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左大臣「漢詩でたどる中国史」を聴く
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零丁洋を過ぐ (文 天祥)地277

文天祥

【作者】 文 天祥 1236~1283? 南宋末の政治家・文人。号は文山。江西省吉安県の人。21歳のとき状
     元(首席)で進士に及第したが、しばしば直言して免職となった。1275年、元軍が南下すると、義勇
     軍を組織して奮戦、翌年に右丞相として和平交渉に赴くが、元の丞相伯顔と口論となり捕えられ
     た。しかし脱出して再び義軍を起こし、福建・広東の各地を転戦したが、1278年捕虜となり、大都
     (北京市)の土牢に幽閉された。元の世祖・忽必烈(フビライ)はその才を惜しんで帰順させようとした
     が、天祥は応ぜず3年後ついに殺された。中国史上有数の忠誠の士である。

【語釈】零丁洋→広東省珠江の河口の海の名。「零丁」とは孤独で落ちぶれる意で地名と心情が掛っている。辛苦→苦しむこと。遭逢→めぐりあうこと。
     辛苦遭逢→国難に当って辛苦艱難に出合うこと、辛酸をなめること。起一経→五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)のうち一経。経書を勉強し
     て、進士に合格・仕官したことをいう。干戈→盾と矛。戦闘。武器をとって戦争に従うこと。落落→寂しいさま。物事の思うにまかせぬさま。四周
     星→四ケ年。絮→柳絮。柳の花。浮沈→四方に流浪するさま。萍→浮き草。中国では古来より、絮は水に落ちると萍となると伝えられている。
     皇恐灘→はやせの名。江西省万安県の江流中に18の灘(はやせ)があり、皇恐灘はその中の一つで、舟行の最も危険な所。皇恐→皇は惶に
     通じ、あわて恐れること。丹心→赤心、誠心。留取→あとに残しておく、しっかり留める。汗青→文書、書籍、歴史書。昔は紙がなく、竹を火で
     あぶって青みをとって虫害を防ぎ、うるしで字を書いたことからいう。
【通釈】経書を修めて仕官し、国難に当っていろいろな辛苦艱難に遭い、盾や矛をとって元軍と戦ったが、失敗の連続ではや四年も過ぎた。国土は元
     軍に蹂躙され、柳の花が風に乱れ漂うようであり、また自分の身も四方に流浪して、雨に打たれている浮草のようである。皇恐灘のほとりでは、
     国家滅亡の罪を恐れて説き、零丁洋を渡っては、身の零落を嘆くばかりである。 人間生まれたからには皆な死にゆくものである。どうせ死ぬな
     ら、至誠忠義の心をしっかりと世に残し、長く歴史に輝かしたいものである。
【鑑賞】進士の試験に一位で合格した者を「状元(じょうげん」」といい、男子の願望であった。文天祥は体格すぐれ色白の好男子。しかも20歳の若さで
     状元になり宰相にまで上った。まさに理想の男性である。だが彼が生まれた世は、漢民族の王朝が蒙古に滅亡させられるという苦難の時代
     であった。この苦難に敢然と立向かった文天祥は、力及ばず捕えられ処刑されたが、漢民族の代表として、「状元宰相」の誇りを胸に、従客とし
     て死んでいった。その結果、歴史に輝かしい名声を伝えることになる。人生古より誰か死無からん 丹心を留取して汗青を照さん との願望
     は、その通りになった。
【解説】国難に奔走して辛苦を嘗めたことから詠い起こし、国土と自分の悲惨なさまを述べる、後半は地名を用いて現在の心境を表し、最後まで忠義至
     誠の心を貫く決意を示して結ぶ。その詩は杜甫の影響を受け、愛国の至情を述べて沈痛悲壮である。元の世祖は「真の男子」と評したという。
     獄中での作「正気の歌」は、わが国の幕末の志士に大きな影響を与えた。藤田東湖・吉田松陰らによって多くの模擬作も作られた。
     天地正気有り 雑然として流刑を賦く ・・・・・・・ 古道顔色を照す の文天祥「正気の歌」は、「岳精会会詩?」(松口月城)にも引用されてい
     る。

涼州詞(王翰)天246

【作者】王翰 713頃?(687~726の説あり) 初唐の政治家・詩人。字は子羽。即天武皇の時代に并州(山西省太原)で生まれた。若いときから豪邁で
     才を恃んで奔放自由に振舞い、大いに酒を飲み沢山の名馬を飼い、また妓女や楽人を蓄えていた。その言動は王侯のようで、毎日英傑の士を
     集めて狩猟や音楽にうち興じていたという。24歳で進士に及第し、時の宰相・張説に認められ順調な官途が開けたようであったが、張説の失脚
     後、都を追われ最後は道州司馬に左遷され、病没。
【語釈】涼州詞→楽府題。「涼州」は現在の甘粛省武威県で玉門関や陽関のあった処。葡萄美酒→西域産の葡萄酒。漢の武帝の頃、中国に輸入され
     た。夜光杯→西域産の白玉製の杯。夜光を発するところからこの名がある。琵琶→西域から伝わった四・五弦の弦楽器で、馬上で弾ずるもの
     であった。催→ここでは杯を飲みほせと促すように弾く。沙場→砂漠、戦場。征戦→戦争に征くこと。
【通釈】葡萄のうま酒を夜光る玉杯に注いで飲もうとすると、誰か馬上で琵琶をかき鳴らす者がいる。したたか飲んで酔いつぶれ、砂漠に倒れ臥して
     しまっても、どうか笑わないでくれたまえ。昔から、こんな辺地に遠征して、何人が故郷に帰れたであろうか。
【鑑賞】この詩は王昌齢の「従軍行」(教本「天の巻」145頁)と共に唐詩の圧巻と云われている。起句でここは中国ではない西方の雰囲気で詠い出し、
     承句では慌ただしい酒盛りの様子を、転句は戦場の砂漠で、へべれけに酔った兵士の酔態を笑わないでくれという。昔からいったい何人が帰
     れたかと結び、読者に冷水を浴びせ厳粛な気持ちにさせ深い感動を与える。この結句の迫力はみごとなもの。
【解説】戦場で酒を飲み琵琶を弾いて、束の間の歓楽に酔いしれる兵士の姿をうたったもの。砂漠の冷たい感触とともに、何か冷厳なものを感じさせる
     深味のある傑作である。

夜光の杯陽関で鳴沙山
夜光の杯陽関で鳴沙山
三河岳精会第2次中国吟行会(H17.10.9~15)・敦煌での撮影

こちらも併せてご覧ください。サイトメニュー「アーカイブス」→【中国吟行会】→吟行会「敦煌・西安を巡る旅(敦煌編)」

涼州詞(王 之渙)天247

王 之渙

【作者】王 之渙(688~742)盛唐の詩人。山西省太原市に生れ、若い頃は酒を飲み、剣を振り回して侠客を気取りでたらめな生活をしていた。中年
     以降は詩文の道に励み、十年にして名を挙げたが、科挙には合格しなかった。役人としては出世せず、在野の詩人として生涯を終えた。王之渙
     は王昌齢・高適などと詩文の交わりを結び親しく往来していた。その詩風は優雅・流暢であり、楽士たちは喜んで節をつけ演奏したという。
【語釈】一片→一かけら。万仭→「仭」は長さの単位、七尺から八尺が一仭、ここでは非常に高いこと。羌笛→羌族の吹く笛、「羌」はチベット系の遊牧
     民。何須→どうして・・する必要があろうか。怨楊柳→別離の曲「折楊柳」を哀切に吹くと、聞く者を悲しませる。春光不度→西北の地は寒いので
     この玉門関まで春の光はやって来ない。玉門関→甘粛省敦煌県の西にあり、唐代における最も遠い辺境の関所。

玉門関

【通釈】黄河の上流をさかのぼって、はるか遠く白雲の漂う辺り、高く聳える山々の中に、ぽつんと城壁に囲まれ
     た砦が見える。羌人が吹く悲しげな笛の音は別れの曲「折楊柳」である。あまり哀しい曲を吹かないでく
     れ、それでなくてもここ玉門関には春の光は届かないのに。
【解説】「出塞」(塞から出撃する意)とする本もある。この詩は古来、唐詩七絶中の最も優れたものであると云わ
     れている。
     三河岳精会・第2次中国吟行会(平成17年10月9日~15日 敦煌・西安を巡る旅)で撮影

鹿紫(王維)天250

王維

【作者】王 維(おう い) 生卒年は『旧唐書』によれば699年 - 759年、『新唐書』では701年 - 761年。以降の記述は一応『新唐書』に準拠、長安元年 - 上元2年)は、中国唐朝の最盛期である盛唐の高級官僚で、時代を代表する詩人。また、画家、書家、音楽家としての名も馳せた。字は摩詰、最晩年の官職が尚書右丞であったことから王右丞とも呼ばれる。河東(現在の山西省永済市)出身。
同時代の詩人李白が”詩仙”、杜甫が“詩聖”と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から詩仏と呼ばれ、南朝より続く自然詩を大成させた。韋応物、孟浩然、柳宗元と並び、唐の時代を象徴する自然詩人である。とりわけ、王維はその中でも際だった存在である。画についても、“南画の祖”と仰がれている。


もう川荘輞川二十一景
【語釈】鹿柴:地名。川の別荘の一地点の名。鹿を飼うための垣根の意から起こる。「柴」:≒「寨」字。(「柴」字は、通常は〔さい)空山:人気のない寂しい山。秋、冬季の落葉後の寂しげな山。人語:人の話し声。響:響く。響きを言い表しながら、静かさの程度を描写している。返景:夕陽の光。日の照り返し。夕映え。「返景」は「返影」の義。深林:樹木が茂った奥深い林。復:また、ふたたび。「復-(動詞)」で語調を調える働きがあり、その義で六朝期の詩には極めて多く使われた。陶淵明の作にも多用されている。その意味では必ずしも「再び」の語義を穿鑿する必要がない。青苔:青々とした色のコケ。深林の奥深さの形容でもある。
【通釈】人気のない秋の終わりの寂しい山には人の姿が見受けられないが、ただ人の話し声だけが聞こえてくる。午後の高い日射しは、枝の葉に遮られて深い林には射し込むことがなかったが、夕刻で日が斜めに射すようになり、朝の時と同じに、また(森の中の)苔の上を照らすようになった。
【解説】「返景入深林, 復照青苔上」であって、隔句対といえる。また、この詩は返景の時刻で、日は「上る」ときではない。この詩、盛唐・皇甫冉の『山中五詠 山館』「山館長寂寂,閒雲朝夕來。空庭復何有,落日照靑苔。」に呼応している。王維と皇甫冉とは、同時代人。なお、夕陽を詠じたものでは中唐の耿の『秋日』「返照入閭巷,憂來誰共語。古道少人行,秋風動禾黍。」や晩唐の李商隱『登樂遊原』「向晩意不適,驅車登古原。夕陽無限好,只是近黄昏。」 がある。


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