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滝山城懐古(角光嘯堂)人141(未完成)

【語釈】
【通釈】
【解説】

天門山を望む(李白)天183

【語釈】天門=天門山 中断=中央から切って分ける 楚江=長江のこと 碧水=あおい水・みどりの水 相対出=両方から同じように出ている 孤帆=1そうの帆かけ舟 一片=ひとかけら・転じて小さい 日邊=太陽の方

画像の説明

画像の説明


【通釈】天門山を中央から断ち切りたように楚江が開き、青い水は東から北に向きを変えて流れる。両岸の青い山は相対して楚江にとび出し、西へ傾いた太陽の方から小さな帆かけ舟が一艘(そう)やってきた。
【解説】天門山のある安微省蕪湖(むこ)市付近では、その昔、長江(揚子江)を楚の国から流れてくるから又は楚の国を流れているから楚江と呼んでいた。天門山とは蕪湖市にある東梁山(博山望 81メートル)と西梁山(65メート)の二つの山で、ふたつ合わせて天門山という。ひとつの山が楚江によって真ん中から断ち切られ、天の門のように見えることから天門山と呼ばれています。西から東へ流れる楚江は天門山によって川幅を狭められ北へと向きを変えている。

俳句「たくほどは」(良寛)天277

良寛

【詩文】たくほどは 風がもてくる 落葉かな
【作者】省略
【通釈】私が庵で燃やして煮たきするくらいは、風が吹くたびに運んでくれる落ち葉で十分間に合うことだ。だから私にとっては、この山中での暮らしは物に乏しくとも満ち足りていることよ。

日吉神社

【解説】良寛が国上山中の乙子神社の草庵に住んでいたころ、長岡藩主牧野忠精が良寛を城下に招きたいと庵まで訪ねたが、良寛は無言のままこの句を示し、誘いを断ったという逸話がある。良寛は、山中の草庵で独り暮らしすることと、乞食をすることが、修行であると考えていたと思われるので、誘いを断るのが当然であったといえる。小林一茶に「焚くほどは風がくれたる落葉かな」の句があり、良寛は一茶の句を知っていて真似たのではという説もあるようだが、現在は良寛が一茶の句を知らないで、詠んだ句だというのが定説らしい。この句の碑が、国上山中の「五合庵」右方、三条の「日吉神社」および弥彦の「法圓寺」に建っている



早に深川を発す(平野金華)続天176(未完成)

平野金華

【作者】平野金華(ひらの きんか、元禄元年(1688年) - 享保17年7月23日(1732年9月11日))は江戸時代中期の漢学者、漢詩人。名は玄中、字は子和、通称は源右衛門。諡号は文荘先生。号は出身地陸奥国の金華山に因む。
荻生徂徠門下の1人で、不真面目で攻撃的な性格からしばしば衝突を起こしたが、その詩才は周囲にも認められた[1]。詩文面でなく、徂徠の経学面での継承も目指したが、著書が散逸しており、その具体的な思想は伝わらない。陸奥国田村郡三春城下清水谷(福島県田村郡三春町)に藩医の三男に生まれた。幼くして両親と死別し、元禄3年(1690年)、3歳から叔父の元で育てられ、一定の学問を授けられた。
宝永5年(1708年)一族の意向で江戸に出て、千田玄智に医術を学んだ。しかし、玄智の厳格な指導に対し、禁止されていた咄本を借りて玄関で読み、発見されて切り裂き燃やされる、禁止されていた囲碁を打ち碁盤を打ち砕かれるなど反抗的な行動が多く、遂に意に沿わない医業の道を断念した。医術の道を諦めた金華は、玄智を通じて知遇を得た荻生徂徠に古文辞学の教えを請うた。話は詩論に及んだが、自分の知らない事柄が多いことを恥じ、数ヶ月間全代の詩を読んで風雅の旨を理解し、それまでの詩稿を焼いて新作の詩を徂徠に見せた所、認められた。入門時期は宝永6年(1709年)から正徳元年(1711年)の間である。蘐園内では、風流を好む服部南郭と親しく通じた一方、謹厳実直な太宰春台と対立した。徂徠相手にも、林希逸『荘子』注を批判する徂徠に対し、1人希逸を擁護した。また、「隅田川の東側が日本堤だ」と語る徂徠を笑うなど、横柄な態度は変わらなかったが、徂徠は「健忘のやうなる者」としながらも大きな問題とはしなかった。
正徳5年(1715年)5月、三河刈谷藩に出仕し、後に陸奥守山藩に仕えた。固より生活のため仕官することは本意ではなく、佳節に藩主に謁見する際には衣服を新調することを布告された際、禄の少ない下級家臣には無理だと反発し、妻の新服を来て出向いたが、藩主はこれを聞いて禄を加増したという。守山藩主松平頼寛を通じて水戸学に触れ、民族主義に傾倒した。享保13年(1728年)8月、『金華稿刪』を刊行した。刊行中、宇野明霞『弾金華稿刪』に文の拙さを訂正され、これに僅かに従った。享保17年7月23日(1732年9月11日)死去した。墓所は文京区向丘蓮光寺。墓は昭和4年(1929年)5月東京府指定旧跡となった。
【語釈】
【通釈】


壇の浦を過ぐ(村上仏山)天169

村上仏山

【作者】 村上佛山 幕末~明治初期の漢詩人。豊前・京都(みやこ)郡の人。名は剛。字は大有。通称は喜左衛門。亀井昭陽、貫名海屋に師事し、郷里で塾を開く。文化七年(1810年)~明治十二年(1879年)。晩年潜蔵と改めた。
遠祖は武田信玄の後裔、福光義輝から出たといい、義輝のとき豊前 (福岡県) 京都郡稗田村に移った。六代前の祖先に子がなかったため、企救郡小森村の村上盛光を養子にし、以後村上姓を名乗るに至った。代々大庄屋を勤めたが、仏山の代になって儒学で身を立てるに至った。十五歳の折り、筑前に遊んで亀井昭陽に学び、また京都に出で、当時の名流と交わり、しだいに名をあげた。のち脚疾をわずらい、二十六歳で郷里に帰り。塾を開いて子弟に教えた。その性格は温厚和平で、学術も正統派にしてまじり気なく、日常の生活態度も親に仕えて孝心が篤く、人と交わるのに謙虚であり、権勢利欲を望まなかったから、遠方から来て学ぶ者が多く、その数千五百にのぼり、身は村里を出でずして名は天下に轟いた。門人子弟はその徳を仰ぎ、生前に碑を建てて顕彰した。仏山は白楽天と蘇東坡に最も傾倒した。その詩もその人柄に似て温厚であったが、着想が奇抜で字句を縦横自在に駆使し、およそ天地の事物で詩にならないものがなく、よくその妙を尽くしている。明治十二年九月二十七日、七十歳で没した。

壇ノ浦古戦場址

【語釈】 過壇浦→(哀しい歴史のある)壇ノ浦(山口県下関市=関門トンネルの本州側の入口附近)。寿永四年(1185年)、平氏と源氏とが壇ノ浦で最後の決戦をくり広げ、平氏一門は滅亡。母方では平氏の血を引く安徳天皇は、祖母・二位尼と母の建礼門院に導かれ、壇ノ浦に入水し、八歳で崩御した哀史の地。魚荘蟹舎雨為煙→漁夫の家が雨に煙って。魚荘蟹舎→魚や蟹をとる漁夫の家。蓑笠独過壇浦辺→蓑(みの)と笠(かさ)を身に着けた(作者)がひとりで、壇ノ浦の辺(あた)りを通った。蓑笠→蓑(みの)と(頭にかぶる)編み笠(かさ)。「蓑」は「簑」とも書く。萱、菅、藁等の茎や葉を編んで作った身に着ける雨具。ここでは蓑(みの)と笠(かさ)を身に着けた作者のことをいう。帝魂呼不返→帝魂→遥か昔の帝(みかど)の魂(たましい)は、招き寄せようようとしても、(もはや)還ってこない。千載→千年。永遠。帝魂→みかどのたましい。ここでは第八十一代天皇である安徳天皇のたましいをいう。呼不返→死者の魂を呼び戻すが、その甲斐なく帰ってこない。呼び戻せない。招魂が出来ないことを謂う。春風腸断御裳川→御裳濯川(みもすそがは)の辞世の和歌の故事(=安徳帝の身投げ)に基づく壇ノ浦近くのみもすそ川の畔に立てば、春風に腸が断ちきられるような非常な悲しみを覚える。この「御裳川」を山口県の壇ノ浦近くにある御裳裾(みもすそ)川ととるのではなく、『源平盛衰記』での二位の尼の辞世「今ぞ知る御裳川(みもすそがは)の流れには 波の下にも 都ありとは」での御裳川であって、山口県の御裳裾川ではない、との見方があるが、それに対して次のような感想を持つ。先ず、詩題『過壇浦』から考えて、作者は壇ノ浦に来たのではないか。次に、「魚莊蟹舎雨爲煙」と、海岸の情景を描写し、また、「蓑笠獨過壇浦邊」と、壇ノ浦を通ったことを述べている。更に、この後、作者は「御裳川」対して心を痛める。これが山口県の御裳裾川のことなのか、二位の尼の辞世を指すのか。(山口県の御裳裾川が、昭和になって造られたのならともかく、)詩の表現の流れで見た場合、二位の尼の辞世を踏まえた山口県の御裳裾川畔の心象風景と見るのが自然。ただ、この流れが小さい のが気がかりだが…。腸断→腸が断ちきられるような非常な悲しみを謂う。御裳川→(御裳裾川・御裳濯河・御裳濯川)(みもすそがは)を詠った辞世の和歌の内容のこと。二位の尼の辞世で、安徳天皇に対して「波の下にも都ありとは」(「波の底にも都のさぶらふぞ」)と言上したいうことばに基づく辞世の「今ぞ知る みもすそがは御裳濯河の流れには 浪の下にも 都ありとは」(『源平盛衰記・巻第四十三』(『新定 源平盛衰記』(考定:水原一・新人物往来社 1991年)第六巻33ページ)を謂う。『平家物語・先帝身投』には『あの波の下にこそ、極楽浄土とて、めでたき都のさぶらふ。それへ倶しまゐらせさぶらふぞ』と、さまざまに慰めまゐらせしかば、やまばと色の御衣に鬢づら結はせたまひて、御涙におぼれ、小さう美しき御手を合はせ、まづ東に向かはせたまひて、伊勢大神宮、正八幡宮に、御暇申させおはしまし、その後西に向かはせたまひて、おん念仏ありしかば、二位殿やがて抱きまゐらせて、『波の底にも都のさぶらふぞ』と慰めまゐらせて、千尋の底にぞ沈みたまふ。)とある。なお、御裳濯川とは、五十鈴川のことで、伊勢大神宮を流れる清流のこと。倭姫命が御裳のすその汚れを濯いだという伝説に因る名称。
【通釈】 いかにも侘しい漁師の住まいが霧雨の中にぼーっと霞んでいる。ただ独り蓑笠をまとい、ここ壇の浦の辺りを通り過ぎて行く。遠い昔安徳天皇が入水されてから、すでに千年に近い歳月を経て、いくら声を上げて帝の御魂をお呼びしても、帝の御魂は帰ってこない。いとけない御身で御裳川のお歌を詠ぜられたと聞くだけで、この浦波を渡る春風にも、腸がちぎられるほど悲しい思いに駆られる。

赤間神社

【解説】この詩は仏山が京都遊学を終えて郷里に帰る途中、壇ノ浦を過ぎての作である。現在の下関市の赤間神社にある阿弥陀寺陵は、安徳天皇の御遺体が流れ着いた所と伝えられている。



田原坂秘唱(島田 磬也)人139

島田磬也歌碑

【作者】島田 磬也 1909年6月30日 ~ 1978年11月20日)は、日本の作詞家である。戦前期、テイチクレコードでの作曲家・大久保徳二郎、歌手・ディック・ミネとのトリオは、ヒット・メイキング・チームであった。
1909年(明治42年)6月30日、熊本県熊本市に生まれる。18歳のとき上京し作詞家・詩人の西條八十の門下に入る。同じく作詞家のサトウ・ハチローとは兄弟弟子にあたる。
←島田磬也歌碑
1934年(昭和9年)、「主婦の友」連載小説「地上の星座」主題歌募集に一等当選。師である西条八十と共に作詞した「川原鳩なら」(歌:藤山一郎)で作詞家デビュー。1937年(昭和12年)、上原敏歌唱の『裏町人生』は大ヒットとなる。大久保徳二郎、ディック・ミネと組んだ楽曲で一世を風靡した。尚、ミネが1953年に島田の作詞曲『長崎エレジー』を第4回NHK紅白歌合戦にて歌唱している。
映画においては、1939年(昭和14年)12月14日に公開された日活京都撮影所作品、オペレッタ時代劇の『鴛鴦歌合戦』の構成と作詞を、作曲の大久保徳二郎とともに担当した。戦後も石原裕次郎が島田が作詞したミネの楽曲をカヴァーし、ふたたびヒットする。また1959年(昭和34年)に村田英雄がリリースした『黒田武士』(作曲者不詳)の作詞をするなどして活躍。戦中戦後を通じてのヒットメーカーのひとりだった。
1966年(昭和41年)、『孤情の詩旗』(南北出版サービスセンター)を上梓する。晩年は若い頃より趣味としていた詩吟の普及・指導にも勉めた。1978年(昭和53年)11月20日に死去。69歳没。

田原坂地図

【解説】明治10年3月4日から3月20日までの17日間にわたり、西南の役最大の攻防戦が田原坂において繰り広げられた。田原坂(たばるざか)は、熊本県熊本市北区植木町豊岡一帯の地名。西南戦争の古戦場。また同地に因んだ民謡の曲名でもある。
西南戦争を歌った「田原坂」
雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂
右手に血刀左手に手綱、馬上豊かな美少年

田原坂薩摩軍兵士官軍兵士雨は降るふる・・
田原坂薩摩軍兵士官軍兵士雨は降るふる・・

西南戦争については一声の仁(西郷南洲)」も参照して下さい

独柳(杜牧)天187

杜牧

【作者】杜牧 晩唐の詩人。八○三年(貞元十九年)~八五二年(大中六年)。字は牧之。京兆萬年(現・陝西省西安)の人。進士になった後、中書舍人となる。杜甫を「老杜」と呼び、杜牧を「小杜」ともいう。李商隠と共に味わい深い詩風で、歴史や風雅を詠ったことで有名である。
【語釈】独柳→ぽつんと一本だけあるヤナギ。含煙一株柳→(豊かに葉が繁って)靄のたちこめた一本の柳(は)。含→たちこめる意。 煙→霞(かすみ)や靄(もや)。柳→ヤナギ。女性を暗示する。拂地搖風久→枝が風にゆられて、地面を掃き払うようなさまになっているのが長い。拂地→柳の枝が風にゆれて、地面を掃き払うようなさまを謂う。久→長い。佳人不忍折→美しい女性は(愛しい男性との別離を表す柳の枝を)折るのに忍びなく。立派な男性たるもの、(あまりにも可憐な女性を)手折(たお)るに忍びなく。佳人→美しい女性。忠義の臣。不忍→忍びない。耐えられない。折→(花(=女性)を)折る。中国や日本の四字熟語にある「折花攀柳」〔せっくゎはんりう〕(花を折り、柳によじのぼる意で、花柳界で遊ぶこと)の意。なおまた、「折楊柳」の意(別れる)もあるが、それは別離を惜しむ旧習に基づく。ここは、前者の意。不忍折→手折(たお)るのに忍びない。悵望回纖手→(佳人(=美女)は)恨めしげに(愛しい人が去っていった遠くを)見やって、か細い手を(柳の枝から)翻(ひるがえ)し、返した。(男性(=作者)が)恨めしげに、か細い女性の手を見やって、(女性の手に)回した。その場合、「悵望して纖手に囘らす」と読む方がよい。悵望→恨めしげに見やる。また、悲しくながめる。ここは、前者の意。回→かえす。まわす。めぐらす。また、めぐる。「回纖手」での「回」意は表裏で大きく異なるが、ここではその双方の意。纖手→か細い女性の手。

独柳

【通釈】春のかすみがけぶるように、ぼんやりとかすんでいる柳の枝。その柳の枝は、地面を払うようにやさしく春風に揺れ動いている。美しき人はその枝を折ろうとして折るに忍びず、その細くしなやかな手を戻して、悲しげに遠くの方をを見やっている。



短歌「田子の浦ゆ」(山部赤人)天252

【作者】山部赤人 生没未詳 奈良時代初期・聖武天皇に従駕した宮廷歌人。三十六歌仙の一人。旅の歌・叙景歌に優れる。万葉集」に四十九首を
     残す。後世、柿本人麻呂とともに「歌聖」とか「山柿」と称される。
【意味】田子の浦から見晴らしのいいところへ出てみると、真っ白に富士の高嶺に雪が降り積もっているのであった。(万葉集・巻三・三一八)

富士山

【解説】ふだん都に住む赤人にとって、超然と聳え立つ富士の姿は、神々しく崇高に感じられたことであろう。格調
     のある歌である。「ゆ」は経過点を示す上代の助詞で、田子の浦で富士を眺めているのではない。
     この万葉集の原歌に対して「新古今集」では

     田子の浦 うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ

     同一作者なのに「万葉集」の歌が降雪後の景色であるのに対して、「新古今集」では降雪の景色である。
     静と動の差が面白い。感動を率直に実感的に歌う万葉調と、想像の世界の美しさを歌う新古今調との違
     いがわかる。富士山頂にまさに雪が降りつつあるのを、田子の浦から眺めていることになる。「田子の浦」から富士までの距離を思えば、山に降
     る雪が直接見えたとは考えにくい。イメージの写象に相違なく、「虚実皮膜」の秘密が古歌にも隠されている。

千曲川旅情の歌(島崎藤村)人153

島崎藤村

【作者】島崎藤村(明治5年 ~ 昭和18年)長野県山口村(馬籠)出身。本名春樹。生家は、中山道馬籠宿の、 
     本陣 庄屋・問屋も兼ねた。上京して明治24年明治学院(現明治学院大学)卒業。 仙台の東北学院教師
     時代、詩集「若菜集」を出版。我が国の近代叙情詩の創始者として名声を得た。明治学院時代の恩師
     木村熊二に招かれ、明治22年信濃の小諸義塾に赴任した。 小諸時代に作家に転じ「破壊」によって
     その地位を確立した。「春」で自伝的小説へと向かい、田山花袋らと共に自然主義文学の方向を決定し
     た。晩年の長編「夜明け前」では、幕末・明治維新を生きた父島崎正樹の生涯を描いた大作である。。こ
     の「千曲川旅情のうた」は、藤村の代表作として親しまれてきた詩でであり、小諸時代の藤村が、千曲川
     の旅情を詩情豊かに歌い上げたものである。広田瀧太郎がつけた曲が有名である。
【語釈】小諸→ 長野県北佐久郡の町。現在の小諸市。古城→ 維新前は牧野氏一万五千石の居城。現在は
     懐古園という公園になっている。遊子→ 旅人。はこべ→ なでしこ科の越年性草本。春の七草の一つ。
     藉くによしなし→ 藉くすべもない。しろがね→ 銀色。雪におおわれたさまの形容。衾→夜具。浅間→ 浅間
     山。佐久→ 小諸を中心とする郡の名。いざよふ→ 進みもせず退きもせず、ためらうこと。濁り酒→ 精製
     しないで白く濁った下級の地酒。どぶろく。草枕→ 旅。旅情。

千曲川

【通釈】旅人が小諸にある古城のほとりで、白い雲を見上げて悲しんでいる。野にいながら緑になるはこべは
     萌えず、若草も腰を下ろすのに十分でない。雲で柔らかく白く輝く丘のあたりは、日が差すので残雪も細い
     流れを作っている。日差しは少しは暖かくなってきたが、香り立つほどではない。春霞が浅くかかっている
     だけで麦の色はわずかに青い。旅人が2~3人、3~4人と畠の中の道を急いでいるのが見える。夕暮れ
     てきたので浅間山も見えなくなり、とおく草笛の音が哀しく聞こえてくる。千曲川の岸に近い宿屋に入って、
     どぶろくを飲んで旅の心をわずかに慰めるのである。

【鑑賞】島崎藤村は、旅人を虚構化された自分としてこの詩を書いています。季節は春で、晩冬というよりは早春をあらわしています。ここでは、旅人が
     季節は春だと思っているけれども、はこべが萌えなかったり、若草も十分にないという失望した気持ちがあらわれています。しかし、わずかだが
     淡雪が溶けているという春の予感を感じ、旅人は期待の気持ちをもっています。旅人の群れがいくつか畠の中の道を急いでいるのが見える。
     この旅人の群れは道行く行商人などの人々で、次の宿場に日が暮れる前につきたいから急いでいる。時間的にはまだ夕方になっていないので
     昼間だが、夕方になったので浅間山も見えなくなった。旅人は千曲川を見たら波が漂っていて自分も漂っている気がして哀しくなってくる。
     この詩の全体をみてみると、旅人の旅愁があらわれている。旅をしていて旅人は期待に対する失望や哀しみをもっている。しかし、失望して
     はいるけれども本当は早くはこべが萌え、若草も十分に生え、野には香が満ちてほしいという願望があるので、それを強調するために打ち消し
     で表現している。
【解説】明治38年に発行された「落梅集」が初出。 同詩集冒頭に収められた『小諸なる古城のほとり』、後半の『千曲川旅情の詩』(昨日またかくてあ
     りけり 今日もまたかくてありなむ……)を、後に藤村自身が自選藤村詩抄にて『千曲川旅情の歌一、二』として合わせたものである。

中 庸 (元田東野)天173

元田東野

【作者】元田東野 文政元年(1818)~明治二四年(1891) 幕末・明治の漢学者、男爵。他に茶陽・東皐(とうこう)・猿楽・樵翁
     (しょうおう)などの別号もある。熊本藩士の子として生れる。10歳にして漢籍を村井次郎作について学び、翌年藩校
     時習館に入った。20歳で時習館居寮生となり、当時の塾長・横井小楠に師事した。40歳で家督を相続し550石を禄
     した。明治四年宮中に召されて累進し、明治天皇の侍講となった。帝国憲法・皇室典範の成案に参画し、天皇の勅命に
     より教育勅語の草案に預かった。74歳で病没
【語釈】中庸→中正で、行き過ぎや不足のないこと。文明→明治維新により開国した日本は、西洋文明を無批判に受け入れ、
     追いつかなければならなかった。万機→政治上の多くの事柄。
【通釈】勇気を頼み腕力を誇る者は、粗暴と無分別によって身を滅ぼしてしまう。文明だといって文明開化に心酔している者は、自国の伝統を忘れてし
     まっている。君に是非とも勧めたいことは、儒教で云うところの「中庸」をしっかりと心に持ち、不偏中正の道を選び行動することである。天下の
     あらゆることは、全てただ一つ誠によるのであるから、それを失ってはならない。
【参考】 《論語》に「孔子の云われるには、過ぐることもなく又及ばざることもなく、平常にして終始変わることなきの徳は、至善にして以て加うること
     なきなり。而るに世衰え道微にして教化興らず。賢者は之に過ぎ不肖者は及ばず。故に此の至徳を能くする者少なきこと、古より今に到るまで
     已に久きは、歎かわしきことならずや」とある。元田東野は復古と維新のいずれにも偏せず、中道を以て明治の新時代を開いた思想家である。
     単に保守的で大局の掴めない朱子学者ではなく、時勢を大観し、その病弊を矯正して明治天皇の教育に尽くし、「誠」の一字を以て生涯を貫い
     たのである。菊花の宴で明治天皇より「菊花よりも老いたる元田を愛す」とのお言葉をいただいた。

早に白帝城を発す(李白)天180

李白

【詩文】(あした)()白帝(はくてい)彩雲(さいうん)(かん)   千里(せんり)江陵(こうりょう)一日(いちじつ)にして還る(かえ)
     両岸(りょうがん)猿声(えんせい)()いて()まざるに   軽舟(けいしゅう)(すで)()万重(ばんちょう)(やま)

【作者】李白 701 ~ 762年、中国盛唐の詩人。字は太白(たいはく)。号は青蓮居士。唐代のみならず中国詩歌史上において同時代の杜甫とともに最高の存在とされる。奔放で変幻自在な詩風から、後世「詩仙」と称される。李白の生母は太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ、名前と字はそれにちなんで名付けられたとされる。5歳頃から20年ほどの青少年期、蜀の青蓮郷を中心に活動した。この間、読書に励むとともに、剣術を好み、任侠の徒と交際した。25歳の頃、李白は蜀の地を離れ、以後10数年の間、長江中下流域を中心に、洛陽・太原・山東などの中国各地を放浪する。自然詩人孟浩然との交遊はこの時期とされ、名作「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」が作られている。32歳の時、安陸県(湖北省)の名家で、高宗の宰相であった許圉師の孫娘と結婚し、長女李平陽と長男李伯禽という2人の子が生まれている。長安に滞在して仕官を求め、友人元丹丘の尽力により、玄宗の妹で女道士となった玉真公主(持盈法師)の推薦を得て長安に上京した。玄宗への謁見を待つため紫極宮(老子廟)に滞在していた折り、当時の詩壇の長老である賀知章の来訪を受け、この時彼から名高い「謫仙人」の評価を得ている。このように宮廷で有力な影響力を持つ2人の推薦を得て、李白は宮廷の翰林供奉(天子側近の顧問役)として玄宗に仕えることになる。以後の3年間、李白は朝廷で詩歌を作り、詔勅の起草にもあたった。この時期、楊貴妃の美しさ牡丹の花にたとえた「清平調詞」三首などの作品が作られ、宮廷文人として大いに活躍している。だが、抜群の才能を発揮する一方で、杜甫が「李白一斗 詩百篇、長安市上 酒家に眠る。天子呼び来たれども 船に上らず、自ら称す 臣は是れ 酒中の仙と」(「飲中八仙歌」)と詠うように、礼法を無視した放埒な言動をつづけたことから宮廷人との摩擦を引き起こし、宦官高力士らの讒言を受けて長安を離れることとなった。長安を去った李白は、洛陽もしくは梁・宋(現河南省開封市・商丘市)で杜甫と出会って意気投合し、1年半ほどの間、高適を交えて山東・河南一帯を旅するなど彼らと親しく交遊した。また阿倍仲麻呂とも親交があり、仲麻呂が日本への帰国途中、遭難して死去したという知らせ(誤報)を聞き、「晁卿衡を哭す」を詠んでその死を悼んでいる。安史の乱の勃発後、李白は廬山(江西省)に隠棲していたが、玄宗の第16子、永王李璘の幕僚として招かれた。だが永王は異母兄の粛宗が玄宗に無断で皇帝に即位したのを認めず、粛宗の命令を無視して軍を動かしたことから反乱軍と見なされ、高適らの追討を受けて敗死した。李白も捕らえられ、尋陽(現江西省九江市)で数ヶ月獄に繋がれた後、夜郎(現貴州省北部)への流罪となった。配流の途上、白 帝城付近で罪を許され、もと来た道を帰還することになる。この時の詩が「早に白帝城を発す」である。赦免後の李白は、長江下流域の宣城(現安徽省宣城市)を拠点に、再び各地を放浪し、宣州当塗県の県令李陽冰の邸宅で62歳で病死した。有名な伝説では、船に乗っている時、酒に酔って水面に映る月を捉えようとして船から落ち、溺死したと言われる。

白帝城
白帝廟

【語釈】白帝城→後漢の頃、公孫述が白帝と称して築いた城。現重慶市奉節県。その後、三国志の劉備元徳が亡くなったことで有名になりました。呉の陸遜に追い詰められた劉備軍はこの白帝城にこもり、劉備はそのまま病没します。現在はダムができたため、浮島になってしまいました。山頂には劉備を記念する白帝廟があります(「山頂」ていっても船着場から15分くらいで上れますが)。三峡下りの起点です。三峡は険しい渓谷がつらなり猿が多いことで有名です。「峨眉山月の歌」も、三峡下りを歌った詩です。「早発白帝城」とは対になってる感じです。彩雲→朝焼けの空に五色の雲がたなびいている様子。江陵→長江の下流。三峡を抜け、下ったところにある湖北省の都市。現在の荊州。唐の時代は荊州の州役所が置かれ、要衝の地でした。魚玄機「江陵愁望有寄」など。両岸猿声→長江を挟んだ両側の崖から、猿の声がするのです。この猿はキャッキャと可愛いニホンザルではなく、もっとゴツいやつ。キキーキキーと強烈な声を発します。軽舟→軽やかな小舟。万重の山→幾重にも重なった山々。白帝城から江陵までは実際には千里どころか千二百里あり、一日では行き着けないのですが、そこを「一日で行った」と言い切るところがスピード感というモノです。
【通釈】朝焼けの空に五色の雲が美しくたなびく中、白帝城を出発し、千里先の江陵まで一日がかりで戻ってきた。両岸から聞こえる寂しげな猿の声がなりやまぬうちに、私の小さな舟はもう幾万にも重なった山々を通り過ぎてしまう。
【解説】作詩時期については諸説あり、結論が出ていません。
1.李白が故郷を出る25歳の頃
2.永王李リンの乱に荷担した罪で夜郎に流されかけるが恩赦で許された59歳の頃
3.三峡下流の湖北省安陸に安住していた27-37歳の頃

犬山城

愛知県の犬山城には「白帝城」の異名があります。この「早発白帝城」にちなんで荻生徂徠が命名しました。





登高(杜甫)地201

【作者】杜 甫(712~770)盛唐の詩人。李白とともに唐代最高の詩人。初唐の詩人・杜審言の孫で、洛陽に近い河南省鞏県の生れ、湖北省襄陽県の
     人。若い頃は諸国を遊歴し、李白・高適と交わり詩を賦したりしている。長安に出て科挙を受験したが及第せず困窮の生活を送った。安禄山の
     反乱軍に捕えられ長安に軟禁されて、「春望」を詠じたのが757年46歳の時である。翌々年(759)蜀道の険を越えて成都に到り浣花渓のほとり
     に草堂を建てて住んだ。この時期が、杜甫の一生のうちで比較的平穏であり、竹木を植え酒を飲み詩を詠い、農民たちと往来した。蜀の地が乱
     れたため、また貧と病に苦しみながら各地を流浪し、不遇のうちに生涯を終えた。
【語釈】登高→中国の年中行事の一つ、陰暦九月九日に高い所に登って菊酒を飲み厄払いをする。猿嘯→猿の鳴き声。無辺→果てしない。一面の。
     落木→落葉のこと。蕭蕭→ざわざわと。不尽→いつまでも流れて尽きない。滾滾→水のあとからあとから流れる形容。万里→故郷から万里も離
     れている。百年→生涯。死ぬまで。多病→病気がちなこと。繁霜鬢→びんの毛が真白になったこと。停→やめる。

登高

【通釈】高殿に登って辺りを見渡すと、秋風は激しく吹き、空は高く晴れ渡っ
     て、猿の鳴き声がもの悲しく聞こえてくる。下を見ると、なぎさの水は
     清く澄み、岸の砂は白く、その上を鳥が飛びまわっている。あたり一
     面の落葉はざわざわと地に落ち、尽きることのない長江の水はこんこ
     んと流れ下っている。故郷から万里の地に在って、秋を悲しみながら
     いつも旅人の身の上、死ぬまで病気がちの身を、たったひとりで高殿
     に登っている。今まで多くの苦労を重ねたために、鬢の毛が真白にな
     ったのがうらめしく思われる。老いさらばえた私は、この頃体の具合
     が悪く、独り酒を飲むことさえやめてしまった。


【解説】重陽の節句の日に高殿に登って作ったもの。作者56歳、四川省奉節県に滞在中の作。前半は高殿に登って眺めた秋の風景を述べ、後半は一
     転して自分の放浪の生活と老病の悲しみとを詠って結ぶ。

宝船(藤野君山)天166

【作者】藤野君山 生没年不詳 帝都賜菊園学会長。愛媛県生。名は静輝。太政官を勤めた後、歴史研究のため各地を周遊した。詩歌・文章・俳吟を能くし、書画にも秀でた。帝都賜菊園学を興し、故実・口伝等を後進に伝え、また乃木希典らと親交した。

宝船

【語釈】宝船→七宝などの宝物や七福神を乗せた帆掛け船を描いた紙の縁起物。回文歌(上下どちらから読んでも同じ歌)“なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな”が書き添えてある。これを正月二日の夜、枕の下に入れて寝ると、いい初夢を見るという。この風習は室町時代から始まったといわれている。寿海→「寿山福海」の略で人の長寿を祝う言葉。海。おめでたい詩なので寿海。紅旭→真っ赤な朝日。宝字錦帆→「宝」という字を大書きしてある錦で作られた帆。七福→俗に福徳の神と称される七神。日本・中国・インドの三国の人物を集めたもので、大黒天・恵比須・毘沙門天・弁財天・布袋和尚・福禄寿・寿老人の七福。
【通釈】寿海は波もなく穏やかで、真っ赤な朝日が鮮やかに上ってきた。遥か海上の彼方に「宝」という字を書いた錦の帆を揚げた船が見える。一緒に乗っている七福神が皆、笑みを浮かべている。これこそあの金銀珠玉を満載した宝船である。
【解説】作者が、ある銀行家の依頼によって作ったものといわれている。「寿海」「紅旭」「宝」「錦」「七福」「金銀」「珠玉」とおめでたい言葉がふんだんにちりばめてある。結婚・誕生・長寿・進学・卒業・大願成就などの祝事の席でよく吟じられる。内容よりも詩全体の雰囲気を感じ取ればよい。

東欄の梨花(蘇軾)天184

【作者】蘇軾 1036~1101 北宋最盛期の詩人・文章家・政治家。北宋の文章家蘇洵の長子で、弟が蘇轍。洵・轍と合わせて三蘇という。号は東坡。父は諸方に遊学がちで、蘇軾は10歳のころ母から学問を受けた。20歳のとき父に従って弟とともに都へ出、翌年兄弟そろって進士に及第。王安石の新法に反対し何度も辺地に流されている。蘇軾は儒・仏・道のいずれにも通暁し、詩文はいうまでもなく、書画もよくした。その詩は平易流暢・変化自在で、特に七言に長じている。

梨の花

【語釈】東欄の梨花→密州の知事官舎の東側の欄干の傍らに咲いていた梨の花。柳絮→柳の綿のような白い花。惆悵→悲しみ嘆く様子。一株の雪→一本の梨の花を雪にたとえたもの。清明→二十四節気の一つ、春分から15日目、陰暦の3月、陽暦4月5~6日頃。
【通釈】梨の花はほのかに白く、柳は濃い緑色。柳の綿が春風に飛ぶ頃は、花が町中に咲き誇って一番良い季節である。あの東側の欄干の傍に、雪のように白く咲いていた一本の梨の花を思うにつけても、私は胸がいたむのである。この短い我が人生で、これから何回このように素晴らしい清明の季節の景色を見ることが出来るのであろうか。
【観賞】無常迅速、そぞろに物の哀れを感じせしむる詩句である。「梨花」を主、「柳絮」を客とし、「花満城」に対する転句の「一株雪」で梨花を回顧し、感慨をこめて詠い収めている。梨花は最も遅れて散る花で、散るべき花が無くなる頃、楊柳の綿が雪のように晩春の空に舞う時、これと一緒に散る。まさに好個の風物詩である。孔密州の「東欄梨花」と題する詩に、韻を合わせて作ったもので、人生の無常を歌った。詩題は「孔密州の東欄の梨花に和す」または「孔密州の五絶に和す東欄の梨花」ともいう。孔密州は蘇東坡に代わって高密(山東省)の太守となった孔宗翰(こうそうかん)である。

短歌二首「露おかぬ」「我が庵は」(太田道灌)続天267

太田道灌

【作者】太田道灌 1432~1486 太田資清の子。名は資長。のちに剃髪して道灌と号した。扇谷上杉定正の執事
     として仕えたが、その能力が主人をこえていたので、しばしば問題を起こした。そしてこれが原因で、つい
     に主人定正に暗殺される。軍事家で文学者。江戸城の築城でいまも有名。東京では開発の恩人とし、都
     庁前や新宿の中央公園に銅像をつくって顕彰している
【和歌】 露おかぬかたもありけり夕立の 空より広き武蔵野の原
      我が庵は松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端にぞ見る

【解説】道灌には数多くの和歌が残っている。戦の陣にあっても和歌を作り、その詠草を京都の公家、飛鳥井中
     納言雅世郷へ送り添削を乞うたという記録があり、その熱心さが知られている。戦乱の最中にありながら
     歌を詠み
、心の平静を保つことができる精神力のすごさに感心させられる。ここでは道灌が1464年に上洛した際、将軍足利義政に会い、その後宮中に招かれて後土御門天皇に拝謁した際に、道灌が即興で歌で答えたやりとりである。
天皇が「武蔵野はどんな所か」と問うと、道灌は「露(つゆ)おかぬ かたもありけり 夕立の 空より広き 武蔵野の原」と答えている。空より広き武蔵野の原とは見事な表現である。
次に天皇が「江戸城からの眺めはどうか」と問うと、道灌は「わが宿は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒ばにぞ見る」と答えた。当時の江戸城はすぐ近くまで海であったこと、霊峰と呼ばれていた富士の見える見事な景観であった事が分かる。
鎌倉大日記に書かれているこれらの場面は、どこまでが本当かわからないと言われているが、
道灌の和歌のレベルの高さを示すものと云えよう。

俳句「とんぼつり」(千代女)天279

加賀の千代

【作者】千代女 1703(元禄16年) ~ 1775(安永4年)俳人。号は草風、法名は素園。千代、千代尼などとも呼ば
     れる。朝顔を多く歌っていることから、出身地の松任市(現白山市)では、市民への推奨花の一つに朝顔
     を選んでいる。 白山市中町の聖興寺に、遺品などを納めた遺芳館がある。加賀国松任(今の白山市)で、
     表具師福増屋六兵衛の娘として生まれた。幼い頃から一般の庶民にもかかわらず、この頃から俳諧をた
     しなんでいたという。12歳の頃岸弥左衛門の弟子となる。17歳の頃、諸国行脚をしていた人に各務支考
     (かがみしこう)が諸国行脚してちょうどここに来ているというのを聞き、各務支考がいる宿で弟子にさせて
     くださいと頼むと、「さらば一句せよ」と、ホトトギスを題にした俳句を詠む様求められる。千代女は俳句を
     夜通し言い続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明にけり」という句で遂に各務支考に才能を認められ
     る。その事から名を一気に全国に広めることになった。1720年(享保5年)18歳のとき、神奈川大衆免大
     組足軽福岡弥八に嫁ぐ。このとき、「しぶかろかしらねど柿の初ちぎり」という句を残す。20歳の時夫に死
     別し松任の実家に帰った。30歳の時京都で中川乙由にあう。画を五十嵐浚明に学んだ。52歳には剃髪
     し、素園と号した。72歳の時蕪村の玉藻集の序文を書く。1775年(安永4年)73歳で没。辞世の句は、「月
     も見て我はこの世をかしく哉」。1,700余の句を残したといわれている。「起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さ
     かな」が千代女の句として広く流布しているが、実は千代女の作ではなく、彼女以前に元禄時代の浮橋と
     いう遊女が詠んだ句である。
【通釈】わが子がとんぼ取りに出掛けたが、夕飯時にも帰らない。さて今日はどこまで行ったのかと、待ち侘びる優しい母であるよ。
【解説】口語がよく利いて、永遠の母と子の姿の原型を示した名吟である。生前から高名だった千代女は、さまざまな俗説・誤伝が多い。季語→蜻蛉
     (とんぼ)(秋)

短歌「時にあわば」(佐久間象山)天267

佐久間象山

【作者】佐久間 象山(さくま しょうざん(ぞうざん))は、1811年3月22日~1864年8月12日 江戸時代後期の松代藩士、兵学者・思想家。松代三山の一人。通称は修理、諱は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。贈正四位。象山神社(左下写真)の祭神。長野生まれ。実名は国忠のちに啓、号は象山。父は松代藩の祐筆。天保4年(1833)に江戸へ出て佐藤一斎の私塾に入るが、3年後には松代に帰る。10年(1839)江戸に塾を開く。老中となった藩主真田幸貫より海外事情の研究を命じられ13年(1842)に「海防八策」を上書。安政元年(1854)吉田松陰の事件に連座して松代に蟄居。文久二年(1862)赦免。元治元年(1864)幕府の命を受けて上洛し開国論を主張したが、尊皇攘夷派によって暗殺される。象山は松代藩の下級武士の出であり、若年期に経学と数学を学んだ。とりわけ象山は数学に興味を示し、熱心に学んだ。若年期に数学の素養を深く身に着けたことは、この後の彼の洋学吸収に大きく益した。
←象山が自作したカメラで撮影した自画像
【語釈】盛りのみかわ→副助詞「のみ」は「~だけ」「~ばかり」、強調の意。「かわ」は助詞「か」に詠嘆の助詞「は」が付いたもの、文末では反語の意を表す、「~だろうか、いやそうではない」。
【通釈】桜の花は時がくれば散ってしまうのもまたよい。誉めたたえるのは花が咲き誇っているときだけではない,今を盛りに割きほこっているときだけではない、散り際の潔さも肝心なのだ。人間の生き方を桜にたくして述べているのだろう。

象山神社

【解説】元治元年(1864)幕府の命を受けて上洛する直前に詠んだもの。上洛当時の京都は攘夷論者の巣窟で騒然としていた。そのような中へ公武合体開国論者の象山が飛び込めば、命を狙われるのは明らかな情勢だった。自身の命を賭した行動、自身の死が世の人に大事を悟ってもらえるところとならば、一命なにか惜しからんという心情を謳ったもの。出店(長野市松代町の原 淳造家蔵)では『折にあへば散るもめでたし山ざくらめづるは花のさかりのみかは』となっている。
【参考】象山の号は近隣の黄檗宗象山恵明禅寺に因んだとされる。その呼称については、一般に「しょうざん」地元では「ぞうざん」と呼ばれており、弘化2年(1845)に象山自身が松代本誓寺への奉納文書に後の人我が名を呼ぶなばまさに知るべしとして、反切(はんせつ)法(漢字二文字で漢字音を表す方法で、漢字音を子音と母音に分解して表示する方法)を用いて「しょうざん」と呼ぶように書き残している。

長城(王遵)天175

【作者】王遵 生没年不明 晩唐の詩人。年少の頃より地方の小吏となったが、後役人をやめ科挙に応じて進士に及第した。小吏の時代は、書物も借りなければならない程の貧乏であったが、刻苦精励して人が気がつかないうちに博学多識の人となっていた。王遵は特に絶句に長けていて、ほとんど詠史諷世を主題としたものである。
【語釈】長城→万里の長城。秦の始皇帝が匈奴の侵入を防ぐために築いたもの。鉄牢→鉄製の牢屋。蕃戎→野蛮な異民族。匈奴。臨洮→地名。現在の甘粛省岷県。秦の長城は西の起点がこの臨洮であった。逼→近づかず。焉知→しかしながら。だが。連雲勢→雲に連なるほどの勢い。不及→及ばない。堯階三尺→堯の宮殿の階段は三尺しかなかった。質素なこと。

万里の長城

【通釈】秦の始皇帝が築いた万里の長城は鉄の牢獄に比べるほど堅かった。それだから、匈奴も臨洮にまで近づくことはなかった。だが、万里も連なって雲に接するほどの勢いの長城も、あの古代聖王堯の宮殿の階段の三尺の高さに及ばないとは誰が知ろう。
【観賞】始皇帝は天下統一をしていろいろな大事業をおこしたが、万里の長城はその最たるものである。前半の二句は万里の長城を築いたことで異民族がやって来なくなったことを詠っているが、この詩のポイントは後半にある。始皇帝の長城と堯帝の宮殿とを「万里」と「三尺」という数を対比させている。この発想が見どころで、おもしろい。万里の長城を築いた秦は十五年で滅びた。外の敵を防ぐよりも中の政治のほうが大事じゃないか、と力だけで政治をしようとする始皇帝のやり方を痛烈に批判しているのである。作者の当時の唐王朝の衰勢に対する批判が込められている。
【解説】万里の長城にことよせて、政治のあり方を詠じたものである。


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