、苦労して勉学に励んだ成果のこと。


韋編三絶(いへんさんぜつ) (『史記』)

韋編三絶

孔子は飽くことなく「易」を愛読したため、韋編がたびたび切れたといわれる。昔は紙の代わりに竹札に漆で文字を書き、なめした革の紐(韋)を用いて編んだ。繰返し繰返し読んだため、その韋編が幾度も切れてしまった。この故事から「韋編、三たび絶つ」は書物を何回も読むという意味となった。「読書百遍、義自ずから通ず」の格言も同意。



汗牛充棟(柳宗元「陸文通先生の墓表」)

汗牛
充棟

書物がたくさんあるため、車にのせて牛に牽かせると重いので牛が汗をかき、家の中に積み上げると棟木にとどくことで、蔵書の多い例えとされる。





教学相長ず(『礼記』)

教学相長

「教うるは学ぶの半ばなり」と関連した言葉で、教えることは学ぶこと、教師と弟子とは共に高度化・深化・上達するもの、すべきものである。
「礼記」には”うまい肴があっても食べてみなければ、その旨さは判らない。立派な道があっても学ばなければ良さは判らない。学んでみて初めて自分の至らなさを知り、人に教えてみて己の学問の不十分さを知り反省する。そこで、もっと自分も学ばなければと思う”



開巻、益あり (太宋帝)

開巻有益

書物を開くこと読書のことで、読書は有益であるという勧めである。宋第二代・太宋帝は大の読書好きで、学者・李肪らを召して百科全書の編纂を命じ、七年の歳月を費やし一千巻の大型百科全書を完成し、年号をとって『太平総類』と名付けた。
太宋帝は大いに喜び毎日毎日読みふけり、書名も『太平御覧』と改め毎日三巻ずつ読む義務を課していた。政務多忙の中の義務に健康を心配する侍臣に「開巻、益ありじゃ、わしは少しも疲れを覚えぬぞ」







多岐亡羊(たぎぼうよう) (『列子』)

多岐

学問には知識の集積と理論の分析が必要であるが、いたずらに枝葉末節の詮索に堕して、その本筋の目標を見失うのは愚かなことであるということを諷した寓話。
飼っていた羊が一匹逃げたので、隣人まで頼み羊探しに出かけたが見つからず、「岐路のなかにまた岐路があって、とうとう羊がどこにいったかわからなくなった」、帰一する大事な道を見失うような追及の仕方は無意味である。







登龍門(とうりゅうもん)

後漢書
壁画に描かれた李膺

←後漢書(左図) 壁画に描かれた李膺(右図)
登龍門とは、成功へといたる難しい関門を突破したことをいうことわざ。特に立身出世のための関門、あるいはただ単にその糸口という意味で用いられる。鯉の滝登りともいわれ、鯉幟という風習の元になっている。
この諺は『後漢書』李膺伝に語られた故事に由来する。それによると、李膺(りよう)(字は元礼)は宦官の横暴に憤りこれを粛正しようと試みるなど公明正大な人物であり、司隷校尉に任じられるなど宮廷の実力者でもあった。もし若い官吏の中で彼に才能を認められた者があったならば、それはすなわち将来の出世が約束されたということであった。このため彼に選ばれた人のことを、流れの急な龍門という河を登りきった鯉は龍になるという伝説になぞらえて、「竜門に登った」と形容したという。なお「竜門」とは夏朝の皇帝・禹がその治水事業において山西省の黄河上流にある竜門山を切り開いてできた急流(河津)のことである。なお、登竜門の反対語「点額(てんがく)」は出世競争の敗北者、落第坊主を云う。

後世畏るべし(『論語』)

後世畏るべし

孔子は春秋の乱れた世に正しい国をつくろうと各地を流浪したが、ついに容れられなかった、しかし自分の学燈が受継がれ、いつかは生かされるということに希望をつないでいたのではなかろうか。
その言葉に「苗のまま秀でずに枯れるもの、秀でても実らず枯れてしまうものもある。自分より年若い者(後世)の伸びる勢いは、まことに畏るべきものがある、それはわかるものでない(後世畏るべし、焉んぞ来者の今に如かざらんや)、人の進歩は計ることが出来ない。歳をとっても世に聞こえる程にならないなら、そのときやっと畏るべきでないとわかるのだ。学はやめてはならない。」








【努力・技量】

労して功なし

出典は明確でないが列挙すると
不可に(くみ)する(なか)れ。不能に()(強)うる毋れ。不知に告ぐ毋れ。不可に与し、不能に彊い、不知に告ぐるは、之を労して功無しと謂う(『管子』)


愚者の言は漠然として粗野であり、煩雑かつ無統一、ただ、がやがやと騒ぎ立てるだけである。愚者は、その名に惑わされ、その言に惑わされて、その意義を深く究めようとはしない。そのため、懸命に弁じても要領を得ず、苦労しても何の甲斐もなく(労して功なく)、名聞をむさぼっても得る物は無い(『旬子』)


今、周を魯に行なわんことを求むるは、これなお舟を陸に推すが如きなり。労して功なく、身必ず(わざわ)いあらん(『荘子』)

愚公(ぐこう)山を移す (『列子』)

愚公移山

太行山・王屋山が、現在の位置にあるのは、愚公という老人が自宅近くのこの山を邪魔に思い、家族総出で山を崩し始めたからだというのである。愚公の行為を見ていた智叟(ちそう)という人物が、「山を人力で崩せるはずがない」と批判すると、愚公は「山は増えないから、人間は子々孫々この事業を続ければ、いつかは山を移動できる」と自信満々に答えた。それを聞いた天帝が力持ちの神・姱娥(かが)氏の二人の子に山を背負わせ、一山を朔東に一山を雍南に遷した。
この寓話は土地伝説としての民俗学的意義もあるが、それよりも勉めて已まざれば大事も必ず成功するという譬喩として読むほうが面白いし、愚公と智叟のいずれが真の愚であり智であるかも問題である。
邦儒室鳩巣(むろのきゅうそう)の著『駿台雑話』にも同様な批評がある。





太行山脈
画像の説明

太行山脈(たいこうさんみゃく、タイハンさんみゃく、Taihang)は中華人民共和国北部にある山地。山西省、河南省、河北省の三つの省の境界部分に位置する。太行山脈は東の華北平野と西の山西高原(黄土高原の最東端)の間に、北東から南西へ400kmにわたり伸びており、平均標高は1,500mから2,000mである。最高峰は河北省張家口市の小五台山で、標高2,882m。山脈の東にある標高1,000mほどの蒼岩山は自然の奇峰や歴史ある楼閣などの多い風景区となっている。また山脈の南端に近い河南省の雲台山は景勝地でもあり、世界ジオパークにも指定されている地球科学的に価値の高い地域でもある。山西省・山東省の地名は、この太行山脈の西・東にあることに由来する。



王屋山

王屋山は世界地質公園であり、国家AAAA級の観光地区である。総面積が265平方キロメートルである。王者らしいな王屋山が高く立っていて、丘と小さい山に囲まれている。中華民族の魅力的な聖地であり、道教の名山でもある。現在、国内外の中国人が先祖の事跡を尋ねる聖地である。愚公移山のストールはここからであり、愚公の山を掘っている彫像が、済源の都市象徴として、全市の68万人民に精神の動力を与えて、徹底に改革し、美しい居場所を建設する。王屋山が“王者の家のような山形”で、命名された。首都の下で、山西と河北と繋がる。中国の古代の九つの名山の一つである。主峰の天壇山の海抜は1715メートルである。文献の記録によると:軒轅と黄帝は、元年正月甲子、王屋山を登り、天祭りをした。蚩と戦い、中国を一統した。そこから、我が国の5000年の文明歴史が始まった。天下は平和で、おだやだった。黄帝はここで広成子の弟子にり、道を学び、仙人になった。後で、毎年の8月15日、全国の優秀な陣z内が、ここに集まり、道教の鼻祖の老子李耳と仙人の王子晋、有名な方士于吉、南岳夫人魏華存、道教理論家の葛洪は、すべてここで道を学んだことがある。王屋山は、我が国の道教の十大洞天の中で、第一の地位になった。“天下第一洞天”と称されている。唐代、ここで次々と紫微宮、陽台宮、総仙宮、清嘘宮、十方院、霊都観など、広大な規模が作られた。三里一宮、五里一殿とは言える。王屋山には、宮殿が林立して、有名な道士がいり、参拝者もたくさん来ている。全国道教活動の中心になっている。王屋山の雲、木、谷川、山は仙境のように美しく、たくさんの文化人が引かれて、訪ねられている。唐代の詩人、李白、杜甫、白居易、王維、孟浩然、李商隠、韓愈はここでよく止まって、たくさんの名作を書いた。“薬王”の孫思邈が、晩年の時、亡くなるまで、王屋山の翠微庵で住んでいた。天壇への道に沿って登山し、たくさんの廟の建物は、金の糸のひとつなぎの珠のようである。痩龍岭、転18盤、度仙人橋、攀紫金崖を通り、天壇の最高点に到着する。今、天壇の索道は、現在の中原地区に、最も長くて、落差の最大の観光索道である。王屋山のもうひとつの現代化の新景観になる。また、ここは“天壇倒影”、“王母仙燈”などの五つの天象奇観があり、華北地域の珍しい原始林もある。サンショウウオ、ヒョウ、イチョウ、イチイなどの稀少な動植物を持つ。

大器晩成 、 [#s68f999a]

大器晩成

他山の石

詩経の中の小雅「鶴鳴篇」の中の一節。

鶴


(白文)  (訓読)
鶴鳴于九皐、 鶴九皐に鳴き、
声聞于野 声野に聞ゆ 
魚潜在淵、 魚潜みて淵に在り、
或在于渚 或いは渚に在り 
楽彼之園、 彼の園を楽しむ、
爰有樹檀、 ここに樹えたる檀有り、
其下維蘀 其の下にこれ蘀 
它山之石、 它山の石、
可以為錯 以て錯と為すべし

日本の諺でいえば「人のふり見て わがふり直せ」というところ。

粒々辛苦(りゅうりゅうしんく)

粒々辛苦

米など穀物の一粒一粒は農民の辛苦の賜物ですが、転じて物事をやり遂げるには苦労を重ねなければならない。
晩唐の詩人・李紳「農を憫む」の詩に

()()いて日午に当る 汗は(したた)る禾下の土
誰か 知らん盤中の(そん) 粒粒皆な辛苦なるを

正午になって太陽が頭上に来ても 農夫は田を耕し汗は田の面に滴る
夕飯の一粒一粒は すべて農民の労苦の賜物なのだから



捲土重来(けんどじゅうらい) 巻土重来(けんどちょうらい) (杜牧「烏江亭(うこうてい)に題す」)

捲土重来

一度敗れたり失敗したりした者が、再び勢いを盛り返して巻き返すことのたとえ。巻き起こった土煙が再びやって来る意から。「捲土」は土煙が巻き上がることで、勢いの激しいことのたとえ。「重来」は再びやって来ること。
もとは一度敗れた軍が再び勢いを盛り返して攻めて来ることをいった。



臥薪嘗胆(がしんしょうたん)

臥薪嘗胆

呉王闔閭(こうりょ)は越王句践(こうせん)檇李(すいり)で戦い、越の軍略に敗れ臨終の際に太子・夫差(ふさ)に復讐を遺命した。呉王となった夫差は、父の怨みを晴らさずにはおかないという堅い決意で夜な夜な薪の上に臥して(臥薪)、父の遺恨を新たにしては復讐の心を磨ぎすました。
越王句践はそれを知り良臣・范蠡の諫めもきかず両軍は激突したが越軍は会稽山で大敗、呉王夫差は勝者の襟度をもって句践を許した。句践も「会稽の恥」から胆を備え坐臥するにも飲食するにも苦い味を嘗めて(嘗胆)、ひたすら再興を計った。その後、句践はまたも呉を攻め呉王夫差を姑蘇城に囲んで降ろし天下の覇者となった。呉王夫差は句践の好意をことわり自ら首をはねて死んだ。
呉と越が互いに仇敵視しあったことから、きわめて仲の悪いことを「呉越の思い」・「呉越」という。

水滴石を穿つ (『鶴林玉露』)

水滴石を穿つ

北宋の頃、張乖崖という県令がおり役所の中を巡視していると、小役人が倉庫から跳び出してきたので見とがめ調べてみると、頭巾の中に一銭隠しており追及したところ、倉庫から盗み出したことが判明したので逮捕して笞打ちの刑に処した。小役人の言い分に対し判決文「一日一銭、千日千銭、縄鋸、木ヲ断チ、水滴、石を穿ツ」をしたためた小役人を斬り捨てた。これは当時の役人の上司をないがしろにする風潮を改めようとする行為であった。
水滴でも休みなく落ち続ければ、遂には石に穴をあけるように、小さな努力でも根気よく続ければ大事を成遂げることができるという教訓。「点滴、石を穿つ」ともいう。

驥尾(きび)に付す(『史記』『後漢書』)

驥

顔回は篤学なりと(いえど)も、驥尾に付して行ますます(あらわ)(史記)
自力では十歩も飛べない青蠅だが、驥の尻尾にとまれば、一日に千里も進める(後漢書)
【語釈】驥=「き」と読み、1日に千里(約4000キロ)走る優れた馬。 (時速約160Kで走る馬?)。 尾=「び」と読み、しっぽ。動物の後ろの方についているもの。 付す=「ふす」と読み、ふする。主となるものにつき、したがう。
【大意】普通の人でも、優れた人について、従っていけば、能力以上のことを することができる、というたとえ。
【解説】小さな蝿(はえ)が、一日に飛ぶ距離は、せいぜい知れていますが、驥(き)という 馬は、一日に千里も走るとても優れた馬のことで、この馬のしっぽに、蝿(はえ)が、 くっついていけば、とても飛べそうにない遠い所まで行くことができる、という ことから生まれたことわざのようです。一般に、仕事などで、一緒に何かを する時などに、相手を立てて、自分を謙遜(けんそん)する意味で使うことが 多いようです。「驥尾に託す」「驥尾を展ぶ」とも表現される。

鉄杵(てつしょ)を針と成す(『方興勝覧』)

鉄杵を針と成す

李白が小さいころ、街で老婆が鉄の杵を砥いでいるのを見て不思議に思い訊ねたら、針にしようと思っているとの返答に大笑いした。「これ、笑うでない努力さえすれば、鉄の杵だって針になるのじゃよ」と老婆は彼をたしなめた。頭をどやしつけられた李白は、深々と一礼して立ち去った。以来これを教訓として、ひたすら勉学に打ち込み自身を鞭打った。この故事から努力を重ねて目的を達する喩えとなった。「鉄杵を磨く」ともいう。







十年一剣を磨く (頼 山陽「不識庵(ふしきあん)機山(きざん)を撃つの図に題す」)

川中島合戦

日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行れたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦と呼ばれる。やがて来るであろう時に備えて、準備おさおさ怠りないこと意味する。
邦曲符合 鞭声粛粛夜河を過る 暁に見る千兵の大牙を擁するを 遺恨十年一剣を磨き 流星光底長蛇を逸す

頭角を見す(韓愈「柳子厚墓誌銘」)

唐宋八大家の一人・柳宗元は、字を子厚・号を柳州という。ある事件に連坐して柳州に刺史に左遷され47歳で死去、善政を布いて民衆に敬慕された。文学上の友人・韓愈は宗元の墓に碑文を撰した。---子厚は若い頃から精敏で、あらゆることに通暁していた。少年ながらも、すでに大人の風格を備え進士に及第するに及んで、ひときわ抜きん出て頭角をあらわした。

堂に入る (『論語』)

堂に入る

孔子が弟子の子路の琴を聴き「あらの琴ときたら、どうも・・・」と言った。親しみを込めユーモラスに批評したつもりだったが、傍にいた居た弟子たちは早合点し子路を軽く見るようになった。孔子は弟子たちをたしなめ「あれの腕前は相当なものだ、すでに表座敷に昇っている(堂に升れり)が、まだ奥座敷達していない(室に入らず)だけだ、お前たちはまだ表座敷にさえ昇っていないではないか」。
「堂に升り」「室に入る」はを一応の腕前とすると、は奥義といえる。今日では「堂に入る」は立派な腕前を評する言葉である。





竜頭蛇尾(りゅうとうだび)(『碧厳集』)

竜頭蛇尾

陳尊者が老境に入ったある日ある僧に問答を仕掛けると、いきなり「喝!」と浴びせられ、また続いて「喝!」とやられた。よく修行した僧だと思ったが、よく見るとそうでもなさそうである。そう思った陳尊者は「お前さん、喝・喝と馬鹿に威勢はいいが、三喝・四喝のあとは、どう収めるつもりだ」と問うと、その僧は恐れ入ってしまい遂に馬脚をあらわした。
竜頭蛇尾とは初めは威勢よく終わりは衰え、しぼんでしまうことを云う。逆な言葉に「初めは処女の如く 終わりは脱兎の如し」がある。







智恵の差、三十里

三国時代の英雄の曹操(そうそう)が若いころ、友人の楊修(ようしゅう)と一緒に旅行して、漢代の孝女の曹娥(そうが)の碑を通り過ぎたことがあった。
その碑の裏面には、「黄絹幼婦外孫O白(O:牙の字の右側に枚のつくり(右側)部を書き、その下に韭の字を据える文字)」の八文字が刻んであった。
曹操は首をかしげた。「君、この意味が判るか」。
「判るよ」、と楊修が答えたので、曹操は言った。
「君、いま答えてはいけない。僕が判るまで待ってくれ給え」、曹操は歩きながら考えた。三十里(日本の五里)行った所で、やっと判った。そこで楊修に書かせ、自分も紙に認(したた)めた。書き終わって楊修が書いたものを開いてみると、こう書かれていた。


「黄絹は色糸のことで、字に当てはめると「絶」、
幼婦は少女のことで、字では「妙」、
外孫は女子のことで、字では「好」、
O白とは辛(から)きを受く、つまりニラは辛(から)いので
食べたくないのに押しつけられるのだから、辛きを受くと
いうシャレで、字では「O:受の字の右側に辛」(辞に同じ)、
つまり、この八文字は『絶妙好辞』ということだ」。


曹操も同様のことを書いたのである。曹操は感心して言った。
僕の才は君に及ばざること三十里だ」。(世説)


知恵があるのと無いのとでは、その差が甚だしいことを「知恵の差、三十里」とか「三十里の知恵の差」という。

偏と旁

なお、このように漢字を”①へん(偏)”と”②つくり(旁)”とに分解し、あるいは、その字を適当に組み合わせて一成語にして、迷字(謎)を作ることを「離合迷字」という。
「内中に人あり・・・肉」、「八木・・・米」、「草木中に人あり・・・茶」。
日本では、「糸(いと:愛)し糸しという心・・・戀(恋)」、「二貝(階)の女が木(気)にかかる・・・櫻(桜)」などがある。

七歩の才

七歩の詩(魏 曹植)= 豆を煮るに萁まめがらを焼く(前述)

  (白文)    (訓読)
煮豆燃豆萁、 豆を煮て羹と作し,
漉豉以爲汁。 豉(し)を漉して 以って汁と爲す。
萁在釜下然, 萁 は釜の下に 在りて然え,
豆在釜中泣。 豆は釜の中に 在りて泣く。
本是同根生, 本是れ同根に生ぜしに,
相煎何太急。 相い煎(に)ること何ぞ太(はなは)だ急なる。


七歩詩には少し違う形もあって、『古文眞寶』や『古詩源』 また『三國演義』には、兄弟をうたった別の詩があります。この詩も真贋がいろいろいわれている。

曹植

曹植:(さうち、さうしょく)。192年~232年。曹操の子で、曹丕の弟。詩人として有名で建安時 代を代表する作家であり、「建安の傑」と称される。その才能によって、かつて父曹操より太子にされようとしたこともある。父の死後,曹丕らによって種々の迫害を受け、その思いをこの詩に託した。四十一歳の時、兄・曹丕の後を追うように、不幸な裡に世を去った。





盤根錯節(ばんこんさくせつ)(『後漢書』)

盤根錯節

盤根錯節に遇わずんば、なんぞもって利器を別たんや(曲がった根っことか、入り混じった節とかにぶつからなければ、鋭い刃物の値打もわからない道理ではないか)
【意味】わだかまった根と入り組んだ節。込み入った状況にあるため、容易には解決することができない事柄のたとえ。
【用例】●あの会社はA社とB社が合併し、さらにC社を吸収したという事情があるだけに、今度の人事問題は盤根錯節、すっきりとは落着しないだろう。両国の貿易交渉は工業製品や農産物など各分野の利害がからみ合って盤根錯節の状態なので、最終的には政治的な決断が求められることになる。
【類語】複雑多岐
【対語】単純明快

石に立つ矢

【才覚】 

五十歩百歩 (出典『孟子』)

五十歩百歩

五十歩百歩とは、わずかな違いだけで、本質的には変わらないことのたとえ。
中国の戦国時代に、梁の恵王が「自分は、凶作の地にいる民を豊作の地に移住させるなど、常に人民に気を配っているのに、なぜ各地から人民が集まらないのだろうかと孟子に尋ねたところ、孟子は「戦場で五十歩逃げた者が、百歩逃げた者を臆病者だと嘲笑したら、どう思うかというたとえ話をした。
「逃げ出したことには変わりないのだから同じだ」と答えた恵王に、孟子は「その道理がわかっておられるなら、人民の数が他国より多くなることなど望まないことだ(人民が苦しむのを凶作のせいにしていては、他国の政治と大差はない)」と言ったという故事に基づく。同様の立場にありながら、相手を嘲笑する愚かさをいう。「五十歩を以て(もって)百歩を笑う」とも。
差が大きすぎるもの同士に使うのは誤り。(誤用例 「偏差値が30の大学と65の大学を受験するのとでは、五十歩百歩ほどの差がある」、すぐれたもの同士に使うのも誤り。誤用例 「ノーベル平和賞も、国民栄誉賞も、五十歩百歩の大きな賞である」)
【類義】 一寸法師の背比べ/猿の尻笑い/大同小異/どんぐりの背比べ/似たり寄ったり/目糞鼻糞を笑う

馬耳東風(ばじとうふう) (李白「答王十二寒夜独酌有懐」)

馬耳東風

人の意見や批判などを心にとめず、聞き流すことのたとえ。
「東風」は春風のことで、暖かい春の風が馬の耳元に吹いてきても、馬は何も感じないことから。
李白の詩『答王十二寒夜独酌有懐』にある「世人聞此皆掉頭、有如東風射馬耳(世間の人はせっかく作った詩賦を聞いても皆頭を振ってわからないと言う。それはまさに春風が馬の耳に吹きかかるようなものだ)」から。
「馬耳東風」を無関係の意として使うのは誤り。(誤用例 「テレビでは朝から晩まであの事件の話題でもちきりだが、自分にとっては馬耳東風だ」)
【類義】 犬に念仏猫に経/犬に論語/兎に祭文/牛に経文/牛に説法馬に銭/牛に対して琴を弾ず/馬に経文/馬の耳に風/馬の耳に念仏/蛙の面に水/豚に念仏猫に経/柳に風



(かなえ)の軽重を問う

鼎
三種の神器

三つの足と二つの耳をつけた金属製の釜で、古代中国では料理・表彰具・刑具などに用いた。説話「春秋左氏伝」によれば鼎の軽重を問うとは、帝位をねらう下心のあることを意味し、わが国の三種の神器のように帝位の象徴であった。
これから転じて「相手の実力や内情をみすかして、その弱みにつけ入る」という意味に用いられるようになった。







無用の用

大木

役に立つということは大事なことである。だが浅はかな人間の知恵でおしはかられる有用が本当の有用であるかどうか。の立場から見れば、凡俗の輩の有用などは取るに足らずこざかしさ・愚かさに過ぎず、無用とされるものの方にかえって大用が存ずるともいえようではないのか(荘子)。弟子に尋ねられた荘子は「わしなら役に立つと立たぬの中程にでもいるとしようか。もっともそれもまだ本当に道に遊ぶというには足らんから、ちと(わずら)いがのこる。本当に道に遊ぶというのは、ほめられもせず・そしられもせず、浮くも沈むもままにして人と争わず身にまかせ、物を制しても物に制されぬことだ」






【修養】

過ぎたるは及ばざるが如し (出典『論語』)

孔子

過ぎたるは猶及ばざるが如しとは、度が過ぎることは、足りないことと同じくらい良くないということ。
何事も程ほどが肝心で、やり過ぎることはやり足りないことと同じように良いこととは言えない。 良いと言われることでも、やり過ぎは害になるということ。『論語・先進』にある、孔子が二人の門人子張(師)と子夏(商)を比較して言った言葉に基づく。水準を越した師も水準に達しない商も、ともに十全ではない。
人の言行には中庸が大切であると説いたという故事から。
【類義】 及ばぬは猶過ぎたるに勝れり/薬も過ぎれば毒となる/彩ずる仏の鼻を欠く/大吉は凶に還る/名の木も鼻につく/念の過ぐるは無念/分別過ぐれば愚に返る/礼も過ぎれば無礼になる 。





巧言令色(こうげんれいしょく)(すくな)し仁)『論語(孔子)』

巧言令色

口先が巧みで角のない表情をする者に、誠実な人間はほちんどいない。裏返して「剛毅朴訥、仁に近し」(剛毅で飾らぬ人間は、誠実で完成した徳をそなえた者に近い)ともいっている。孔子は巧言や令色によって、他人を瞞着する狡猾さを憎んだ。





小人閒居(閑居)して不善を為す(論語)

小人閒居

「小人」とは思慮に欠けたつまらない人間、根性のひねくれた小人物 「閒居・閑居」は独りでいるとき。女子と小人は養い難し 君子は義に喩り小人は利に喩る 君子は和して同ぜず小人は同じて和せずがある。
独りで居るときこそ君子・小人・女子の差異があらわになるという、人間の本性に対する鋭い洞察(現代人にとっては封建的で批判がある言葉)  






知識

雁書 (『漢諸』蘇武伝『十八史略』)

雁の群れ

はてしない空その下の湖、人影もない、とある丸木小屋から湖の辺にさ迷い出た男があった。手には弓矢、頭から毛皮をかぶり髭ははぼうぼうと顔をおおう山男、だが眼には澄んだ不屈の輝きがあった,その男の名は蘇武(そぶ)。匈奴に捕虜として捕らえられ北海の辺で飢えと寒さとたたかい19年振りに帰国した。
この故事から手紙や訪れのことを「雁書」という(雁信・雁帛など)、わが国でも雁の玉章・雁の便り・雁の使い・雁の文章などと言い慣わす。
   九月(ながつき)の そのはつかりの 使いにも  おもう心は きこえ来ぬかも (万葉集)



鶏肋(けいろく) 『三国演義』『三国志』

鶏肋

鶏肋は鶏のあばら(あばら)骨のこと。鶏がら。中華料理・ラーメンでは出汁またはスープを作る際の材料とする。本来はスープなどの材料であるが、一般に骨についている肉は美味いので、昔はしゃぶって食べる事もあった。しかし、肉は僅かしかついていないので、出汁にはできても腹は満たされない。このことから「大して役に立たないが、捨てるには惜しいもの」を指して「鶏肋」というようになった。「無味」の譬え
『三国演義』『三国志』に出てくる、体が痩せていえ弱いことのたとえにも用いる。









濫觴 『荀子(子道篇)』

長江源流
長江流域図

揚子江のような大河も源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎないという「荀子」子道にみえる孔子の言葉から物事の起こり。始まり。起源
青海省南部には長江の源流とされる三つの川がある。一番の源流(本源)がタンラ山脈(唐古拉山脈)の氷河に発する沱沱河(トト河)
之を知るを之を知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり(論語)を発展させた話









清談(老荘思想)

竹林七賢

3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談(せいだん)を行なったりと交遊した、下記の七人の称。阮籍(げんせき)嵆康(けいこう)山濤(さんとう)劉伶(りゅうれい)阮咸(げんかん)向秀(しょうしゅう)王戎(おうじゅう)⇒竹林の七賢
阮籍が指導的存在である。その自由奔放な言動は『世説新語』に記されており、後世の人々から敬愛されている。7人が一堂に会したことはないらしく、4世紀頃からそう呼ばれるようになったとされる。隠者と言われることがあるが、多くは役職についており、特に山濤と王戎は宰相格の高官に登っている。日本では竹林の七賢というと、現実離れしたお気楽な発言をする者の代名詞となっているが、当時の陰惨な状況では奔放な言動は死の危険があり、事実、嵆康は讒言により死刑に処せられている。彼らの俗世から超越した言動は、悪意と偽善に満ちた社会に対する慷慨(憤り)と、その意図の韜晦(目くらまし)であり、当時の知識人の精一杯で命がけの批判表明と賞される。魏から晋の時代には、老荘思想に基づき俗世から超越した談論を行う清談が流行した。『世説新語』には、彼ら以外の多く人物について記されているが、彼ら以後は、社会に対する慷慨の気分は薄れ、詩文も華美な方向に流れた。

挽歌(ばんか)

挽歌

車引きの歌、その車も霊柩車。「挽」(輓がもとの字)は車を前へ引っぱる意で、葬式のときの柩車の紼(棺を引く綱)を執るものが相和してうたう歌。その由来も血なまぐさい悲愴な物語に彩られている。挽歌は武帝のとき労働者が歌ったが、歌声哀しく切々と打つため、ついに死者を葬送する儀式に用いられようになったという。『万葉集古義』にはカナシミウタと訓読している。

起承転結・平仄(きしょうてんけつ・ひょうそく)

もともと漢詩を作る上での規則で、一般の文章などに援用されるようになった。下記は五言絶句の場合  詳しくは漢詩の基礎知識を参照

用法詩意を起す第一句を受継ぎ意を転じる全体を結ぶ
「春暁」春眠不覺暁 (春眠暁を覚えず)處處聞啼鳥 (処々啼鳥を聞く)夜来風雨聲 (夜来風雨の声)花落知多少 (花落つること知んぬ多少ぞ)

平仄
:平仄共通字   ⬤:仄字   〇:平字
 ⬤ 〇 〇 ⬤ 〇  ⬤ 〇 〇 〇 ⬤ ⬤ ⬤ ⬤ 〇 〇


桃源郷(とうげんきょう)

桃源郷

晋のころ武陵の漁師が、小舟を操り魚を求めて山峡の川に沿って上っていった。どれほど舟を進めたことだろう、ずいぶん遠く見覚えのないところへ出た。そこら辺りは一面に桃花の林が広がり雑木は見当たらず、えもいえぬ甘美な香りを漂わせ美しい花片が華やかに舞っていた。見事な景観に見惚れていたが、もっと先をつきとめたくなり舟を進め水源のあたりで山につきあたった。舟を下り小さな入口から中に入ると、にわかに四囲が開けた。その土地は四方に広がり住居が建ち並び、遠近に地味豊かな田畑があり路も縦横に通じ、鶏や犬の鳴き声も聞こえ、往来する男女はみな異国人のような装いで老人も子供たちも楽しそうだった。各家では酒食を振舞われて歓待された。帰途所々に目印を残して元に戻った。南陽に劉子驥という君子がこの話を伝え聞き、その仙境へ行こうとしたが志を果たさぬうちに世を去った。この話から「武陵桃源」「桃源郷」は仙境の意につかわれ、転じて理想郷の意となる。

魯魚の誤(ろぎょ)

書は三写(たびたび写す)するに形の似た字と書き誤ることを云う。
()はふさぎ  (おのれ)(つちのと)下につき  半ば開けば(すで)()(のみ)  点(まも)りや(つちのえ)なくとも(いぬ)に棒  衣で(おお)って手で(ひら)
覚えておくと迷わないですよ!


類   似   字   例
魯・魚虚・虎烏・鳥壺・壷亨・亭晴・睛
陜・陝析・柝祇・祗眼・眠遣・遺著・箸
宣・宜貧・貪侯・候幣・弊捐・塤慨・概
矢・失逐・遂飲・飯辨・辯奪・奮傳・傅
苦・苔縁・緑于・干鋼・綱旦・且密・蜜
吟  ず  る   (1音目  ⇒  2音目  ⇒  3音目)
吟ずる(1音)吟ずる(2音)吟ずる(3音)


一衣帯水(いちいたいすい)

中国歴代王朝
文帝
日中国交

日本と中国は衣帯(着物の帯)のように狭い水を隔てた位置にある。西晋の後半頃から中国は乱れ南北朝時代となり、北方には五胡十六国が興亡を繰返し、南方は宋・斉・梁・陳の四国が交替した。五胡十六国の最後の王朝・北周から譲り受け隋を建てたのは文帝である。だが南方にはなお陳が存続しており、天下統一を願う文帝は陳攻撃を開始。長江(揚子江)は古くから天然の要害とされ、三国時代の呉以来その南岸の建康(南京)には歴代の南都の都があった。文帝の高言通り、隋の軍勢は揚子江を一気に渡河して陳を滅ぼし中国全土を統一した。









木鐸(ぼくたく)

木鐸

木の舌のある金属製の大きな鈴。古代中国では、政令を布告する際、この木鐸を鳴らして人民を市や村の辻(つじ)などに集め、説明をする習わしがあった。『論語』「八篇(はちいつへん)」に「天下これ道なきや久し。天まさに夫子を以(もっ)て木鐸となさんとするごとし」などとあるように、これから転じて、世論を喚起し、民衆を教え導く人物をなぞらえることばとなった。
なお、舌も金属製のものは金鐸といって、軍事に関する件の布告に用いられた。





風林火山(ふうりんかざん)

風林火山

中国の兵法書「孫子」の文章に由来する。

其疾如風()きこと風の如く)
戦闘が始まれば、攻めるべき時には風のように速やかに襲いかかり
其徐如林(しず)かなること林の如し)
兵を留めて動かぬ時には、敵の誘いを斥けて林のように静まり返り
侵掠如火(侵略すること火の如く)
形成を見極めて動くべき時は、敵の土地・軍需物資を掠めとる場合には、火が野原を焼き尽くすような勢いで猛進せよ
不動如山(動かざること山の如し)
ひとたび動かないと決心したら、敵の挑発・攻立てにも、山のように落着き自陣を堅守せよ

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【賢者】

良薬は口に苦し

良薬は口に苦し

『史記(留侯世家)』にある話

始皇帝が死ぬと、たちまち秦の天下はゆらいだ。秦討滅を目指して楚の項羽と激しく競ってきた沛公(のちの漢の高祖)は、首尾よく先陣の功を成遂げ堂々と秦都・咸陽に入城した。豪奢な宮室・華麗な帷帳・豊富な狥馬・宝物・後宮の美女たちに接して沛公の心はあやしく動いた。樊噌の忠言「耳に逆ろうとも、行ないに利あり。毒薬(薬の意)は口に苦きも、病に利あり。」の諫言に、さすがに沛公は翻然とさとり王宮を去って覇上に陣した。やがて項羽が進撃してきて鴻門に陣を張った(鴻門の会)。





【処世の巻】

【挙止】

乾坤一擲(けんこんいってき)

乾坤一擲

この語は韓愈の「鴻溝を過ぐ」という詩から出たものである。

竜疲れ虎困じて川原に割ち
億万の蒼生性命を存す
誰か君主に馬首を回らすを勧めて
真に一擲乾坤を賭するを成せる

この詩は項羽(楚)と劉邦(漢)が一線を画して天下を分有した当時を追懐したものである。
一擲:すべてのものを一度に投げ出すこと 乾坤:天と地 ⇒天下を取るか失うか、のるかそるかの大冒険を行なうこと



 

傍若無人(ぼうじゃくぶじん)

傍若無人
易水送別

戦国の世も秦の統一に帰して、のちの始皇帝が群星を圧した頃のこと、荊軻と高漸離は燕の市中でよく酒を飲み、酔えば高漸離が筑を鳴らし荊軻はこれに和して歌い、ともに愉しみともに泣いた、まるで側に人がいないようであった(傍らに人無きが若し)。荊軻は始皇帝を倒すために死を決した旅にむかい、易水の辺で高漸離と別れた。

最高音符䔥䔥(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し 壮士一たび去って(また)還らず
                              (駱 賓王)


天衣無縫(てんいむほう)

織女

郭翰という男が庭で涼をとっていると、天の一角から何ものかがふわりふわりと降りてくる。近づいて見ると、それは美しい女で訊ねると、「天上から来た織女(天女)です」という。よく見ると、いとも軽やかで柔らかく衣服には全く縫目がない。『天衣には針や糸など使いません』と答えた。
このことから、詩文や書画で小細工がなく、おのずから見事にさらりとできたものを「天衣無縫」というようになった。仙人(謫仙)といわれた李白など、まさに「天衣無縫」の詩才であろう。

一網打尽(いちもうだじん)

一網打尽

宋朝四代皇帝・仁宗の下に清廉剛直な杜衍が首相になった。当時の習慣として帝が大臣たちに相談せず勝手に恩詔を下す(内降)が行われていた。杜衍は、この習慣は天下の政道を乱すとして嫌い内降を握りつぶしていた。杜衍の行いは聖旨を勝手に曲げるとして宮廷内外から非難され、わけても恩詔を握りつぶされた者たちは杜衍をうらみ失脚のチャンスを狙っていた。たまたま杜衍の婿が公金を流用したことを知り婿を厳しく調べ上げ罪に落とした。「吾、一網打尽せり」となった(「十八史略」)。
いつの世どの国でも、やり過ぎると思わぬ穴を掘られるものである。




【交遊】

貧者の一灯(ひんじゃのいっとう)

貧者の一灯

金持ちが捧げる多くの灯明より、貧しい者が真心を込めて供える一つの灯明の方が仏は喜ぶという意味から。大事なのは量や金額ではなく、誠意の有無だという教え。『阿闍世王受決経』にある以下の故事に基づく。
阿闍世王が釈迦を招待したとき、宮殿から祇園精舎へ帰る道を、たくさんの灯火でともした。それを見た貧しい老婆が、自分も灯火をしたくてなんとかお金を工面し、やっと一本の灯火をともすことができた。阿闍世王がともした灯火が消えた後も、老婆がともした一本の灯火は朝になっても消えなかったという。「長者の万灯より貧女の一灯」「長者の千灯より貧者の一灯」、単に「貧者の一灯」とも。



呉越同舟(ごえつどうしゅう)

呉越同舟

古代中国の兵法書『孫子』第十一編「九地」に見える。その九地の最後のものを「死地」といい、進むことも退くこともならない必死の場である。
呉と越は古くから敵国であった、しかし呉人と越人とが同じ舟に乗り合わせ大風で舟が覆ろうとなったら、呉人も越人もふだんの意趣を忘れて互いに必死に助けあうであろう。最後に頼みになるのは一つに固まった兵の心である。



人生意気に感ず;

人生意気に感ず

唐の初め、まだ天下が十分に平定」していなかった頃、魏徴は40歳を越えていたが大志を懐き山東の敵・徐世勣を説き伏せて名をあげようと考え、高祖は希望を認めたので勇躍して潼関を出発した。このときの心情を詠ったもので、自分の気持を理解してくれた君恩に報い、古の節義ある士のごとき偉業を立てようという情熱に満ちたものである。
中原初逐鹿 中原 初めて 鹿を()
投筆事戎軒 筆を投じて 戎軒(じゅうけん)を事とす
縱橫計不就 縱橫の 計 ()らざるも
慷慨志猶存 慷慨の 志 ()ほ存す
杖策謁天子 策を杖つきて 天子に(えつ)
驅馬出關門 馬を()りて 關門を出づ
請纓繋南越 (えい)を請ひて 南越を繋ぎ
憑軾下東藩 (しょく)()りて 東藩を下さん
鬱紆陟高岫 鬱()として 高岫(こうしう)(のぼ)
出沒望平原 出沒して 平原を望む
古木鳴寒鳥 古木 寒鳥鳴き

                                    空山啼夜猿 空山 夜猿啼く

                                    還驚九折魂 還た 九折の魂を驚かす

                                    豈不憚艱險 ()に艱險を 憚らざらんや

                                    深懷國士恩 深く國士の恩を 懷ふ

                                    既傷千里目 既に 千里の目を 傷ましめ

                                    季布無二諾 季布に 二諾無く

                                    侯嬴重一言 (こう)(えい)は 一言を重んず

                                    人生感意氣 人生 意氣に感ず

                                    功名誰復論 功名 誰か復た論ぜん


【処世】

群盲 象を評す (「涅槃経」)

群盲象を評す

ある王、象を盲人に知らせてやりたいと思い盲人に触らせた後に訊ねた。
:立派な柱のようなものです
:箒のようです
:太鼓のようです
脇腹:壁のようです
:高い机のようです
:団扇のようです
:大きな石のようです
:大根のようなものです
:太い綱のようなものです
一部分だけ評して全体を判ったような気になるのと同様に、凡人が大人物や大事業を批評しても全体を観察し得ない場合に使われる。


【人情】

以心伝心

以心伝心

本来、禅語ですが「問わず語らず」「無言のうちに互いの心が通じ合う」「暗黙の諒解」の意味。
釈迦は迦葉尊者に、仏教の真髄は言葉や文字ではなく以心伝心で伝えよ(伝燈録)
釈迦は説法の際、手にした蓮の花を拈って弟子たちに示した(拈華微笑(ねんげみしょう)
 正法眼蔵:人間が本来そなえている心の妙徳
 涅槃妙心:煩悩を脱して真理に到達した心
 実相無相:不変の真理
 微妙法門:真理を知る心
 不立文字・教外別伝:言語・経典によらず以心伝心で伝える奥義






明鏡止水(めいきょうしすい)

明鏡止水

禅家の常套語で中国古典「壯子」の中に意味を示唆する話がある。


(徳充符篇)
 ●何ものにも動かされることのない心の静かさ、人が己の姿を水に映して見る場合には流れる水ではなく静かに止まる水
 を鏡とする。常に変わりなき不動心を保つ者だけが、他の人にも心の安らかさ与える
 ●鏡に曇りがなければ塵垢が止まらぬが、塵垢ががつけば曇りが生じる。人間も賢者といっしょにおれば心が澄んで過が
 なくなる
(応帝王篇)
 ●至人(至徳の聖人)の心は明鏡であり、物の去来にまかせて己のさかしらを働かさない。差別も執着もないからこそ
 自由自在であり得る。

明らかに垢をとどめぬ鏡と、静止して動くことなき水と、ともに燈明にして動揺なき心境を喩えた言葉である。




【友情】

桃園(とうえん)に義を結ぶ 水魚の(まじわり)

lef,桃園の義

『三国志』で有名な劉備・関羽・張飛が義兄弟の契りを結び、長兄(劉備)次兄(関羽)弟(張飛)となる。『三国志演義』物語が始まる。

三顧の礼
白帝城托孤堂

天下の趨勢は魏(曹操)・呉(孫権)・蜀(劉備)の三国に分かれたが、もっとも立ち遅れたのは劉備であった。

劉備は「三顧の礼」(草慮に三顧す)をつくして孔明(諸葛亮)の出慮を懇請した。孔明を得た劉備、その才幹に傾倒して孔明を師として敬い寝食をともにし、孔明も全能力をしぼって劉備のために尽した。
劉備は「孤の孔明あるは猶魚の水あるが如し」と云い、「水魚の交り」とは君臣の間柄の親密なことをいう。

                               三顧の礼 (44分)



【統率者】
【衆庶】

逆鱗(げきりん)

lef,逆鱗

竜は摩訶不思議な力をもつ想像上の動物で、鳳・鱗・亀と合せて四霊といい、鱗あるものの長で雲をおこし風雨を呼ぶという。中国では君主をあがめて竜にたとえる。韓非は『韓非子』(説難篇)で「竜はやさしい獣であり慣れれば乗ることもできる。だが喉の下には一尺ほどの逆さに生えた逆鱗が一枚ある。もしこれに触れれば、竜は必ずその人を突き殺してしまう。君主にも、この逆鱗があるので用心しなくてはいけない」という。



背水(はいすい)の陣

lef,背水の陣

この話は『史記(淮陰侯列伝)』と『十八史略(西漢・漢太祖高皇帝)』や『尉繚子(天官)』にある。

趙軍は河水を背に陣どっている漢軍をみて大いに嘲笑した、兵法には「山を背に水を前に戦え」とあるからだ。

しかるに漢軍が勝利して祝宴のとき武将たちは軍師・韓信に問うた。
韓信は「いや、これも立派な兵法の手だ、己を死地におとしいれて、はじめて生を得ることがある」と答えた。



先ず(かい)より始めよ

lef,燕昭王
lef,郭隗

中国戦国時代、燕が斉に討たれて領土の大半が斉に支配されていた頃、燕昭王は国威の発揚と失地の回復につとめ、とりわけ人材・異才を求めるのに熱心であった。

昭王が宰相・郭隗に国を興すに足る人材はどうしたら得られるだろうかと訊ねた。郭隗は「まず私に師の礼をおとり下さい(先ず隗より始めよ)、隗でさへあんなに厚遇されるとなれば、私より賢なる者が、なんで千里を遠しとしましょうか」

昭王もなるほどと感じて、隗のために宮殿を建て師父として礼遇した。

この故事が「手じかな私から始めよ」から転じて「言い出した者から始めよ」という意味で使われている。



【愛情の巻】

【女性・愛情】

傾国・傾城

西施貂蝉楊貴妃王昭君
西施貂蝉(架空の美女)楊貴妃王昭君
一般に中国四大美人と呼ばれるのは以上の女性たちである。
西施(春秋時代)
王昭君(漢)
貂蝉(後漢)
楊貴妃(唐)
ただし、このほかに卓文君(漢)を加え、王昭君を除くこともある。また虞美人(秦末)を加え、貂蝉を除くこともある。
卓文君虞美人
卓文君虞美人

月下氷人(げっかひょうじん)

lef,月下氷人
lef,月下草

月下の老人と氷上の人の意で、婚姻の媒酌人をいう。中国、唐の韋固(いご)という独身者が旅行中、宋(そう)城で、月下に赤い紐(ひも)の出た袋にもたれかかり読書する1人の老人に出会った。韋固がその赤紐の由来を問うと、老人は「縁結びの紐で、これで夫妻の足を結べば、どんな遠くの人でも、敵同士でも、夫婦になるのだ」と答え、韋固の未来の妻を予言した。14年後、韋固は郡主の娘と結婚したが、それは老人の予言どおりの娘であったと、『続幽怪録』が伝える。一方、晋(しん)代に索(さくたん)という名高い占い師があり、そのもとを狐策(こさく)が訪ね、「氷の上に立って氷の下の人と話をした」という夢占いを求めた。すると索は「氷の上下は陰陽であるから、それはあなたが結婚の媒酌をするという前兆だ」と判じた。

覆水(ふくすい)盆に返らず

出典:『後漢書』『拾遺記』
覆水盆に返らず




【塵世】

玉石混淆

玉石
がらくた市

玉(硬玉・軟玉)が石と入り混じっていることから、良悪・優劣・賢愚がいっしょくたになっていること。『抱朴子』(晋・葛洪)が出典。
正経(『詩経』『書経』)が道義の大海であるとすれば、諸子百家の書はそれを増し深める川の流れであり、方法が違っても同じく徳を進めることに変わりはない。古人は才能の得がたいのを嘆いて、崑崙山の玉ではないからといって夜光の珠を棄てたり、聖人の書ではないからといって修養の助けになる言を見捨てたりはしなかった。



蝸牛角上(かぎゅうかくじょう)の争い

蝸牛角上の争い
白 居易(はく きょい)「酒に対す」)
   白居易58才ころの作。この詩は連作五首中、その二番目になる。人間の一生は短いのだから、金持ちも貧乏人も愉快に過ごそうよ。なんでそ
   んな小っさな事で、こんな狭い所で角を出して争うんだ。耳の痛い人もいるのではないでしょうか。一種の人生哲学をうたったものであるが、それ
   にしても題が「酒に対す」とは面白い。白楽天らしい。第一句は韻は踏み落しとなっている。起句、承句は対句になっているが、「蝸牛角上」とか
   「石火光中」など空間的・時間的に人生のちっぽけさを、うまく比喩をつかったところが面白い。この前半二句は、『和漢朗詠集』にものっていた
   ように思う。後半では、あくせく一生を過ごすのを嘲笑している。白楽天が自分の生き方を詠っているようだ。

烏合(うごう)の衆

烏合の衆

元来、烏が集まって統制のとれていない群衆を指すが、『文選(晋紀総論)』には晋を大混乱に陥れ東遷させるのとをなした漢王劉淵らを称して「新起の寇、烏合の衆」といい、曾子の言葉をあげ「烏合の衆は始めは相歓ぶが、後には必ず相咋う」「部分なきなり」つまり寄合世帯のことだと言っている。









人間万事塞翁(さいおう)が馬

人間万事塞翁が馬

この話は『淮南子(人間訓)』などにあるが、「人間の吉凶禍福の定まり難いこと」また「人間万事塞翁が馬、推枕軒中雨を聴いて眠る」とあり、
禍福は糾える縄の如し」のサンプルです。











井の中の(かわず)

井の中の蛙

日本の俚諺「井の中の蛙 大海を知らず
「井の中の蛙大海を知らず」⇒「されど空の深さ(青さ)を知る」
「狭い世界に生きて広い世界のことを知らない」という意味のことわざですが、実は後になって「されど空の深さを知る」という続きが作られたそうです。狭い世界にいたとしても、空が雄大なことは知ることができるといいたかったのでしょう。




【思念】

邯鄲(かんたん)の夢

邯鄲の夢

唐の玄宗の頃、呂翁という道士が邯鄲(趙の旧都)の旅舎で休んでいると、みすぼらしい身なりの若者がやって来て呂翁に話しかけ、あくせくと働きながら苦しまねばならぬ身の不平語った、若者は盧生といった。やがて盧生は眠くなり呂翁から枕を借りて寝た。陶器の枕で両端に孔があいていた。盧生が孔に入ってみると、立派な家があり、盧生は清河の崔氏(唐代の名家)娘を娶り進士に合格して官吏となり、とんとん拍子に出世をしていった。
欠伸をして眼を覚ますと、もとの邯鄲の旅舎に寝ており傍に呂翁が坐っている、旅舎の主人が蒸していた黄梁(あわ)も出来上がっておらず、すべては元のままであった。盧生の「ああ 夢だったのか!」呂翁の「人生は みんなそんなものさ」、「栄辱も 貧富も 死去も すっかり経験しました、先生が私の欲をふさいで下さったものと思います、よく判りました」と呂翁にお辞儀をして邯鄲の道を去っていった。

小説『捜神記』『枕中記』『南柯太守伝』『南柯記』が同じ構想のものである。これらの説話から、栄枯盛衰のきわめて儚いことを「邯鄲の夢」「一炊の夢」「黄梁の夢」「邯鄲の枕」「邯鄲夢の枕」という言葉がうまれた。



巫山(ふざん)の夢

巫山

戦国時代、楚の国の襄王が、大夫の宋玉を伴って雲夢(うんぽう)というところで遊ぶことがあった。そのとき朝雲(高唐)の館を眺めるとその上に雲がかかっていたのだが、その雲が高く立ち上るかとおもうとたちまち形を変えるなど、またまくまにさまざまに変化する。
不審に思った王は問うた。「いったいあれはなんという雲だ。なんの意味があるのだ?」、すると宋玉が答えていうには「あれは朝雲というものでございます。
昔、先王の懐王がこの高唐の館にお出でになって遊ばれたとき、お疲れになってしばらく昼寝をなさいました。すると懐王の夢の中に一人の女性が現れてこういったのです。『私は天帝の末娘で瑤姫と申します。嫁ぐこともなく命を落としてしまい、巫山というところに祭られております。魂は草となり、身は霊芝となりました。(だから私、“男”を知りませんの) 今、王が高唐に遊びに来ていらっしゃると聞いて訪ねて参りました。どうぞ枕をともにさせてくださいませ』王はそこでその女と情を交わされたのです。
やがて帰るとき、女はこういって別れを告げました。『私は巫山の南の険しい崖のところに住んでおります。朝は雲になり、夕暮れには雨になって朝な夕な陽台(=巫山の南)であなたをお慕いしておりますわ』
王が翌朝、巫山の南の方を眺められますと、果たして女の言ったとおり、そこには雲が立ち込めていました。それで王は女を偲んで廟を立て「朝雲廟」と名づけられたのです。
この故事から男女の密会や情交を「巫山の夢」というようになった。



断腸(だんちょう)

九月十日

『世説新語・黜免』にある以下の故事に基づく。
晋の武将桓温が船で蜀に攻め入ろうとして三峡を渡ったとき、その従者が猿の子を捕らえて船に乗せた。母親の猿は泣き悲しみ、が連れ去られた子猿の後を百余里あまりも追ったが、ついに母猿は船に飛び移ったが、そのままもだえ死んでしまった。母猿のはらわたを割いてみると、腸がずたずたにちぎれていた。

菅原道真



「断腸」の語は菅原道真の詩「九月十日」で有名になった。



一日千秋(せんしゅう)

一日千秋

非常に待ち遠しいことのたとえ。ある物事や、人が早く来てほしいと願う情が非常に強いこと。一日が千年にも長く思われる意から。▽「千秋」は千年の意。「日」は「にち」とも読む。一般には「一日千秋の思いで待つ」と用いる。もと「一日三秋」から出た語。
一日千秋の出典:『詩経』王風采葛



戦々兢々(せんせんきょうきょう)

戦々兢々

この語は「詩経」の「小雅」の「小旻(しょうびん)」(小は小雅、旻は空の意)
という詩から出ている。この詩は西周も末近く、謀臣が君主に侍して、古法を無視した政治を行っていることを嘆じたもので、「戦々兢々」の語は最後の一節にある。
敢て虎を暴(てどり)にせず 虎を素手で打ちかかりもせず 敢て河を馮(かちわたり)せず 河を徒歩(かち)で渉りはせねど 人その一を知って 君臣は近きを見 その他(ほか)を知るなし 遠き禍いをわきまえず 戦々兢々として そを知るものはわななきつ 深き淵に臨むが如く 深淵に臨むごと 薄き氷(ひ)を履むが如し 薄ら氷をふむがごと

古法を無視している人々も、さすがに、「暴虎馮河(ぼうこひょうが)」のような判然と危険の察せられる政治は行っていないが、知るもの”すなわち良識のあるものは、このような政治がいずれは破綻を
きたすものと考えて、深淵に臨んでいるかのように、薄氷を踏んでいるかのように、恐れ戦(おのの)いている、という意味である。
西周末期には、周朝が拠(よ)って立っていた氏族制封建社会が、その内部的な矛盾のため、崩壊期に入り、王権が衰えて、”古法”すなわち周公(しゅうこう)旦(たん)によって制定された諸制度では天下を統治し難くなっていた。そこで、旧制を改革して新たな統治様式を生み出す必要に迫られ、新法を抱懐する”謀臣”たちが、相次いで登場したわけである。ところが、いずれの新法も、王権を伸長して諸侯の権力を抑制することを目的とするから、必然的に天子と諸侯との対立関係は尖鋭化せざるを得ず、危機感がいよいよ深刻になってきたのだ。平和な時代には、道義によって国が治まっているかにみえるが、危機には道義の背後に隠れて、眼につかなかった力と力という関係がむき出しになる。(政治とはこういうものだろうか?)かつての、道義が表面に出ていた時代を回想して、現実の力の政治に深い懐疑を抱く者が出てくるのも当然であろう。”力が正義”なのではなく、”正義が力”であることを欲する。この「小旻」という詩も、こういう倫理感情によって歌われたものである。なお、「暴虎馮河」という語も、ここから採られて成語になっており、「深淵に臨む」や「薄氷を履む」という語も成語として、危機感に迫られている心情を形容する場合に用いられている。





杞憂(きゆう)

杞憂

天地が壊れるとか壊れないとかは、われわれの知ることが出来ないものだ、どちらにも一の道理がある。生は死を知らないし死は生をしらない、将来は過去を知らないし過去は将来を知らない。
杞憂・杞人憂天という言葉は『列子(天瑞」篇)』に見え かれこれといらぬ取越し苦労をする とかいわれのない心配をする ということ。李白の詩「杞の国人は無事なれや 天の傾ぐを憂うなり」は古代人の実直さ虚心さを温かく肯定しようとする人間性がにじみでている。








【身体髪膚】

手に汗を握る

フビライ

フビライ(クビライ)


ジンギス汗の第四子の長子モンゲ汗・憲宗(元の皇帝)が治世について、趙壁を召して訊ねた。フビライ(後の世祖)は趙壁に言った「お前は全く肝っ玉の太い男だ、よからぬ者どもを斥けよと兄陛下に臆面もなく言いおって・・・ はたで聞いていた俺の方がハラハラして、思わず両手に汗を握ったぞ」『元史(両把に汗を握る)』

危険な状況・事件の成り行きなどを見聞し、怖れ危ぶんで思わず身の引き緊まる場合をいう。

千里眼(せんりがん)

千里眼

北魏の末、25歳の青年・楊逸が光州の地方長官になって赴任してきた。青年らしい素直さで千里眼をもって州の政治に心を配っていたらしい。楊逸は軍閥のあらそいのあおりを受け32歳で光州で殺された。市民や農民はその死を悲しみ、霊を弔い供花が絶えなかった。(『魏書(楊逸伝)』) 









白眉(はくび)

白眉

三国時代(魏・呉・蜀)、蜀に馬良(季常)という名参謀がいた、馬良は五人兄弟でみんな字名に常がつき「馬氏の五常」と呼ばれ五人とも利口で学問もよくできた。馬良は生まれつき眉に白い毛が生え目立ったため「白眉」とも呼ばれた。以来、数あるなかの特に優れたものを指すようになった(『三国志(蜀志・馬良伝)』)。







一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)

一挙手一投足

中国の唐の時代に、韓愈(かんゆ)という大詩人がいた。彼は苦学の末、25歳で科挙の進士科に合格したものの、名門の出ではなかったため、推薦者がいなかった。そこで韓愈は試験官に手紙を書き送った。後世の大文豪だけに、すでに堂々たる文章であるが難解であるので解釈文は以下の通り。

そのなかで彼は自分を「水を得れば風雨を呼んで大空を自由に上下することができる怪物」にたとえ「もしあなたが私を水際まで運んでくださるというなら、それは一挙手一投足の労(ちょっと手を上げ足を出すほどの労力)ですむことです」と訴えた。

この言葉は現在では細かな一つ一つの動作という意味で用いられているが、もともとはそういう意味ではなく、それは本来は「ちょっと手足を動かすだけの、ほんのわずかな労力」という意味だった。




【日常変移】

五里霧中(ごりむちゅう)

五里霧中

張楷という学者がおり『春秋』『古文尚書』に通じ。門徒は常に百人を擁し車馬が街を埋め、おともは金魚の糞のようにひきも切らなかった。宦官や皇帝の親戚たちも、彼と行き来できるように骨を折った。
順帝は詔を下し「張楷の行ないは原憲(孔子の弟子)を慕い、操は夷斉に擬す」と激賞し礼をもって迎えさせたが、病気を理由に出仕しなかった。
張楷は学問ばかりでなく道術も好み能く「五里霧を作した」、方術で五里も続く霧を起こしたという(『後漢書(張覇伝)』)。
この五里霧中=「五里霧」+「中」であり、はじめから「中」がついていたわけではない。五里も続く深い霧の中に迷い込めば、東も西も皆目判らなくなってしまう、どうしたらよいか判らず困っている、という意味に使われるが、物事の方針の見込みがたたぬ 心が迷って途方にくれることの譬えに用いられる。
黄帝が指南車を作って霧の中で方角を知り敵を破ったという、中国にふさわしい故事がある。

四面楚歌(しめんそか)

項羽と劉備

項羽(楚の覇王)は劉邦(漢王)と五年間にわたって天下の覇を争ったが「力」と「気」だけに頼って次第に劉邦に圧されて、ついに天下を二分して講和した。東へ帰る途中、垓下で漢軍の重囲に陥ってしまった。項羽は戦いに敗れ兵少なく食尽きて、夜になった。
すると何処からともなく歌声が起った、遠く近く・東西南北から聞こえてくる。それは楚の歌声だった、楚の出征兵たちは懐かしい故郷の歌声に望郷の思いから戦意を失い脱落して漢軍に下った楚の兵士たちが歌っていたのだった。





項羽と虞美人

四面楚歌・孤立無援、もはやこれまでと思った項羽は起きて帳の中に入り、訣別の宴を張った。項羽には虞美人という寵姫がおり、いつも傍を離れず、また騅という駿馬に乗っていた。項羽は虞美人が哀れであり、悲歌慷慨してみずから詩を作って歌った。
力山を抜き氣世を蓋うう 時に利あらず(すゐ)逝かず
騅の()かざるを奈何(いかん)すべき ()や虞や(なんじ)柰何(いかん)せん


虞美人草

虞美人も別れの悲しみを込め、絶え入らんばかりに和して歌った
漢兵(すで)に地を略す 四方楚歌の声
大王意気尽きぬ 賤妾(せんしょう)何ぞ生に(やすん)ぜん



虞美人の血が滴った土の上にやがて廻ってきた春、端麗な花が咲き虞美人の在りし日の姿のように優しく血のように紅く風に揺れていた。人々は虞美人の生まれかわりと想いひなげしと呼んだ。



蛇足(だそく)

蛇足

宰相は下僕に大杯一杯の酒を与え、地面に蛇を画いて一番先に出来上がった者が一人で飲むことにしよう ということで一斉に画きはじめたが、やがて一人が「俺の蛇が一番先に画けた」といって酒杯を挙げて、立ち、「足だって画けるぞ」と画き足しました(『史記(楚世家)』『戦国策(斉策)』)。
無用のことをする言葉の由来。

千載一遇(せんざいいちぐう)

駿馬

東晋の袁宏は『後漢紀』『竹林名士伝』など詩文三百篇を残したが、とりわけ有名なのは『文選(三国名臣序賛)』で、魏の苟文若を讃えた賛で

「夫れ未だ伯楽に遭わざれば、即ち千載、一驥なし」
「夫れ万歳の一期は有生の通塗、千載の一遇は賢智の嘉会なり。之に遇えば欣ぶ無き能わず之を喪えば何ぞ能く慨く無からんや」

と述べている。万年に一度・千年に一度のめぐり逢いは世にも珍しい。

流言蜚語(りゅうげんひご)

流言蜚語

「蜚」は「飛」と同意、流言蜚語とは誰云うともなく伝わる噂・根拠のないデマ・中傷侮辱するためのでっち上げ話。
『史記(魏其武安侯列伝)』が出典。



人口に膾炙(かいしゃ)

あぶり肉

「膾炙」とは、なますとあぶり肉のことで、多くの人によく知られ、もてはやされる事物を「人口に膾炙する」と称するようになった。






【慨・詠嘆】

万事(ばんじ)休す

万事休す

『宋史(荊南高氏世家)』に見える言葉。
万事休す
方策の講じようがないことで、ある事態に直面して、それに対する方策が立たない場合、思わぬ失敗をして取返しがつかない場合、など初めからどうしようもなく取りつく島もない。

万策つきる
一応あれこれの手段を講じた上で、どうにもならなくて投げ出す。




【酒食】

酒池肉林(しゅちにくりん)

酒池肉林

桀(夏の桀王)・紂(殷の紂王)の二王は古代中国における暴君淫主の典型である。彼らはともに人並み優れた才智武勇の持主であったが、その最期は稀代の艶女毒婦に魂を魅せられ理性を失い、酒色の享楽に耽溺して身を亡ぼし国を滅ぼした『十八史略』。

宮園に大きな池を掘り、池底には白砂敷詰め芳醇な香り放つ美酒が満たされ、池の周りには丘になぞらえて肉の山が築かれ、立木がわりに脯肉の林が作られた。









酒は百薬の長

酒は百薬の長

アルコール党には誠にありがたい言葉、『漢書(食貨志)』の「夫れ塩は食肴の将、
酒は百薬の長、嘉会の好、鉄は田農の本」が出典で 酒の異名「美禄」にも見られる。画像の説明

日本では『徒然草』に「酒は百薬の長とはいえ、万の病は酒よりこそ起れ、憂を忘るといえども酔いたる人ぞ過ぎし憂さををも思い出でて泣くめる・・」ともある。






【参照】⇒日本の文化 (熟語)